エセー Les Essais

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1130夜:輪廻転生と諸法無我の矛盾について悩んだ顛末記

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転スラにハマってます。

SNSで交流のある一部の方には相談していたんですが、輪廻転生と諸法無我という仏教の二大概念の矛盾に悩んでいました。
私は知らなかったのですが、この問題、結構有名な問題であったらしく、「輪廻転生 諸法無我」でウェブ検索すると295,000件の検索結果が出てきました。
「輪廻転生」は簡単に言うと生まれ変わり。
ざっくりしすぎかも知れませんが、大きく会通すれば死んでも終わりじゃないという考え方。
信じるか信じないかは別として、日本人にはなじみ深い話でしょう。
厳密にいうと様々な解釈がありますが、生まれ変わるという以上、生まれ変わる主体が想定されています。
この思想の元ネタは、説一切有部かと思うのです。
三世実有・法体恒有が基礎になります。
法は、過去、現在、未来の三世にわたって実有の状態で存在するという意味です。
法体が何かという問題はありますが、私個人は違和感のない思想でした。
諸法無我」は三法印の一つで、 この世に存在するあらゆる事物は、因縁によって生じるものであって、不変の実体である我は存在しないという考え方。
これも五蘊が因縁仮和合の思想だから、違和感はありません。
でも、この二つの思想は矛盾してしまうのです。
とりあえず家にあった龍樹 (講談社学術文庫)を再読してみました。

とてもいい本ですが、イマイチしっくりきませんでした。
で、御本尊様に御祈念することに。
自分の疑問が解決できますようにと。。。
いつものパターンですが。
すると、御書の諸法実相抄が浮かんできました。
勤行・唱題を終えて御書を開けると、答えがありました。

問うて云はく、法華経の第一方便品に云はく「諸法実相乃至本末究竟等」云云。此の経文の意如何。答へて云はく、下地獄より上仏界までの十界の依正の当体、悉く一法ものこさず妙法蓮華経のすがたなりと云ふ経文なり。依報あるならば必ず正報住すべし。釈に云はく「依報正報常に妙経を宣ぶ」等云云。又云はく「実相は必ず諸法、諸法は必ず十如、十如は必ず十界、十界は必ず身土」云云。又云はく「阿鼻の依正は全く極聖の自心に処し、毘盧の身土は凡下の一念を逾えず」云云。此等の釈義分明なり。誰か疑網を生ぜんや。されば法界のすがた、妙法蓮華経の五字にかはる事なし。釈迦・多宝の二仏と云ふも、妙法等の五字より用の利益を施し給ふ時、事相に二仏と顕はれて宝塔の中にしてうなづき合ひ給ふ。(諸法実相抄

大聖人様は御書の中で一言も諸法無我とは仰っておりません。
諸法実相と仰られております。
そして、諸法=実相であると仰せなのです。
諸法実相で御書検索すると58件が該当しました。新編御書 検索結果

諸法とは、この世に存在する有形・無形の一切のもの、万法、あらゆる存在のことです。それが、「妙法蓮華経のすがたなり」ということです。
爾前権教の対立が雲散霧消したように感じました。

さらに、円融の三諦を忘れていたことを思い出しました。

第七 以譬喩得解の事  止観五に云はく「智とは譬に因るに斯の意徴有り」と。
  御義口伝に云はく、此の文を以て鏡像円融の三諦の事を伝ふるなり。総じて鏡像の譬へとは自浮自影の鏡の事なり。此の鏡は一心の鏡なり。総じて鏡に付いて重々の相伝之有り。所詮鏡の能徳とは万像を浮かぶるを本とせり。妙法蓮華経の五字は万像を浮かべて一法も漏るゝ物之無し。又云はく、鏡に於て五鏡之有り。妙の鏡には法界の不思議を浮かべ、法の鏡には法界の体を浮かべ、蓮の鏡には法界の果を浮かべ、華の鏡には法界の因を浮かべ、経の鏡には万法の言語を浮かべたり。又云はく、妙の鏡には華厳を浮かべ、法の鏡には阿含を浮かべ、蓮の鏡には方等を浮かべ、華の鏡には般若を浮かべ、経の鏡には法華を浮かぶるなり。順逆次第して意得べきなり。我等衆生の五体五輪妙法蓮華経と浮かび出でたる間、宝塔品を以て鏡と習ふなり。信謗の浮かび様能く能く之を案ずべし。自浮自影の鏡とは南無妙法蓮華経是なり云云。就註法華経口伝

「自分が」「俺が」「私が」という末那識の執着に翻弄されていたように思います。
そして、世間の仏教学に気を取られ、迷い込んでいたことを反省しております。

一、義道の落居無くして天台の学文すべからざる事。
一、当門流に於ては御抄を心肝に染め極理を師伝して若し間有らば台家を聞くべき事。

を思い出しました。
以下に、日淳上人様の御法話を掲載させていただきます。

空仮中の三諦 法界の真実相 (法華経の重大義である諸法実相・中庸理念の基本)   

 

                   総本山第65世 日淳上人御述


 仏教に於ては迷悟・因果・主客の関係に於て種々の教えが説かれてをって、此の立場から或は現象の世界、或は実在の世界、或は認識の世界、或は主観につき、或は客観の世界と全般にわたって解明されておりますが、その教えの根底であり、中枢となってをりますのは、諸法実相の教えであります。此れは仏の悟りの世界の真実相であるからであります。
 諸法実相といへば、その教えは法華経にをいて究竟(くきょう)して説かれてをるのでありまして、その他の経にはそれに入る予備的な教えか、実相の一部を説かれてをるのであります。
 諸法というは、諸は一切の法を一言に抑へて申すのであります。万法とも申してをります。法といふのは如何なるものでも、そのものを全体的に抑へていふ言葉であります。
 今日、「法と」いひますと「法則」といふやうに用ひられてをりますが、仏教で法といふは、法則ばかりでなく「一切のものを通じてそのものの全体」を申すのであります。それで此の法を分別して物質と精神、現象と実在、情と非情、流転と還滅(げんめつ)、過去と未来などと分けるのであります。しかしその様に分けたからといって、それは一応の分別でありまして、そのまま実相ではないのであります。

 

 全体はその分別以前のもの、若(もし)くは分別を総括したところにあるのであります。それを実相といふのであります。
 扨て空仮中の三諦(さんたい)でありますが、此れは諸法の実相を説いた教えであります。諸法は上の如く種々分別せられますが、法自体には空仮中の性徳があって種々に変転するのであります。
 三諦の諦といふは、審諦すなわち「つまびらか」とか「あきらか」といふ義であり、また諦観といへば十分に実相を見ることであります。仏の悟りの世界に於ける「あきらかな真実の理」を諦といふのであります。空仮中は諸法に本来法爾に具足する天然の性徳であります。此れを三諦といふのであります。
 先づ仮諦から申しますと、仮とは一切の諸法は仮に因縁によって和合してをるものでありますから、之れを「仮」といふのであります。即ち仮和合のことであります。空諦とは凡夫は此の仮和合の諸法を実有なりと考へてをりますが、実際には仮和合のものであるから空といふのであります。此の空であり乍(なが)ら、仮和合といふことを具へてをります。そのところを「中」と申すのであります。此の空仮中を如何に理解するかといふことはなかなか難しい問題で、経に於ても其後の人師に於ても、此れを正当に理解せしむべく力を注いでをられるのであります。

 

 空仮中の三諦に於て「円融の三諦」といふのが、至極の教えであります。円は円満で「偏」に対する言葉で、欠けることのなく、かたよってもゐない全体といふことであります。融は「とらかる」でありまして、全体のそのままがとらかつてゐることであります。
 凡そ仏教に於ては此の円融の三諦を説くのを目的としてをりますが、俄(にわか)には理解することが困難でありますので、その前提とし析空観(しゃっくうかん)や体空観を説き、また真俗の二諦や隔歴(きゃくれき)の三諦を説かれたのでありまして、それが法華経以外の経教であります。

 

 最初、一切のものは実有である、不変常住であるといふ考へ方を破するために、「析空(しゃっくう)」を説いて一切のものを分析してみれば、何一つとしてそのものの実体は無いと教へられたのであります。即ち我空法有で、人は常住不変のものではなく、法だけが常住であると説くのであります。

 

 次に「体空(たいくう)」といふは、我法の二空を説き、法体も諸法は全体そのまま「空」であると説かれるのであります。而(しか)して次に諸法は空でもなく、有でもない、その二辺をはなれた中間にあるといって、即ち但中(たんちゅう)の理を説かれてをるのであります。此れを隔歴(きゃくれき)の三諦といって、空と仮と中と格別にして融即(ゆうそく)してをらず、中は空と仮と、別に立てられてをるのであります。
 かくて最後に円融の三諦でありますが、此れは、空・仮・中の三諦は各々、また三諦を具するとして相即を説くのであります。即ち三即一、一即三といひ、不縦、不横といって縦や横に並ぶのではないといふのであります。若し空といへば一切がそのまま空、仮といへば一切がそのまま仮、中といへば一切がそのまま中であるといふのであります。それを即空、即仮、即中と申すのであります。今此れを図にすれば、次の如くであります。

 

 此の円融の三諦は、正しく領解することもまた説き表はすことも難しいのでありまして、故に此れを非有、非空、亦有、亦空とか、また百非といって有に非ず、空に非ず、非有に非ず、非空に非ずとして百の非をつけても言ひ表はせないなどといひ、空に非ず仮に非ず、中に非ず即空、即仮、即中などと申し、不可思議境といふのであります。
 かように思議することは難しく諦理として会得も容易ではないので一心三観といふことがいはれています。此れは慧文の唱へたところであります。我々が自分の心を観ずると有るかと思へば無く、無いかと思へば有る、無に非ず、有に非ず、しかも有であり無である。これを観ずれば実相を領解することができるといふのであります。
 この一心三観を更に大成したのが天台大師の一念三千であります。しかして此が理観であるのに対し、事観を立ち、直ちにその境に衆生をして達せしめられるのが日蓮大聖人の三大秘法であります。                  (昭和29年6月 大白蓮華誌)