日蓮正宗のススメ

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正月をもてなす

【五節供の次第を案ずるに、妙法蓮華経の五字の次第の祭りなり。正月は妙の一字のまつり】

 
 正月をもてなす

 慈本寺法華講の皆様『勇躍前進の年』
 あけましておめでとうございます
 新年の初頭、皆様も色々と決意され、御本尊様へ種々の御祈念をされた事と思います。
 御本仏日蓮大聖人様は、『十字御書』で

「十字一百まい・かしひとこ給び了んぬ。正月の一日は日のはじめ、月の始め、としのはじめ、春の始め。此をもてなす人は月の西より東をさしてみつがごとく、日の東より西へわたりてあきらかなるがごとく、とくもまさり人にもあいせられ候なり。」(一五五一頁)

と仰せです。
『十字御書』は、新年を「大御本尊をもてなす心」で迎える私たち日蓮正宗の信仰者の幸福を教えて下さる御書です。
 当抄はみなさまよくご承知のように、雪深い身延山中におわします日蓮大聖人に、お正月にあたって、蒸した餅や果物の御供養を申し上げた重須殿の女房、すなわち南条時光の姉に与えられた御書です。
 弘安四年一月五日、大聖人六〇歳の御時です。

 なぜ新年を「大御本尊をもてなす心」で迎える私たちが幸福な境涯なのでしょうか?
 思いますに、正月は一年のはじめです。すべての始まりです。その正月をもてなすことは一切を「もてなす」ことに通ずるからです。
 大聖人は「正月をもてなす」と表現されます。「もてなす」とは、『大辞林』によりますと、
「もてなす【持て成す】
①御馳走を出すなどして、心をこめて客を接待する。
②人を取り扱う。待遇する。」
等とあり、相手を大切に思って心を込めて待遇することです。大聖人様は、正月を迎える心構えとして、「大切な人を迎えるようにしなさい」と教えて下さるのです。
 また、「もてなす」とは感謝の意を表すことでもあります。それは、「私たちが御本尊様に生かされている」ということの表れです。米やミカンは私たちに食べられるため実をつけたのでしょうか?そんなことはないはずです。子孫を残すために、実をつけたのです。魚や鳥たちも同じです。

 他の生物の命を摂取して生きている私たちのありかたを考える時、どうしても「仏様・御本尊に生かされている」と思わざるを得ません。
 そのように思うと、生かされていることへの感謝の念が自然と湧いて来ます。そして、感謝の念をどのように表していけばいいのかを、当たり前に考えられるようになるのです。
 これもまた、日蓮正宗の信仰をして得られる素晴らしい功徳であり、命が清浄になり思考や行動が仏様の意に添えるようになるのです。
 その方法を大聖人は実にシンプルに「南無妙法蓮華経」ですよと教えて下さるのです。
 したがって、一年のはじめを大切に思い「南無妙法蓮華経」とお題目を唱える修行は実に貴いものなのです。だから、その思いを実践するゆるぎない方法が確立されている日蓮正宗の信仰者は幸福なのです。
 また、『秋元殿御返事』の中では正月のことを、

「正月は妙の一字のまつり」(三三四頁)

と仰せになります。妙法のまつりを大切に思い、心より慶祝することですから功徳もまた大きいことを知るべきです。
「徳が増(ま)さり人々からも愛されるようになる」とのありがたい仰せが心に染み入ります。
 さらにまた、「もてなす」ことは修行です。修行とは「南無妙法蓮華経」と唱え折伏を実践することです。『開目抄』では、

「無道心の者、生死をはなるゝ事はなきなり」(五七七頁)

と述べられます。「道心」は道を求め、修行に励むことです。
 世の中の殆どの方は、大聖人・大御本尊へつながる清浄なる「道」を知りません。「大聖人直結」などという邪義を唱える新興宗教団体もいますが、本当の「道」でもありません。
 よって、日蓮正宗の方以外は、「生死の苦しみ」から逃れることが出来ないのです。
 我々日蓮正宗の僧俗は、「道心」があれば生死の苦しみを解決することができるのです。私たちは生死の苦しみから解き放たれ、悠々と今生を過ごす仏力と法力を得ております。信力と行力を具えて実践するならば、成仏は確実に私たちの手にあるのです。

 そこで、日蓮正宗の信仰をするに当たり「しなければならない」と考えるより、「お題目を唱えると幸福になれる」と考えることを勧めます。そして、「折伏をすれば罪障が消滅する」と教えて下さる大聖人のお言葉を素直に拝することができるようになりたいと思います。

 素直な生き方が実は積極的な生き方なのです。
 ところが、積極的な生き方と消極的な生き方は表裏です。凡夫の心は周囲の縁により、常に左右されてしまいます。
 そのためにも、惰性や義務感で信仰するのではなく、我が心を大聖人の教えに縁させること、「御本尊様のお心を」と第一とすることが肝要です。
 御本尊様第一が日蓮正宗の信仰者のあり方です。それには御本尊の前で唱題をすることです。そして、「大聖人様、私も御本尊様のお役に立つようにしてください」とお願いをするのです。
 素直になれば『諸法実相抄』の

「力あらば一文一句なりともかたらせ給ふべし」(六六八頁)

すなわち、一人ひとりの力に会わせて、御本尊のお徳を語ろうと仰せである「折伏」もできるようになります。
 故に今正月の初頭において、大御本尊様に捧げる信仰こそ、まことに我が身の功徳であるとともに、一切の人々を救済せしめる出発点となるのです。

 新年を迎えるに当たり、日本中の多くの方が、人混みをかき分け賽銭を投げ入れ、今年一年の無病息災を祈っていることでしょう。また、おみくじに一喜一憂していることでしょう。
 確かに、日蓮正宗の修行は地味で厳しいものがあります。勤行唱題をしますので、他宗のように数秒ほど手を合わせるというお気楽なモノではありません。
 しかし、この正月に魂を入れ、真に祝うことの出来た人は、日蓮正宗の信仰者だけであり、さらに寺院参詣出来た方の功徳は計り知れません。どうか皆様は、このことを誇りに思っていただきたいと思います。

 とにかく、今年も御法主上人の御指南のまま、「折伏」と「登山」、さらには、毎月第二日曜日に開催されるに「日蓮大聖人様御報恩御講」参詣に全力で取り組み、今生人界の思い出としていきたいと思います。

 どうぞ皆様、本年もよろしくお願い致します 

      住 職  小橋  道芳

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秋元殿御返事
 秋元殿御返事 文永八年正月 五十歳御作
 於安房保田
 御文委く承り候い畢んぬ、御文に云く末法の始・五百年には・いかなる法を弘むべしと思ひまいらせ候しに聖人の仰を承り候に法華経の題目に限つて弘むべき由・聴聞申して御弟子の一分に定まり候、殊に五節供はいかなる由来・何なる所表・何を以て正意として・まつり候べく候や云云、夫れ此の事は日蓮委く知る事なし、然りと雖も粗意得て候、根本大師の御相承ありげに候、総じて真言天台両宗の習なり、委くは曾谷殿へ申候次での御時は御談合あるべきか、先ず五節供の次第を案ずるに妙法蓮華経の五字の次第の祭なり、正月は妙の一字のまつり天照太神を歳の神とす、三月三日は法の一字のまつりなり辰を以て神とす、五月五日は蓮の一字のまつりなり午を以て神とす、七月七日は華の一字の祭なり申を以て神とす、九月九日は経の一字のまつり戌を以て神とす、此くの如く心得て南無妙法蓮華経と唱へさせ給へ現世安穏後生善処疑なかるべし、法華経の行者をば一切の諸天・不退に守護すべき経文分明なり、経の第五に云く「諸天昼夜に常に法の為の故に而も之を衛護す」云云、又云く「天の諸の童子以て給使を為し刀杖も加えず毒も害する能わず」云云、諸天とは梵天・帝釈・日月・四大天王等なり、法とは法華経なり、童子とは七曜・二十八宿・摩利支天等なり、「臨兵闘者皆陳列在前」是又「刀杖不加」の四字なり、此等は随分の相伝なり能く能く案じ給うべし、第六に云く「一切世間の治生産業は皆実相と相違背せず」云云、五節供の時も唯南無妙法蓮華経と唱へて悉地成就せしめ給へ、委細は又又申す可く候。
 次に法華経末法の始め五百年に弘まり給ふべきと聴聞仕り御弟子となると仰せ候事、師檀となる事は三世の契り種熟脱の三益別に人を求めんや、「在在諸の仏土常に師と倶に生れん若し法師に親近せば速かに菩提の道を得ん、是の師に随順して学ばば恒沙の仏を見奉る事を得ん」との金言違ふべきや、提婆品に云ふ「所生の処常に此の経を聞く」の人はあに貴辺にあらずや、其の故は次上に「未来世中・若有善男子・善女人」と見えたり、善男子とは法華経を持つ俗の事なり弥信心をいたし給うべし、信心をいたし給うべし、恐恐謹言。
 正月十一日 日 蓮花押
 秋元殿御返事 安房の国ほたより出す

 

十 字 御 書

 十字一百まい・かしひとこ給い了んぬ、正月の一日は日のはじめ月の始めとしのはじめ春の始め・此れをもてなす人は月の西より東をさしてみつがごとく・日の東より西へわたりてあきらかなるがごとく・とくもまさり人にもあいせられ候なり。
 抑地獄と仏とはいづれの所に候ぞとたづね候へば・或は地の下と申す経文もあり・或は西方等と申す経も候、しかれども委細にたづね候へば我等が五尺の身の内に候とみへて候、さもやをぼへ候事は我等が心の内に父をあなづり母ををろかにする人は地獄其の人の心の内に候、譬へば蓮のたねの中に花と菓とのみゆるがごとし、仏と申す事も我等の心の内にをはします・譬へば石の中に火あり珠の中に財のあるがごとし、我等凡夫はまつげのちかきと虚空のとをきとは見候事なし、我等が心の内に仏はをはしましけるを知り候はざりけるぞ、ただし疑ある事は我等は父母の精血変じて人となりて候へば三毒の根本婬欲の源なり、いかでか仏はわたらせ給うべきと疑い候へども・又うちかへし・うちかへし案じ候へば其のゆわれもやとをぼへ候、蓮はきよきもの泥よりいでたり、せんだんはかうばしき物大地よりをいたり、さくらはをもしろき物・木の中よりさきいづ、やうきひは見めよきもの下女のはらよりむまれたり、月は山よりいでて山をてらす、わざわいは口より出でて身をやぶる・さいわいは心よりいでて我をかざる。
 今正月の始に法華経をくやうしまいらせんと・をぼしめす御心は・木より花のさき・池より蓮のつぼみ・雪山のせんだんのひらけ・月の始めて出るなるべし、今日本国の法華経をかたきとしてわざわいを千里の外よりまねきよせぬ、此れをもつてをもうに今又法華経を信ずる人は・さいわいを万里の外よりあつむべし、影は体より生ずるもの・法華経をかたきとする人の国は体に・かげのそうがごとく・わざわい来るべし、法華経を信ずる人は・せんだんに・かをばしさのそなえたるがごとし、又又申し候べし。
 正月五日 日 蓮 在御判
 をもんすどのの女房御返事