日蓮正宗のススメ

万民一同に南無妙法蓮華経と唱え奉らば吹く風枝をならさず雨壤を砕かず

孟子 全訳注 (講談社学術文庫) | 宇野 精一  が出たことを喜びたい

 

f:id:ekikyorongo:20190420211222j:plain

千万人(せんまんにん)と雖(いえど)も吾(われ)往(ゆ)かん
孟子 全訳注 (講談社学術文庫)

孟子 全訳注 (講談社学術文庫)

 

今の時代、孟子を読む人はどれくらいいるのだろうか?

書店で見かけた時、手に取り少し中を見て、即購入を決めた。

仕事の合間に読んでいるのだが、夢中になってしまった。

孟子は中毒性のある本だと思う。

孔子論語とはちがい、まっすぐに理想的な正義が説かれているからだろうか?

正義と言っても仁を基とした正義なのだが、正義を大上段から振りかざしている。

理想主義という言葉を当てはめてもいいかもしれない。

今まで手ごろな文庫版は、小林勝人先生の岩波文庫しかなかった。 

孟子〈上〉 (岩波文庫)

孟子〈上〉 (岩波文庫)

 
孟子〈下〉 (岩波文庫)

孟子〈下〉 (岩波文庫)

 

版が古いため、文字が擦り切れそうになっている。

二分冊であることが不満だった。

しかし、注釈は詳しいので、できれば両方を読み味わいたい。

孟子に心酔した人は古今大勢いたであろうが、私が一番に思い起こすのは吉田松陰だ。

吉田松陰の講孟箚記を読んで泣いたことを思い出した。

講孟箚記(上) (講談社学術文庫)

講孟箚記(上) (講談社学術文庫)

 
講孟箚記 下 (講談社学術文庫 443)

講孟箚記 下 (講談社学術文庫 443)

 

吉田松陰は、監獄の中で孟子を囚人や看守、監獄の長にまで講義し感化を及ぼしたという。 

自分も講義を聞いてみたいと思った。

文章からだけでも吉田松陰のまっすぐな、そして温かい人情味が伝わってくる。

よくもまあ、こんな人物の素っ首を刎ね飛ばしたものだ。

幕末から明治初期、日本は貴重な人材を惜しげもなく黄泉の国へと送り出した。

その災難が祟って昭和の大敗戦へと繋がっていくのは、歴史の因果というものかもしれない。

しかし、孟子という書物は影響を与えた人に、革命的な行動を促すようだ。日本という国柄との相性は孔子ほどよくない。松岡さんがおもしろい記事を書かれている。

1000ya.isis.ne.jp

西行は、『孟子』が日本に伝わらなかったのは、あんな小賢しい教えがこの国に入っては、神の座を奪う者すら出てくるだろうから、八百万の神々が『孟子』を積んだ船が来るたびに神風をおこしてこれを転覆させたからなのです、と説明したのである。
 『孟子』には、周の建国のみぎり、武王が憤りをもって暴君の紂王を討ち、天下の民を安らかにしたのは、紂王が仁に背き義に逆らったからであると書いてあるそうですが、けれどもこれはわが国にあてはまってはならないことなんですと、西行は懸命に説いたのだ。

話を元に戻して、孟子 全訳注 (講談社学術文庫)の著書、宇野精一さんのことについて。

宇野精一さんは宇野哲人さんの息子。宇野精一さんの息子さんが、宇野茂彦先生で、私の卒業論文の審査をしてくれた先生。

ja.wikipedia.org 

論語新釈 (講談社学術文庫)

論語新釈 (講談社学術文庫)

 

宇野哲人さんの「論語」は愛読している。

ポリ銀名でレヴューを書かせていただいている。

ja.wikipedia.org

宇野精一さんは、「平成」の元号を決定する際の審議員にも選ばれていたのだとか。

そして、我が恩師、宇野茂彦先生は、今回の「令和」騒動で苦言を呈しておられる。

今回初めて漢籍から選ばれなかったことに注目が集まるが、中国哲学宇野茂彦・中央大名誉教授は「日本の文化というのは漢籍に負うところが非常に多い。文化に国境は無い。漢籍を異国の文化だと思わないでほしい」と語る。

 政府は「文選」が原典に当たるかなどについて評価は避けている。

 今回の出典をどう評価するか。改元時に公家らが行った審議「難陳(なんちん)」で、中国古典だけでなく日本書紀も引用されたことがあったことを先月論文で初めて指摘した水上雅晴・中央大教授は「文選との類似性が考えられ、隠れた典拠にやはり漢籍があることになる」としつつ、「日本で1300年以上使い続けられている元号の典拠がはじめて国書になったのだから、画期的な年号と言える」と意義づける。

 水上氏は、江戸時代末に「令徳」の元号案が出た際、「徳川に命令する」という意味にも読めることから幕府が撤回させたと指摘。令和について「和(日本)に命令する」とも読めるが、今回どんな議論がされたのか気になるという。

 難陳の議論は、公家が多数の記録を残し、後世の参考にしてきた。今回の議論はどうだったのか。平成改元の記録未公開をどう考えるか。水上氏は「改元手続きについては、慌てて準備するのではなく、制度をきちんと整えることを考えるべきだ。『令和』改元からは、いつ公表するかは別問題として、細部に至るまでの記録をしっかり残してほしい」と要望した。

mainichi.jp

 

私の母校(中央大学)の先生が二人も元号騒動で登場されている。

お二人の意見が微妙に違うのが少しに気になるが。

私個人としては、反中思想で元号の典拠を国書に求めたとするなら、それは浅はかで愚かなことだと思っている。

孔子に私淑しながらも、白川静先生の研究では異流儀認定されている孟子

思想というものは説いた者の心を、いかにくみ取るかということも大切なことであると、教えてくれる書籍なのではないだろうか。 

孔子伝 (中公文庫BIBLIO)

孔子伝 (中公文庫BIBLIO)

 

孔孟の教えと呼ばれながら、儒侠と呼ばれる過激な人々を生み出した孟子の思想。

そのアンチが、荀子韓非子性悪説思想を生み出した影響力。

堯舜等の聖人の如きは万民に於て偏頗無し人界の仏界の一分なり(如来滅後五五百歳始観心本尊抄

周の代の七百年は文王の礼孝による秦の世ほどもなし始皇の左道によるなり(報恩抄)

早く一闡提の施を止め永く衆僧尼の供を致し・仏海の白浪を収め法山の緑林を截らば世は羲農の世と成り国は唐虞の国と為らん、然して後法水の浅深を斟酌し仏家の棟梁を崇重せん。(立正安国論

万民一同に南無妙法蓮華経と唱え奉らば吹く風枝をならさず雨壤を砕かず、代は羲農の世となりて今生には不祥の災難を払ひ長生の術を得、人法共に不老不死の理顕れん時を各各御覧ぜよ現世安穏の証文疑い有る可からざる者なり。(如説修行抄)

夫れ一切衆生の尊敬すべき者三あり所謂主師親これなり、又習学すべき物三あり、所謂儒外内これなり。
 儒家には三皇・五帝・三王・此等を天尊と号す諸臣の頭目・万民の橋梁なり、三皇已前は父をしらず人皆禽獣に同ず五帝已後は父母を弁て孝をいたす、所謂重華はかたくなはしき父をうやまひ沛公は帝となつて大公を拝す、武王は西伯を木像に造り丁蘭は母の形をきざめり、此等は孝の手本なり、比干は殷の世の・ほろぶべきを見て・しゐて帝をいさめ頭をはねらる、公胤といゐし者は懿公の肝をとつて我が腹をさき肝を入て死しぬ此等は忠の手本なり、尹寿は堯王の師・務成は舜王の師・大公望は文王の師・老子孔子の師なり此等を四聖とがうす、天尊・頭をかたぶけ万民・掌をあわす、此等の聖人に三墳・五典・三史等の三千余巻の書あり、其の所詮は三玄をいでず三玄とは一には有の玄・周公等此れを立つ、二には無の玄・老子等・三には亦有亦無等・荘子が玄これなり、玄とは黒なり父母未生已前をたづぬれば或は元気よりして生じ或は貴賤・苦楽・是非・得失等は皆自然等云云。(開目抄上)

外典書の貞観政要すべて外典の物語八宗の相伝等此等がなくしては消息もかかれ候はぬにかまへてかまへて給候べし。(佐渡御書

日蓮大聖人様は儒教を仏法の初門されている。

儒教を根本にした徳治徳政のみでは、立正安国は不可能であるとしつつも、人界の仏界とまで評され、堯舜・唐の太宗皇帝の世を一種の理想郷とされている。

反対に、荀子韓非子(秦の始皇帝の世)を左道と破折されている。

理想をまっすぐに、道理を主として貫こうとした孟子とその心酔者たち。孔子の巻懐の教えの逸脱者達。そういった気風のあった四条金吾に対して、大聖人様が与えられた御指南を拝して、本日の記事を締めくくりたい。

返す返す御心への上なれども末代のありさまを仏の説かせ給いて候には濁世には聖人も居しがたし大火の中の石の如し、且くは・こらふるやうなれども終には・やけくだけて灰となる、賢人も五常は口に説きて身には振舞いがたしと見へて候ぞ、かうの座をば去れと申すぞかし、そこばくの人の殿を造り落さんとしつるにをとされずして・はやかちぬる身が穏便ならずして造り落されなば世間に申すこぎこひでの船こぼれ又食の後に湯の無きが如し、上よりへやを給いて居して・をはせば其処にては何事無くとも日ぐれ暁なんど入り返りなんどに定めて・ねらうらん、又我が家の妻戸の脇・持仏堂・家の内の板敷の下か・天井なんどをば、あながちに・心えて振舞い給へ、今度はさきよりも彼等は・たばかり賢かるらん、いかに申すとも鎌倉のえがら夜廻りの殿原にはすぎじ、いかに心にあはぬ事有りとも・かたらひ給へ。(崇峻天皇御書)

当選と言えば当然ですが、大聖人様は巻懐の教えを説いておられる。

孟子を読むときは、くれぐれもこのことを肝に銘じておきたいね。 

間違っても、人徳もないのに

「自ら反(かえり)みて縮(なお)くんば、千万人と雖(いえど)も吾(われ)往(ゆ)かん」『孟子』公孫丑章句 上

自ら反省して正しいと思ったら、敵が千万人いても恐れることなく向かっていこう。

の言葉に気宇壮大になっては、身の破滅と心得て。