1200夜:祈ってギャンブルをしたら当たるだろうか?
祈ってギャンブルをしたら当たるだろうか?
【質問】
投資やパチンコで生計を立てようとして、御本尊様に祈念している人がいるのですが、これはギャンブルではないのでしょうか?うまくいくとは思えないのですが。
【回答】
まず、株式への投資ということですが、キチンと経済や株の勉強をして、現在の株価の動向をしっかり読み取った上で投資をしていくのであれば、これはギャンブルではありません。資本主義社会における経済活動の一環であり、それなりに利益を上げることも可能です。ただ、そこまでのレベルに到達するには、時間も労力もかかりますが、そのことを承知した上で、しっかりと御祈念しながら、株の勉強をして利益を上げていこうというのであれば、それで良いと思います。
ところが、そういうことでなく、株のことも経済のことも、たいしてわかっていないのに、一攫千金を夢見て「上がったら大儲けだ」などと考えて、お金を賭けるとしたら、まさしくギャンブルです。
同じことがパチンコについてもいえると思います。私はやらないので、よくわかりませんが、パチンコについても、やはり技術があるらしいのです。その技術を磨いて、それを職業・生業として「プロ」として生計を立てていく、ということなら、それも良いと思います。
しかしながら、それなりに腕を磨いてもいない者が、大当たりを狙ってお金をつぎ込むとしたら、これはギャンブルです。
ギャンブルはいけません。
ギャンブルとは、競馬や競輪、もっと典型的で身近なのは宝くじですが、要するに勉強や努力というより、運とカンを頼りにお金を儲けようとすることです。
もし、そういったことで、何ら努力も勉強もせず、働かずにお金が儲かってしまうと、人間は堕落してしまいます。
昔、こんなことがありました。
ある創価学会員が、パチンコの玉を御宝前にお供えして、「どうか、友達をたくさん連れて帰ってきますように」と一生懸命に御祈念し、そして、パチンコをしました。そのパチンコ玉は、あっという間に、お友達に連れていかれてしまったそうです。(大笑い)
そんなものです。もし、御本尊様に御祈念したことで、宝くじが当たる、競馬・競輪が当たる、ということになれば、その人は堕落してしまいます。御本尊様が、そんなことにされるはずがないではありませんか。御本尊様の主師親の働きは、その人を正しく導いてくださるのですから。
それ故、場合によっては御本尊様からお灸をすえられて、「パチンコ玉が全部、お友達に連れていかれてしまった」ということも起きてしまうのです。
この際、はっきり申し上げておきますが、日蓮正宗の信仰を正しく行じている人が、仕事がうまくいかないから、生計が厳しいからといって、それを宝くじで儲けて埋め合わせよう、などと考えてギャンブルに手を出しても、絶対にうまくはいきません。ギャンブルが当たるように、などと御祈念しても、かえってうまくいかなくなるのが仏法の功徳であるといえましょう。
これを聞いて心当たりのある人は、直ちに止めた方が懸命です(笑い)。
現に、この中でも、“御本尊様に祈って賭け事に手を出し、うまくいった”という人はいないと思うのですが、いかがでしょうか?(「ハイ」と小さな声あり)
一方、そういうことでなく、金銭的に余裕のある中から、ちょっとした楽しみで宝くじを一枚買った、というようなことは、ギャンブルなどとは呼びませんし、問題ないのです。そういうことなら、期せずして当たることもあるかもしれません。
以前、ある年輩の婦人が、余裕のある中での楽しみとして、毎年一枚ずつ宝くじを買っていました。それが、たまたま五十万円当たったことがあるのです。その人は、そのお金をほとんど御供養されていました。
この話を聞いて、「我も、我も」というのが凡夫の浅ましさです(笑い)。断言しておきますが、絶対にうまくいきませんよ。
また、「自分はまだお題目が足りないから当たらないのだ」などと思っていた人も、無駄な抵抗ですので、もう止めた方がいいでしょう。
投資やパチンコで生計を立てようとして、御本尊様に祈念している人がいるのですが、これはギャンブルではないのでしょうか?うまくいくとは思えないのですが。
【回答】
まず、株式への投資ということですが、キチンと経済や株の勉強をして、現在の株価の動向をしっかり読み取った上で投資をしていくのであれば、これはギャンブルではありません。資本主義社会における経済活動の一環であり、それなりに利益を上げることも可能です。ただ、そこまでのレベルに到達するには、時間も労力もかかりますが、そのことを承知した上で、しっかりと御祈念しながら、株の勉強をして利益を上げていこうというのであれば、それで良いと思います。
ところが、そういうことでなく、株のことも経済のことも、たいしてわかっていないのに、一攫千金を夢見て「上がったら大儲けだ」などと考えて、お金を賭けるとしたら、まさしくギャンブルです。
同じことがパチンコについてもいえると思います。私はやらないので、よくわかりませんが、パチンコについても、やはり技術があるらしいのです。その技術を磨いて、それを職業・生業として「プロ」として生計を立てていく、ということなら、それも良いと思います。
しかしながら、それなりに腕を磨いてもいない者が、大当たりを狙ってお金をつぎ込むとしたら、これはギャンブルです。
ギャンブルはいけません。
ギャンブルとは、競馬や競輪、もっと典型的で身近なのは宝くじですが、要するに勉強や努力というより、運とカンを頼りにお金を儲けようとすることです。
もし、そういったことで、何ら努力も勉強もせず、働かずにお金が儲かってしまうと、人間は堕落してしまいます。
昔、こんなことがありました。
ある創価学会員が、パチンコの玉を御宝前にお供えして、「どうか、友達をたくさん連れて帰ってきますように」と一生懸命に御祈念し、そして、パチンコをしました。そのパチンコ玉は、あっという間に、お友達に連れていかれてしまったそうです。(大笑い)
そんなものです。もし、御本尊様に御祈念したことで、宝くじが当たる、競馬・競輪が当たる、ということになれば、その人は堕落してしまいます。御本尊様が、そんなことにされるはずがないではありませんか。御本尊様の主師親の働きは、その人を正しく導いてくださるのですから。
それ故、場合によっては御本尊様からお灸をすえられて、「パチンコ玉が全部、お友達に連れていかれてしまった」ということも起きてしまうのです。
この際、はっきり申し上げておきますが、日蓮正宗の信仰を正しく行じている人が、仕事がうまくいかないから、生計が厳しいからといって、それを宝くじで儲けて埋め合わせよう、などと考えてギャンブルに手を出しても、絶対にうまくはいきません。ギャンブルが当たるように、などと御祈念しても、かえってうまくいかなくなるのが仏法の功徳であるといえましょう。
これを聞いて心当たりのある人は、直ちに止めた方が懸命です(笑い)。
現に、この中でも、“御本尊様に祈って賭け事に手を出し、うまくいった”という人はいないと思うのですが、いかがでしょうか?(「ハイ」と小さな声あり)
一方、そういうことでなく、金銭的に余裕のある中から、ちょっとした楽しみで宝くじを一枚買った、というようなことは、ギャンブルなどとは呼びませんし、問題ないのです。そういうことなら、期せずして当たることもあるかもしれません。
以前、ある年輩の婦人が、余裕のある中での楽しみとして、毎年一枚ずつ宝くじを買っていました。それが、たまたま五十万円当たったことがあるのです。その人は、そのお金をほとんど御供養されていました。
この話を聞いて、「我も、我も」というのが凡夫の浅ましさです(笑い)。断言しておきますが、絶対にうまくいきませんよ。
また、「自分はまだお題目が足りないから当たらないのだ」などと思っていた人も、無駄な抵抗ですので、もう止めた方がいいでしょう。