日蓮正宗のススメ

広宣流布の時は日本一同に南無妙法蓮華経と唱へん事は大地を的とするなるべし、ともかくも法華経に名をたて身をまかせ給うべし

なぜ十如是を三回読むのか? (慈本寺 御住職の法話より)

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【我が身が三身即一の本覚の如来にてありける事を今経に説いて云く】
 
なぜ十如是を三回読むのか?

 本日は、ある御信徒から、「我々が普段唱えている法華経方便品の『十如是』の部分を、なぜ三回繰り返して唱えるか?」という問い合わせがありましたので、教学的にも大事な部分ですし、その方へ回答する意味で、合わせて皆さんにお話ししたいと思います。

 【十如是には何が説かれているのか?】
 
 『十如是』とは「妙法蓮華経 方便品」に説かれる 「所謂諸法。如是相。如是性。如是体。如是力。如是作。如是因。如是縁。如是果。如是報。如是本末究竟等。」 (開結89頁)です。

 《書き下し》
 「所謂、諸法の是の如き相、是の如き性、是の如き体、是の如き力、是の如き作、是の如き因、是の如き縁、是の如き果、是の如き報、是の如き本と末は究竟して等しい。」となります。
 

 《現代語訳》

 「諸法実相しょほうじっそう(あらゆる物事の真実のすがた)とは、次のようなものである。全ての存在の姿や形、性質、本質は何であるのか。それは、どのような力をもっているのか。いかなる働きがあるのか。それらのものごとがおこる原因は何か。ものごとの関連性や結びつきはどのようであるのか。それらの結果はどうであるのか。その結果として受ける報いはどのようなものであるのか。こうした、如是相から如是報までの本と末は究極的に一貫して平等なのである。」

 
 《意味》

 「十如是」とは、十如境きょうともいい、諸法に具(そな)わる十種の存在の法則、諸法を十の側面から見たもので、宇宙法界の時々物々・森羅万象しんらばんしょうの存在と活動の姿を示す万物の法則をいいます。
 「如是にょぜ」は「是かくの如ごとき」と読み、これは、ありのままの事物・事象(じしょう)の姿を認め、偏った見方をしないという『中道実相ちゅうどうじっそう』を意味します。
 天台大師は「十如是」を「一念三千の法門」を立てる拠り所としました。

⑴「如是相」とは、外より見て判別される状態のことで、あらゆる事物の姿や形をいいます。
⑵「如是性」とは、内に具わる心と心によって積まれた性質・持って生まれた資質をいいます。
⑶「如是体」とは、一切の事物の本体、当体のことをいいます。
⑷「如是力」とは体に具わる潜在的な能力のことをいい、種々の作用を起こす本の能力です。
⑸「如是作」とは、内面の力が、外に現れてはたら
 くことをいいます。この力が自他(じた)に及ぼす作用のことです。
⑹「如是因」とは、原因のこと。過去より相続して内心に習慣的に存在し、「如是果」にいたる習因、直接原因をいいます。
⑺「如是縁」とは、主要な原因を助けて果を成(じょう)ぜしめる外的原因、間接原因のことをいいます。
 例えば水も、気温が低ければ氷となるし、暑ければ水蒸気となって蒸発します。同じ水でも外の温 度という外的原因によって、氷、お湯、水蒸気と結果が違ってくるのです。
⑻「如是果」とは「如是因」の直接的な原因と、「如是縁」の間接的な原因があって生じた結果のことです。
⑼「如是報」とは、因と縁によって招来した結果が、
 もたらす報むくいのことです。報いは「知らせる」という意味がありますので、結果を具体的な形をもって知らせることを言います。
⑽「如是本末究竟等」とは、最初の相(そう)を本ほんとし、九番目の報(ほう)を末(まつ)として、この本と末が究竟くきょう(終始一貫して)して等しいことをいいます。

 このうち相・性・体の三如是は諸法の本体を表し、力・作・因・縁・果・報・本末究竟等の七如是はその用はたらきを表しています。
 この世のすべてのものは、究極的に無差別平等であり、この十種の在り方によって生起しょうきしながら、本体と用はたらきとが互いに一体性を保っているのです。
 大聖人様は『十如是事』において、「三如是を仏身に約すと三身如来となり、理に約せば三諦となり、功徳に約すと三徳となる」ことを明かされています。


 《仏が十如是を説く所以》

 釈尊は、十如是が明かされる直前に、仏と仏だけが極めつくした法が「諸法実相しょほうじっそう」であると説かれました。
 その諸法の実相とは何かと言えば、先ほども示しましたように『諸々の法の真実のすがた』であり、それは世の中の生活や経済や政治や産業など、日頃の社会活動全般を含んだ一切の事でを含みます。その、すべてを極め尽くされた方が仏様なのです。
 また、この宇宙の法界の全てを、過去・現在・未来にわたり、お悟りあそばされる方が仏様なのです。
 またさらに、仏法の世界においては、その因果をはじめとする本末究竟等の一切をよく極め尽くされる方が仏様なのです。
 ですから世法のことも、仏法のことも、法界のことも、そのすべてを仏様は究め尽くされていらっしゃるのです。

 杉並・佛乗寺御住職 笠原建道御尊師は、仏が「十如」を説く所以について
①この世の中は、「十如」によって成立している。
②この世の中のことは、「十如」によって説明することができる。
③この世の中は、だれかによって創造されたものではない。
④この世の中はだれからも支配をされていない。
⑤この世の中のすべては、「十如」によって動いている。
と、ホームページにて分かりやすく説明されています。


 【なぜ十如是を三回読むのか?】

 本宗においては勤行の時に方便品において十如是を三回読みます。   
 この時、我々は三回とも「如是相 如是性 如是体⋯⋯」と読みますが、天台大師は『法華玄義』という本の中で、三転読誦(さんてんどくじゅ)と申しまして、
一回目「如是相 如是性 如是体⋯⋯」
二回目「是相如 是性如 是体如⋯⋯」
三回目「相如是 性如是 体如是⋯⋯」
と読む、読誦の仕方を説きました。

 これは空仮中くうけちゅうの三諦さんたいの上からの読み方です。
 一回目の「如是相」という読み方は、最後に相、性、体等が来ますので、ある事々物々の姿が中心になりますから仮諦読みになります。

 二回目の「是相如」という読み方は、如が最後に来ます。
 如とは、不異(異ならず)を意味するので十界諸法の相互に区別があっても、その根底には一如平等にして異ならない「空」の理があることを表していますから空諦読みになります。

 三回目の「相如是」という読み方は、仮諦の「相」も空諦の「如」も「是ぜ」なりという意味になり、是は「これ」という意味とともに物事の筋道を正すという意味があります。一切を包含ほうがんする中道の意味を具え、中諦読みとなります。
 一往、このような読み方があり、それぞれ仮諦、空諦、中諦を表すのです。

 先ほど示した『十如是事』にて大聖人様は
「十如是から、百界・千如・三千世間、さらには八万法蔵とも言われる多くの法門となるが、全ては三諦の法であり、三諦よりほかに法門は無い。」 (御書104頁・趣意)と説かれます。

 正宗でも三回繰り返して「十如是」を読誦するのは、空仮中の三諦に読むからです。

 しかしながら、本宗では我々の生命の実相の上から妙法を現していきます。
 我々の持って生まれたそのままの姿で、妙法の命を顕すのです。したがって、お経文をそのまま読む仮諦読みでいいのです。

 すなわち、我々の姿は仮の姿ではあるけれども、この仮の姿のままの凡夫の身に妙法の仏性、仏の当体を顕していくという意義なのです。
 大聖人様は『当体義抄とうたいぎしょう』に、「正直に方便を捨て但ただ法華経を信じ、南無妙法蓮華経と唱ふる人は、煩悩・業・苦の三道、法身・般若はんにゃ・解脱の三徳と転じて、三観さんがん・三諦即一心に顕はれ」(御書 694頁)と仰せのとおり、只今説明してきた御法門は、妙法蓮華経の五字に納まっています。
 更にその妙法蓮華経の五字は、私たちの一心に納められているのです。 
 よって、私たちは、ただ三大秘法の御本尊様を信じ、自行化他にわたるお題目を唱えることによってこそ、即身成仏が叶うのです。


 【なぜ、同じ信心をしていても功徳に違いがあるのか?】

 只今、御本尊を信じ、自行化他にわたる題目を唱えることによって、即身成仏が叶うとお話ししました。
 しかし、それが信じ切れず、「功徳が無い、何も変わらないと」嘆き、残念ながら退転してしまう方、退転しないまでも信行に励むことを止めてしまう方がいます。
 功徳の現れ方が違う理由を端的に言いますと、皆一人ひとり具わっているものが違っているということです。
 人はそれぞれ姿形、性格、などが違いますし、それぞれの生まれてきた因縁や果報などの境涯も違って来ます。また信心の深さというものも違ってきます。
 しかし、その究竟においては、皆だれでも自分自身の根底に、平等に、仏の境界というものを具えているのだと教えられています。
 仏様の眼から見れば、地獄から菩薩までの九界に分かれている私達の境界も、すべての川の流れが一つの大海に注ぐように、結局は唯一の仏法界に帰するのです。
 そこにおいて、私達が御本尊様を信じて、南無妙法蓮華経と唱える時、御本尊様から頂く功徳は、結局は成仏という唯一つの平等の境界になるのです。
 皆さんに良く考えて頂きたいのは、「この御本尊様は功徳を少しも下さらない」と愚痴をこぼす前に、先ず第一に朝夕の勤行を厳格にやる。これが信心の基本となります。
 そうして、お寺の参詣や信心の会合に必ず出席する。こういう積極的な信心の姿勢を持続すれば、自分自身が変わります。すると、家庭が変わります。そうなると、自然と生活全般に活気が出て、「本当に功徳を頂いている」ということが、感謝の気持ちと共に実感できるように必ずなります。

 御本尊様に対して浅はかな考えを持っている人や退転をする人達は、そういう所が欠けているからこそ、信心を退いてしまうのです。
 今申しあげたことを、よくよく皆さんも知って頂きたいし、また、そういうことを、子供や孫、地区の方へ教えていかなければならないと思います。
 先ほどから申しあげていますように、御本尊様は、どんな人にも平等に功徳を分け与えてくださいますが、その人の境界の違いによって、その功徳の現れ方も違ってきます。
 例えば、大変な病気にかかったということに対して、それを乗り越えるということは、たしかに、この御本尊様でなければ、できるものではありませんし、必ずそれはできるのです。

 しかし、そこに到達するまでの信心は、やはりそれ相当のものでなければなりません。自分が生きるか死ぬかという瀬戸際に立った時に、御本尊様に対して、命がけで題目を唱えるということが大切です。本当に自分の命が懸かっているわけですから、真剣に命の底から御祈念しなければなりません。
 それが、半信半疑で渋々という感じでやっているようでは、やはり本当の御本尊様の功徳も出ません。
 『法華経方便品』の中には、「若有聞法者無一不成仏(若し法を聞くこと有らん者は一ひとりとして成仏せずということ無けん)」  (開結183頁)ということが説かれています。
 さらに『法華経寿量品』の最後には、「毎自作是念 以何令衆生 得入無上道 速成就仏身(毎つねに自ら是の念を作なさく、何を以てか衆生をして、無上道に入り、速やかに仏身を成就することを得せしめんと)」 (開結510頁)と仏様は「常に何とかして衆生を悟らせ、速やかに成仏の境界へ導きたいと願っている」とおっしゃっているのです。
 ですから、私達に対して平等に与えられる本当の功徳は、結局は成仏ということになってくるわけです。
 成仏とは、死んでから成仏というものではなくて、即身成仏という、私達がその身そのまま、功徳を頂いて、そして私達が仏の境界において、いろんな人達を救っていくのです。
 今、日如上人猊下様がとにかく、「自分の幸せだけを祈らず、折伏をして行きなさい」と仰せ下さるのも、そこにつながってくるからです。
 私達が大聖人様のお使いになって、人を救ってあげようという気持ち、それが本当の仏の境界であるし、そういう仏の境界に私達は、ならせていただけるということが、すなわち平等の功徳であるわけです。
 逆に、この日蓮正宗の信心をしていて、折伏をしたいと思わない方、救って挙げたいと思う人がいない方は、信心が弱く、御本尊様から本当の功徳をまだまだ受けていない方だと言えます。

 私達の身の周りを見ますと、一つひとつの物事が皆、違った様相を呈しており、差別というものが確かにありますが、しかし、それらの物事の深い奥く底では一つになっていて、ことごとく御本仏日蓮大聖人様の平等大慧に根ざしているのです。

 私達も一見、差別されたそれぞれの境界に立っているように感じられますが、この信心をしている以上は、実は、妙法五字の光明に照らされて、その人その人が、その立場において、平等の功徳に浴しているということをよくよく感じて、これからもまた、信心修行に励んでいって頂きたいと思います。

観心を並べて読めば申すに及ばず観念せずと雖も始に申しつるごとく「所謂諸法如是相如」云云と読む時は如は空の義なれば我が身の先業にうくる所の相性体力・其の具する所の八十八使の見惑・八十一品の思惑・其の空は報身如来なり、「所謂諸法如是相」云云とよめば是れ仮の義なれば我が此の身先業に依つて受けたる相性体力云云其の具したる塵沙の惑悉く即身応身如来なり、「所謂諸法如是」と読む時は是れ中道の義に順じて業に依つて受くる所の相性等云云、其に随いたる無明皆退いて即身法身如来と心を開く、此の十如是・三転によまるる事・三身即一身・一身即三身の義なり三に分るれども一なり一に定まれども三なり。(一念三千法門・御書 111頁)

 

 

一念三千法門

一念三千法門