当体義抄文段を拝読する 3
当体義抄文段 八 設い非人と雖も即ち是れ本門寿量の当体の蓮華仏なり。故に正・像の国王よりも末法の非人は尊貴なり |
一 此等の文の意を案ずるに等文。
此の下、次に正しく非を簡び、是を顕す、亦二。初めに非を簡び、次に「所詮」の下は是を顕す。
初めの非を簡ぶ、亦二。初めに正しく簡び、次に「故に正・像」の下は結前生後。
一 設い仏なりと雖も権教の仏をば仏界の名言を付くべからず等文。
「仏界の名言」とは、文に「妙法蓮華の当体」と云う、即ち是れ仏界の名言なり。次に「当体蓮華の仏」と云う、之を思い合すべし。故に今文の意に云く、権教の三身は未だ無常を免れざるの故に、設い仏なりと雖も、権教の仏には妙法当体の蓮華仏の名言を付くべからず。何に況や其の余の界々に妙法当体の蓮華仏の名言を付くべけんや云云。
一 故に正・像二千年の国王・大臣よりも末法の非人は尊貴なりと釈するは此の意なり文。
問う、正法千年は四味三教の流布の時なり。故に国王大臣と雖も妙法当体の蓮華に非ず。是の義は爾るべし。若し像法の中には、天台・伝教、法華経を弘む。信受の人、豈妙法当体の蓮華仏に非ずや。
答う、天台・伝教の御時は、只是れ迹門流布の時なり。故に之を信受する人々も、皆是れ迹門の人人なり。設い仏と雖も、迹門の仏には妙法当体の蓮華仏の名言を付くべからず。何に況や其の已外をや。是れ則ち本門寿量の真仏に望む時は、仍是れ未だ無常を免れざる夢中の虚仏なるが故なり。然るに末法今時は本門寿量の肝心、広宣流布の時なり。故に之を信受する者は、設い非人と雖も即ち是れ本門寿量の当体の蓮華仏なり。故に正・像の国王よりも末法の非人は尊貴なり云云。
問う、此の釈は何れの処に出でたるや。
答う、啓蒙に云く「此の釈の本拠、未だ的文を見ず。但し大論の十三に相似の文有り」等云云。今謂く、此れは是れ取意の引用なり。即ち天台の「後の五百歳、遠く妙道に沾わん」、妙楽の「末法の初め冥利無きにあらず」、伝教の「正像稍過ぎ已って末法太だ近きに有り」、又云く「代を語れば則ち像の終り末の初め」等の釈なり。故に撰時抄に此等の文を引き訖って云く「天台・妙楽・伝教(乃至)末法の始をこひさせ給う御筆なり(乃至)道心あらん人人は此を見ききて悦ばせ給え正像二千年の大王よりも後世ををもはん人人は末法の今の民にてこそあるべけれ」等云云。
末法の初めは本門流布の時なり。故に之を信受する者は、皆是れ本門寿量の当体の蓮華仏なり。故に末法の始めを恋うるなり。
此の下は次に是を顕す、亦三。初めに標、次に「南岳」の下は釈、三に「是れ則ち法華」の下は結勧。
釈の中に亦二。初めに文を引き、次に正しく釈す。
一 下文顕れ已れば等文。
是れ記の一本三十二の文なり。記の文は「文は迹門に在れども義は本門に在り」の意なり。今は「文は爾前に在れども義は法華に在り」の意なり。仍汎く之を論ぜば「文は小乗に在れども義は大乗に在り」、「文は外典に在れども義は内典に在り」等之有るべきなり。記の三上八に云く「外小権迹を内大実本に望むるに、並びに有名無義なり」等云云。
当体義抄文段 九 相対種とは、即ち是れ今明かす所の三道即三徳の法門なり。此の義は但今経に限るなり。 |
一 正直に方便を捨て等文。
是の下は次に正釈の文なり。
是れ亦二と為す。初めに因果・依正に約し、次に「能居」の下は釈成。
初めの文、亦二。初めに因果倶時、次に「其の人」の下は依正不二。
初めの文、亦二。初めに妙因、次に「煩悩」の下は妙果。
次の文に亦二。初めに正報、次に「常」の下は依報。
「能居」の下の釈成、亦二。初めに依正不二、「倶体」の下は因果倶時なり。
問う、「正直に方便を捨て」の意は如何。
答う、「正直」とは、譬えば竹を竹と識り、梅を梅と識り、松を松と識るが如く、権を権と識り、実を実と識り、迹を迹と識り、本を本と識り、脱を脱と識り、種を種と識る、是れを「正直」と云うなり。既に権を権と識り、実を実と識る則は、永く権を用いざる故に権を廃捨す。故に「捨方便」と云うなり。本迹・種脱、之に例して知るべし。若し権実雑乱、本迹迷乱、種脱混乱は即ち是れ邪曲の義なり。慎しまずんばあるべからず、責めずんばあるべからず云云。
一 但法華經を信じ等文。
言う所の「但」とは、即ち是れ「但無上道を説く」の但の字なり。亦是れ「但楽って大乗経典を受持」するなり。亦是れ「但法性を信じて其の諸を信ぜざる」なり。
当に知るべし、此の文は但権実相対に似たりと雖も、釈成の文より立ち還って之を見る則は、亦本迹相対、種脱相対の意を含む。故に具には応に「但法華經の本門寿量の教主の金言を信じて南無妙法蓮華経と唱うる人」等と云うべし。是れ則ち釈成の文の中に「本門寿量の当体蓮華の仏」と云うが故なり。若し本門寿量の教主の金言を信ずるに非らざるよりは焉ぞ「本門寿量の当体蓮華の仏」と名づけんや。
況や復、末法の衆生の証得を明かす文の中にも「当体蓮華を証得して常寂光の当体の妙理を顕す事は本門寿量の教主の金言を信じて南無妙法蓮華経と唱うるが故なり」と云うをや。何ぞ「本迹一致の妙法」等と云うべけんや。
一 煩悩・業・苦の三道等文。
「正直」の下は妙因を明かし、是の「煩脳」の下は妙果を明かすなり。但法華経を信じて南無妙法蓮華経と唱うる妙因の当所は、則ち三道即三徳の妙果なり。豈因果倶時の当体の蓮華に非ずや。
問う、凡そ「煩悩」とは見思・塵沙・無明の三惑なり。「業」とは即ち五逆・十悪・四重等なり。「苦」とは苦果の依身、五陰・十二入等なり。是くの如き三道の当所、何ぞ三徳の妙果ならんや。
答う、是れ凡の測る所に非ず、智の及ぶ所に非ず。唯是れ文底秘沈の妙法の力用なり。薬草喩品に云く「種・相・体・性」等云云。
「種」の一字に即ち二義あり。一には就類種、二には相対種。
就類種とは「凡そ心有る者は是れ正因種、一句を随問するは是れ了因種、指を弾じ華を散らすは是れ縁因種」なり。此の義は少文、爾前の円にも通ずるなり。相対種とは、即ち是れ今明かす所の三道即三徳の法門なり。此の義は但今経に限るなり。
竜樹菩薩、今経の妙の一字を釈して云く「譬えば大薬師の能く毒を以て薬と為すが如し」等云云。「毒」は即ち三道、「薬」は即ち三徳なり。「能く毒を以て薬と為す」とは、豈三道即三徳の法門に非ずや。天台大師云く「言う所の妙とは、妙は不可思議に名づく」云云。但仰いで之を信ずべし、伏して之を唱うべし。
一 法身・般若・解脱の三徳と転じて等文
「三徳」とは即ち是れ三身なり。「法身」とは即ち是れ法身如来、「般若」とは即ち是れ報身如来、「解脱」とは即ち是れ応身如来なり。亦是れ釈成の文より之を見る則は、即ち是れ文底秘沈の無作三身なり。
問う、「転」の字の意は如何。
答う、言う所の「転」とは、其の体を改めず、只其の相を変ず、是れを転と云うなり。大論に所謂「毒を以て薬と為す」とは是れなり。又当巻三十八本尊供養御書に云く「金粟王と申せし国王は沙を金となし・釈摩男と申せし人は石を珠と成し給ふ(乃至)須弥山に近づく鳥は金色となるなり、阿伽陀薬は毒を薬となす、法華経の不思議も又是くの如し、凡夫を仏に成し給ふ」等云云。此の意なり。
当体義抄文段 十 我等、妙法信受の力用に依って本門の本尊、本有無作の当体蓮華仏と顕るるなり |
一 三観・三諦・即一心に顕われ文。
「三諦」は是れ境、「三観」は是れ智なり。故に知んぬ、但法華経を信じて南無妙法蓮華経と唱うる則は、本地難思の境智の妙法を即我等が一心に悟り顕し、本門寿量の当体の蓮華仏を顕すなり。是れを本覚無作の一心三観と名づくるなり。修禅寺決十八に云く「本門実証の時は無思無念にして三観を修す」文。無思無念にして誰も造作すること無し。故に無作と云うなり云云
一 其の人の所住の処等文。
是の下は依正不二を明かすなり。「其の人」とは即ち是れ三道即三徳の妙人、是れ正報なり。「所住の処」等とは依報なり。中に於て「所住之処」の四字は依報の中の因なり。「常寂光土」の四字は依報の中の果なり。当に知るべし、依正不二なる故に依報の因果も亦是れ倶時なり。是れ正報の因果俱時なるに由る故なり。当に知るべし、依正の因果は悉く是れ蓮華の法なり。
一 能居・所居等文
此の下は釈成の文なり。上に於ては只是れ汎く釈せるのみ。今釈成の文の中には、文底の意に約して之を釈し、蓮祖の末弟を結成したまうなり。
中に於て亦二。初めに依正不二を釈成し、次に因果倶時を釈成するなり。
初めに依正不二を釈成すとは、上には汎く「其の人の所住の所は常寂光土」等と云う。今は文底の意に依り、無作三身の依正に約して之を釈するなり。謂く、「能居・所居」は是れ無作の応身の依正なり、例せば妙楽が「即ち本応身の所居の土」と云うが如し。「身土」と言うは無作の法身の依正なり。例せば妙楽が「即ち是れ毘盧遮那の身土の相」と云うが如し。「色心」とは無作の報身の依正なり。十法界を心とするは報身なり云云。報身は色を以て所依と為し、心を報身とする故なり。
是の無作三身の所依を寂光土と云うなり。解釈に云く「無作三身、寂光土に住す」等云云。
宗祖云く「十界を身と為すは法身なり、十界を心と為すは報身なり、十界を形と為すは応身なり(乃至)依正不二なり身土不二なり、一仏の身体なるを以て寂光土と云う」云云。是れ無作三身の一仏なり。
是の下、因果倶時を釈成す。中に於いて亦二。初めに果を挙げ、次に「日蓮」の下は因を結するなり。
初めに果を挙ぐる中の「倶体倶用・無作三身」とは、上の三道即三徳の文に配す。「本門寿量の当体蓮華の仏」とは、上の三観・三諦等の文に配して見るべし。前には汎く三道即三徳と転ずと云い、今は文底の意に約する故に「倶体倶用・無作三身」と云うなり。
若し爾前・迹門の意は、法身を体と為し、報・応を用と為す、故に倶体倶用に非ず。況や色相荘厳の仏なるが故に無作三身に非ず。
若し本門の意は、三身倶体、三身倶用なり。故に「倶体倶用」と云うなり。況や名字凡身の本の儘なり。故に無作三身なり。当に知るべし「倶体倶用・無作三身」とは蓮祖大聖人の御事なり。我等、妙法の力用に依って即蓮祖大聖人と顕るるなり。
亦復当に知るべし、一往義立に約すれば、倶体倶用の義は迹門に通ずる義辺あり。等海抄十二・三十一に云く「迹門の意は、法身に即して報・応二身は倶に体と成り、報・応に即して法身は倶に用と成る。故に倶体倶用と云う義之有り」文。総勘文抄等は、此の義辺に当れるか。
次に「本門寿量の当体蓮華の仏」とは、前には汎く「三観・三諦」等と云う。今は文底の意に約するが故に「本門寿量」等と云うなり。言う所の「当体」とは、即ち是れ妙法の当体なり。譬喩に対するが故に当体と云うなり。故に「本門寿量の当体蓮華の仏」とは「本門寿量の妙法蓮華経仏」と云う事なり。即ち是れ本地難思の境智の冥合・本有無作の当体の蓮華仏なり。
当に知るべし、本有無作の当体蓮華仏とは、本門の本尊の御事なり。我等、妙法信受の力用に依って本門の本尊、本有無作の当体蓮華仏と顕るるなり。