日蓮正宗のススメ

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当体義抄文段を拝読する 4

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当体義抄文段 十一  法の本尊を証得すれば、我が身全く本門戒壇の本尊と顕るるなり

 


一 日蓮が弟子檀那等の中の事なり

  此の下は因を結するなり。さきの「正直に方便を捨て」已下の文に配して見るべし。

  にち云く「是の『中』の字、アタルとよむなり。大聖の御本意、正信にアタル意なり」云云。

  今いわく、ひろく「中」と云うは、其の義じょうなり。あるいは、其の一切を以て中と云う、「華厳頓中とんちゅう一切法なり」及び「法華経中の一切の三宝」等の「中」の字の如し。或は外を以て中と云う、「しかも此の経中に於て」及び「衆星の中」等の「中」の字の如し。或は外に望みて中と云う、「洛中らくちゅう」「寺中」「門中」等と云うが如し。今「中」と云うは、まさに外に望みて中と云うなり。文意に云く、本門寿量の当体蓮華仏とは是れ不信ほうぼうの人の事には非ず、ただ是れ日蓮が弟子檀那等の中の事なり云云。是れ則ち前後の文、皆えらび、を顕す故なり。況やまたしもの文に「日蓮が一門」等と云う。故に今文の意は「一門中」と云うにあたれり云云

一 是れすなわち法華等

  是の下は三にけっかんなり。

  「正直に方便を捨てただ法華経を信じ南無妙法蓮華経と唱うる人」とは、是れ我等が本因妙なり。「煩悩ぼんのうごうの三どうほっしん般若はんにゃ解脱げだつの三とくと転じてさんがん三諦さんたいそく一心に顕われ」とは、是れ我等が本果妙なり。「其の人のしょじゅうところじょう寂光土じゃっこうどなり」とは、是れ我等が本国土妙なり。

  当に知るべし、本因・本果は正報の十界なり。本国土は是れ十界の依報なり。三妙を合論すと雖も、三千の相いまだ分明ならず。次に依正の十如を明かして「のうしょ」等と云うなり。当に知るべし、能居のしんの色心とは、即ち是れ正報の十如是、しょうおんの二千なり。所居のの色心とは、即ち是れ依報の十如是、国土の一千なり。

  止観に云く「国土世間また十種の法を具す。所謂いわゆる相性体力」等云云。せんの六に云く「相はただしきに在り。性はただしんに在り。たいりきえんは義、心色をぬ」等云云。故に知んぬ、色心とは十如是なり。三妙合論、事の一念三千、文義分明ふんみょうなり。是のの一念三千そく自受用身なり。故に「たい」等と云うなり。

  次に「倶体」の下は、自受用身そく末弟なることを明かすなり。然るに此の自受用身とは、境智冥合の真身なり。所証の境をほっしんと為し、能証の智を報身と為し、境智冥合するときんば無縁の慈悲有り、是れを応身と名づく。故に自受用の一身はそく三身なり。故に「倶体倶用・無作三身」と云うなり。くの如き三身は即ち是れ自受用の一身なり。故に「本門寿量の当体蓮華の仏」と云うなり。くの如きの仏身、全く余処よそほかに非ず、即ち是れ「日蓮が弟子檀那等の中の事なり」云云。次に勧誡の文、見るべし。しも之を弁ずるが如し。

  又或る時、して云く。  

  「正直に方便を捨てただ法華経を信じ南無妙法蓮華経と唱うる人」とは本門の題目なり。「煩悩・業・苦乃至そく一心にあらわれ」とは、本尊を証得するなり。中に於て「三道そく三徳」とは人の本尊を証得して、我が身まったく蓮祖大聖人と顕るるなり。「三観・三諦・そく一心に顕われ」とは法の本尊を証得して、我が身全く本門戒壇の本尊と顕るるなり。「其の人の所住の処」等とは戒壇を証得して、寂光じゃっこう当体の妙理を顕すなり。当に知るべし、並びに題目の力用りきゆうるなり。

 然りと雖も、体一ゆうの相は未だ分明ならず。故に此の事を顕して「能居・所居」等と云うなり。当に知るべし「能居・所居」とは、法の本尊の能所不二ふになり。「身土しんど」とは即ち是れ人の本尊の能所不二なり。「しきしん」と言うは、色は即ち人の本尊、心は即ち法の本尊。「色」はまた是れ境なり「心」は亦是れ智なり。故に知んぬ、人法体一、境智冥合みょうごう、其の義分明なり。あに本尊と戒壇、人法の本尊は体一互融に非ずや。

くの如く証得するときは、即ち是れ久遠元初の一身そく三身三身即一身の本有ほんぬ無作むさの自受用身なり。此の仏身、全く余処よそほかに非ず。即ち是れ、本門の題目信行の日蓮が弟子檀那等の中の事なり。故に「たいゆう」等と云うなり。

次に「是れ即ち法華」の下はかんかいなり。初めは勧門、次は誡門なり。

当に知るべし、四義そくするときは成仏うたがい無きなり。「正直に方便を捨てただ法華経を信じ」とは、是れ信力なり。「南無妙法蓮華経と唱うる」とは、是れ行力なり。「法華の当体」とは、是れ法力なり。「自在じざい神力じんりき」とは、是れ仏力なり。法力・仏力は正しく本尊に在り。之を疑うべからず。我等まさに信力・行力を励むべきのみ。  

当体義抄文段 十二  真理の中に於て清浄の因果を具す、是くの如きを蓮華と名づく、即ち是れ当体の蓮華なり。

 


一 問う天台大師等

是の下は三に、解釈げしゃくを引いてほん無作むさの当体蓮華を明かす、亦二。初めに解釈を引き、次に「此の釈」の下は所引の文を釈す。

初めに解釈を引くに、亦三と為す。初めにの釈を示し、次に当体の釈をいだし、三に合説の文を引く。

次の文を釈するに、亦三と為す。初めにまさしく本有無作の当体蓮華を明かし、次に「故に伝教」の下は、証を引いてって合説の意を示し、三に「又こっしょに」の下は、因って譬喩の意を示す。

 問う、是の下はつぶさに当体、譬喩及び合説の文を引く。故に啓蒙等の意は、ただ天台の釈相をいだすと云う。いま別して、何ぞほん無作の当体蓮華を明かすと云うや。

 答う、今の正意は、本有無作の当体蓮華を顕すに在る故なり。いわく、所詮の法を明かす中に、初めにはひろ法体ほったいに約してつう之を論じ、次には別して信受に約して之を明かす。信受に約する中に至って初めにしばらひろく釈し、次に文底もんていの意に約して「本門寿量の当体蓮華」等と云う。此の「当体蓮華の仏」の根源を明かさんとほっするが故に、今、解釈を引いて本有無作の当体蓮華を明かすなり。

此の下には、通じて譬喩及び合説の文を引くと雖もあるいは略して文を引き、或は之を釈する時は、便びんに因って一言之を示す。若し当体に至ってはつぶさに其の文を引き、具に其の義を釈し、なお文証を引く。故に知んぬ、今の正意なること明らかなり。故に今、しょうに従って科目をひょうす、故に本有無作の当体蓮華を明かすと云うなり。  

一 の蓮華とは開廃かいはい

  是れ、玄文第一の序王のしもを指すなり。

  問う、別して蓮華を以て妙法に誓うる意はかん

  答う、蓮華は多奇なるが故なり。余のはなは妙法を顕すにえざる故なり。余の華に多種あり、しばらく七種をげん。

  一には無華有菓。の木及びいちじくの如し。せんの一の本に云く「広州こうしゅうに木有り。華さかずして実あり。実は皮よりして出ず。柘榴ざくろの大きさの如し。色赤く、煮て食すべし。数日わざれば、化して虫と成る。ありの如くはね有り。能く飛んで人の屋にく」等云云。又一熟の如きは、華さかずして実なる。実は葉のきわに生ず。或る人云く「此の一熟をうもれと云うなり」と。古歌に云く「埋木の花咲くことも無かりしに身のなるてはあわれなりけり」等云云。

  二には有華無菓。山吹やまぶき等の如し。集義和書八・二十二に云く「太田道灌どうかんかりに出でて、民家にてみのをかる。其の妻、ことばは無くて、山吹の花一枝を指し置きぬ。後に和歌を知る人云く、是れ古歌の意なり。『七重ななえ八重やえ花は咲けども山吹の みのひとつだになきぞあやしき』。是れより道灌、どうを学ぶ」云云。  

  三には一華多菓。胡麻ごま芥子けし等の如し。

  四には多華一菓。桃・すもも等の如し。

  五には一華一菓。柿等の如し。

  六には前菓後華。うり・稲等の如し。

  七には前華後菓。一切の草木、多分はしかなり。

  当に知るべし、華は因なり、菓は果なり。故に「因果」の二字を神道しんとうにては「ハナ・コノミ」とよむなり。仏家の義も亦此くの如し。然るに此等は因果に一多、前後等ありて、妙法を顕すに堪えざるなり。ただ此の蓮華のみ、因果倶時にして微妙みみょう清浄なり。故に妙法に譬うるなり。つぶさには玄文第一、第七等の如し。  

一 聖人理を観じて准則じゅんそくして名を作る

  光明玄記の上百二・十四に云く「俗にはもと名無し、真に随って名を立つ。こっしょの如きは、万物に名無し。聖人、仰いで真法にのっとり、して俗号を立つ。理の能く通ずるが如きは、真にって以て道と名づく。理の尊貴なるが如きは、真に依って以て宝と名づく。理の能く該羅がいらするが如きは、真に依って以て網と名づく」(該羅:ことごとく連なる。羅は網の意)等云云。

  故に知んぬ、真理の中に於て清浄しょうじょうの因果を具す、くの如きを蓮華と名づく、即ち是れ当体の蓮華なり。万物皆しかなり。准例して知るべし。玄文にたとえを挙げて云く、云云。かしこくもの糸を見てあみを結ぶが如く「聖人理を観じて准則じゅんそくして名を作る」等なり。是れ一分の譬なるのみ。

当体義抄文段 十三  迹門には兼帯の濁(にごり)なく、本門には始成の濁無し。故に「清浄」と云うなり

 


一 法華の法門は清浄しょうじょうにして因果みょうなれば

 「法華の法門」は釈本に過ぐるはし。迹門には兼帯のにごりなく、本門には始成の濁なし。故に「清浄」と云うなり。「因果微妙」とは、迹門の境智ぎょうは因微妙なり。三法妙等は果微妙なり。本門の本因ほんにん妙は因の微妙なり。本果妙等は果微妙なり。故に「因果微妙」と云うなり。

経に云く「じょうは微妙清浄第一」と云云。「の乗」は法なり。「微妙」は妙なり。「清浄」は蓮華なり。「第一」は是れ経なり。故に妙法蓮華経なり。  

一 法華三昧ざんまいの当体の名

  法華は是れ実智所証のごくなるが故に、「法華三昧」と云えるか。記の二・七十一の云く「実道の所証を一切みな法華三昧と名づく」等云云。  

一 又云く、問う蓮華等

  是の下は三に合説の文を引くなり。  

一 さだめて是れ法蓮華

  義師云く「蓮華及び金光明、両解に通ずと雖も、ただ一の譬喩なり」云云。是の義は不可なり。直ちに法体ほったいの清浄の因果を蓮華と名づく。即ち是れ当体の蓮華なり。しかして水中のそう此の当体の蓮華に似たり。故に水中の華草を蓮華と名づく。即ち是れ譬喩の蓮華なり。何ぞ「ただ一の譬喩」と云わんや。  

一 此の釈のこころ

 此の下は所引の文を釈す、亦三。初めにほん無作むさの当体の蓮華を顕すなり。

  問う、何ぞ本有無作と云うや。

  答う、文に云う「」と云うは、即ち是れ至極しごくじんなり。至極の深理は本来ほんなり。故に無作と云う。妙楽云く「理はぞうするに非ず、故に天真とう」とは是れなり。此の「至理」の中に、因果倶時の不思議の一法これ有り。是れを名づけて蓮華と為す。すなわち是れ当体の蓮華なり。  

一 因果いんが不思議ふしぎの一法これ有り等

  是の下は是れみょう玄義なり。

  問う、「因果倶時・不思議の一法」とは、其の体何物ぞや。

  答う、即ちれ一念の心法なり。故に伝教の釈を引いて「一心の妙法蓮華」と云うなり。当に知るべし、是の一念の心法とは、即ち是れ色心総在そうざいの一念なり。妙楽の「総じては一念に在り、別すれば色心を分つ、別をせっして総に入る」等と云うは是れなり。 

問う、「因果倶時」等の相貌そうみょうは如何。

  答う、しばらく二義を以て之をしょうせん。

  一には一往、九因一果に約す。いわく、此の一念の心に十法界を具す。九界を因と為し、仏界を果と為す。十界宛然おんねんなりと雖も、而もゆうして一念の心法に在り。故に「因果倶時・不思議の一法」と云うなり。

  二には再往、各具に約す。しばらく地獄の因果の如し。悪の境智和合すときは因果有り。いわく、瞋恚しんには是れ悪口あっくの因、悪口は是れ瞋恚の果。因果を具すと雖も唯刹那せつなに在り。故に「因果倶時・不思議の一法」と云うなり。乃至善の境智和合すときは因果有り。謂く、信心は是れ唱題の因、唱題は是れ信心の果。因果をすと雖も、ただ一念に在り。故に「因果倶時・不思議の一法」と云うなり。是れ仏界の因果なり。略して始終をぐ。中間ちゅうげんの八界は准説じゅんせつして知るべし。

一 此の妙法蓮華の一法に十界三千の諸法をそくして等

  即ち是れたいげんなり。

  天台云く「十如じゅうにょ、十界、三千の諸法は今経の正体なり」等云云。是れ一念三千なり。

一 之を修行する者は仏因ぶついん仏果ぶっか・同時に之を得るなり

  即ち是れしゅうげんなり。

げんもんに云く「宗とは要なり。所謂いわゆる仏の自行の因果なり」云云。即ち此の意なり。

  問う、因を修して果を感ず、是れつねの所談なり。今、何ぞ因果を以てともに感得する所に属するや。

  答う、一往の義辺は実に所問の如し。今は再往の義辺にる。いわく、九界の衆生之を修行して、仏界の因果を同時に之を。故に「仏因・仏果」と云うなり。「妙因・妙果・に感得し給う」の文も、之に准じて知るべし。  

一 聖人しょうにん此の法を師と為して等

  此の下はゆう玄義なり。俱時感得を以て妙用を顕すなり。

一 故に伝教大師云く等

此の下は正には本有無作の当体の蓮華を証し、兼ねて合説の文意を示すなり。「妙楽」の下は総譬そうひべっを助成するなり。  

一 こっしょそう有り等

  此の下はちなみに譬喩の蓮華の意を示すなり。

 

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