エセー Les Essais

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1132夜:創価ダメ出しさんに学ぶ「会通(えつう)の妙味」

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御講拝読御書研鑽(2021年9月・如説修行抄)

法華折伏破権門理の金言なれば終に権教権門の輩を一人もなくせめをとして法王の家人となし天下万民諸乗一仏乗と成つて妙法独り繁昌せん時、万民一同に南無妙法蓮華経と唱え奉らば吹く風枝をならさず雨壤を砕かず、代は羲農の世となりて今生には不祥の災難を払ひ長生の術を得、人法共に不老不死の理顕れん時を各各御覧ぜよ現世安穏の証文疑い有る可からざる者なり。

先月に続いて今月の私の菩提寺の御講参詣は中止になり、ややテンション下がり気味ですが今月の御講拝読御書の研鑽をしていきます。まず今回の御文全体でいうとこの御文は「立正安国」の原理と広宣流布の事相を示されています。「現世安穏の世の中」とは「安国」でありそれを実現するためには折伏(立正)をするというが「立正安国」の原理です。折伏とは御文にあるように「権門の理を破す」ことです。創価のやっているような選挙の応援をすることではありません。公明党の支援など「法戦」でもなんでもありません。公明党をいくら応援しようとも仮に公明党が単独与党となったとしても大聖人の言われる「安国」にはならない。むしろ公明党が与党に与してからの世相をみれば「暗黒」なのは既に現証として現れています。また【吹く風枝をならさず~災難を払ひ長生の術を得】の部分は広宣流布の暁にはこのような世界になるという事相です。【人法共に不老不死の理顕れん時】とは戒壇大御本尊様が本門寺の戒壇に現れ全ての人々の目前に姿を表されるということです。それは【万民一同に南無妙法蓮華経と唱え奉らば】となった時です。ですから顕正会の言う「事の戒壇建立」というのは広宣流布達成時に必然的に現れる事相であって戒壇を建立するのが大聖人の御遺命ではないのです。あくまでも広宣流布することが大聖人の御遺命なのです。その御遺命が達成した暁には本門寺に戒壇を建立し戒壇大御本尊をご安置しなさいということなのです。ですから創価や顕正のやっていることは大聖人のご指南を捻じ曲げている謗法行為であると言えます。そして広宣流布が達成した時には経文に説かれる「現世安穏」の世になる。というのが今御文の全体的なご指南です。では広宣流布が達成するまでは「現世安穏」じゃないのかといえばそうではなく、個人に約せば戒壇大御本尊への信心があれば「現世安穏」になります。先ほども書いたように【人法共に不老不死】の体とは戒壇大御本尊です。法華経寿量品に説かれる「常住不滅」とは「不老不死」の人法でありその体は戒壇大御本尊即日蓮大聖人です。【人法共に不老不死の理顕れん時】というのは戒壇大御本尊の功徳(法力・仏力)が顕れる時であり、その時が自身と自身を取り巻く周囲が「現世安穏」となるわけです。そんなこと言っても全然「「現世安穏」にならないじゃないか。と思う法華講さんもいると思います。私もいまもって全然「現世安穏」ではありませんから「自分では信心をちゃんとやっているのに何で現世安穏にならないんだ」と時に思うのでその気持ちは良く分かります。そんな私達と同じように「信心やっているに現世安穏じゃない」と愚痴った在家信徒がいます。四条金吾がそうです。『此経難持御書』(四条金吾殿御返事)の冒頭に四条金吾が日昭にぼやいたことが書かれています。そんな金吾のボヤキに大聖人は、
◆此の経をききうくる人は多し、まことに聞き受くる如くに大難来れども憶持不忘の人は希なるなり、受くるはやすく持つはかたしさる間成仏は持つにあり、此の経を持たん人は難に値うべしと心得て持つなり
とご指南されています。『此経難持御書』は短い御書なので読んでみてください。何故信心しているのにすぐに「現世安穏」にならずに却って苦難に合うのかというと『佐渡御書』等に書かれていますが我々は過去からの謗法があるからです。本来ならその謗法の果報として未来にわたり様々な苦しみを受けなければならない所を信心により先にまとめて軽くその果報を受けているというわけです。いわば「現世安穏」の前に先に「後生善処」の作業をしているわけです。つまり信心をしていま苦難を受けているというのは将来必ず「現世安穏」が待っているという事です。なんて偉そうに書いていますが私も常々将来の不安を感じる時があります。そんな時は先輩の四条金吾の事を想います。所領を没収され主君や同僚たちに疎まれ妬まれ全く「現世安穏」とは程遠かった金吾でしたが大聖人のご指南を信じ固く信心を持った結果は皆さんがご存知の通り主君からの信頼を回復し没収された3倍の所領を得たのです。この金吾の体験談が私には何よりも勇気を与えてくれます。そんなわけで自行化他の題目を実践し来るべき「現世安穏」を目指して日々精進していきたいと思います。

そもそも、会通って言葉の意味が分からない、という方もおいででしょう。
ということで、会通に関する蘊蓄をば。
人に会ったり別れたりするときに取り交わす「こんにちは」「ごきげんよう」という儀礼的な挨拶に対して、気軽に首(こうべ)を垂れて一礼するお辞儀を会釈といいます。お辞儀もせず、傍若無人に振る舞うと「遠慮、会釈もない」と非難されることになりますよね。
では、このようなお辞儀のことをなぜ「会釈」というのでしょう?
この会釈という語は、もとは仏教経典の解釈に関する用語でした。
経典の中には一方で有といい、他方では無というように前後相違して見える内容を説く場合があります。
そのような異説を相互に照合し、その根本にある真義を明らかにすることを「和会通釈(わえつうしゃく)」と呼ぶのです。
この四字熟語を「会通(えつう)」あるいは、「会釈」と省略して用いる場合が多いのだとか。
仏教用語としての「会通」も「会釈」も、表面上は互いに矛盾するように見える教説を、意義が通じるように解釈することを意味するのです。

そして、今日のテーマは創価ダメ出しさんの会通に、私は妙味*1を味わわせてもらいましたよ、ということです。
まず、一番目。

【人法共に不老不死の理顕れん時】とは戒壇大御本尊様が本門寺の戒壇に現れ全ての人々の目前に姿を表されるということです。

ここね。
ずっと前から引っかかってたのよ。
え?不老不死になるの?
んなわけないよね。
う~ん。
で、ダメ出しさんの会通を読んで、おお!なるほどー!ってなったわけです。
戒壇の大御本尊様と不老不死の関連性については、日寛上人様の御指南にもございまして。
例の徐福さんが秦の始皇帝の命を受けて、日本に来る話です。

 法華取要抄文段 三六  本門の戒壇の本尊、即ち是れ不死の薬なり

四に富士は亦蓬莱山ほうらいさんと名づくる故に。義楚の六帖に又云く「富士また蓬莱と名づく。じょふくこことどまり今に至る。子孫皆はたう」云云。当に知るべし、蓬莱山は不死の薬の在処なり。当初そのかみ、秦王、不死の薬を求む。不死の薬はただ蓬莱ほうらいに在り。故に徐福、 五百の童男五百の童女ひきいてたずねて富山に入る。然りと雖も其の時未だ此の薬有らず。故に徐福、本国に帰ることあたわず。ついに此の処に止まれり。今いわく、是れ徐福のいつわりには非ず。後にまさに不死の薬有るべき故に、自然にあらかじめ蓬莱山の名を立つる故なり。是れ則ちれいずい感通かんつうし、嘉名かみょうそうりゅうするなり。今は現に不死の薬有り。蓬莱山の名、豈りゅうすべけんや。  

問う、不死の薬、今何処いずこに在りや。

  答えて云く、本門の戒壇の本尊、すなわち是れ不死の薬なり。

  問う、証拠は如何いかん

  答う、寿量品に云く「良薬ろうやくを、今留めてここく」等云云。薬王品に重ねて之を説いて云く「此の経は則ちれ閻浮提の人の病の良薬なり。若し人病有らんに、是の経を聞くことをば、病即ち消滅して不老不死ならん」等云云。「是好良薬」とは本門の本尊なり。本門の本尊あに不死の薬に非ずや。是の故に、兼ねて其の処を蓬莱山と名づくるなり。むしろ嘉名早立に非ずや。

僕の中で繋がったのです。
ダメ出しさん、ありがとうございました。
そして、二番目。
四条金吾の話。
信心してるのに、いやむしろ、異流儀から法華講に帰って来た頃のヒドさよ。
なんで?
顕正会辞めたのに?
罪障消滅のすさまじさに、打ちのめされそうになったことがありました。
功徳の体験談もよくよくちゃんと聞けば、必ず罪障消滅に向き合った後にってなってます。
御利益の結果に目を奪われてはいけませんね。
功徳で釣るような勧誘がダメなのも、この道理ですよね。
で、件の御書を貼り付けておきますので、お読みください。

四条金吾殿御返事 文永一二年三月六日  五四歳
 
  「此経難持」の事、抑弁阿闍梨が申し候は、貴辺のかたらせ給ふ様に持たん者は「現世安穏後生善処」と承って、すでに去年より今日まで、かたの如く信心をいたし申し候処に、さにては無くして大難雨の如く来たり候と云云。まことにてや候らん、又弁公がいつはりにて候やらん。いかさまよきついでに不審をはらし奉らん。
  法華経の文に「難信難解」と説き玉ふは是なり。此の経をきゝうくる人は多し。まことに聞き受くる如くに大難来たれども「憶持不忘」の人は希なるなり。受くるはやすく、持つはかたし。さる間成仏は持つにあり。此の経を持たん人は難に値ふべしと心得て持つなり。「則為疾得無上仏道」は疑ひ無し。三世の諸仏の大事たる南無妙法蓮華経を念ずるを持つとは云ふなり。経に云はく「護持仏所嘱」といへり。
天台大師の云はく「信力の故に受け念力の故に持つ」云云。又云はく「此の経は持ち難し、若し暫くも持つ者は我即ち歓喜す、諸仏も亦然なり」云云。火にたきゞを加ふる時はさかんなり。大風吹けば求羅は倍増するなり。松は万年のよはひを持つ故に枝をまげらる。法華経の行者は火とぐらとの如し。薪と風とは大難の如し。法華経の行者は久遠長寿の如来なり。修行の枝をきられまげられん事疑ひなかるべし。此より後は「此経難持」の四字を暫時もわすれず案じ給ふべし。恐々。
    三月六日             日  蓮 花押
 四条金吾殿 

四条金吾殿御返事

しんどい時、怒りがわいてきた時、悲しい時・・・不如意に苛まれたら、お題目を口に出し、心に念じ凌ぎましょう。
そして、時間がある時には、作法受得の正式の型(五座)で勤行をいたしましょう。
心が禅定(平穏・安穏)になります。
不規則な勤務の私は、夜でも五座で勤行させていただくことがあります。
勤行の根源が丑寅勤行にあるとお聞きしてから、そのように実践しております。
朝夕に五座三座が出来る方は、それが最高の型ですから頑張ってください。
「憶持不忘」、常に忘れないこと。
これが大事ですし、罪障は一生かけて消滅を願う必要があると思っておくことです。

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初心忘るべからず

 

 

 



*1:なんとも言えない味わい。非常にすぐれた趣。醍醐味 (だいごみ) 。