1217夜:前世の記憶がある人がいますが、死後の世界はあるのですか?
死後、魂が抜け出して光の世界へ行く?
【質問】
近年、世間では、「人間は死んだらどうなるのか」という話がブームになりました。
そういった研究をしている学者の本もたくさん出ています。
そうした中に、「私は前世を見た」という体験談や、「人間が死ぬと、魂が抜け出す」というようなことが書かれてあるのですが、どこまで信じてよいのでしょうか。
【回答】
単純に、前世があるとか、死後の来世があるということだけなら、問題はないのですが、それら巷に出廻っている本の内容を見てみますと、道理の上から考えて、明らかに間違っていることがたくさんあります。
たとえば、「人が亡くなると魂が抜け出して…」という話ですが、なぜ、そのような説が出てきたのかというと、仮死状態から生き返った人が、その間の記憶について、「身体から抜け出して、上から自分の遺体を見下ろしていた」と語ったことを根拠としているようです。それで、人が死ぬと霊魂が抜け出して、身体の三メートルくらい上に、しばらくの間、留まっているというのです。
しかも、その霊魂には三十五グラムの重さがある、とも言われてきました。死ぬ間際の人を体重計に乗せて計っていたら、死んだと同時に、体重が三十五グラム減ったから、これが霊魂の重さだ、というのです。
しかし、この話は絶対に誤りです。
私は前々から、「もし、三十五グラム減ったとすれば、何か、別な理由がある。亡くなると同時に失禁してしまった、その分が三十五グラムだったとか…」と言ってきました。
だいたい、「身体の中から、三十五グラムの霊魂が抜け出した」というのなら、その“霊魂”は、重さをもった物質的な存在ということになりますから、物理的に観測できるはずです。
いまや、精密な電子顕微鏡ができたことによって、微生物や細胞に至るまで、いや、分子や原子レベルまで見ることができる時代です。
それにもかかわらず、三十五グラムの霊魂など、誰も観測できたためしがありません。
おかしいじゃないですか。
これについては最近、学者達が臨床実験を行なった結果、死亡時に体重は全く減少しない、ということがわかったそうですから、もはや私が力説する必要もないでしょう。
また、「死ねば皆、どんな人でも差別なく、一様に光の世界に入っていく」などということも言われていますが、これも絶対にありえないことです。
もし、それがありえるのなら、なぜ臨終の後の死相に、“地獄の相”と“成仏の相”といった違いが出るのでしょうか。
大聖人は、
「一代聖教の論師・人師の書釈あらあらかんがへあつめて此を明鏡として、一切の諸人の死する時と並びに臨終の後とに引き向けてみ候へば、すこしもくもりなし」(御書一四八二頁)
つまり、「一切の人の死ぬ時の様子、また死んだ後の死相の状態を、経典に照らし合わせてみれば、一点の曇りもない。大謗法を犯して地獄に堕ちた人は地獄の相を現ずるし、正しい仏法を行じて成仏を遂げた人は成仏の相を現ずるのだ」ということを示され、すべて経典に説かれているとおりだ、と仰せられています。
現実に、我々も、数多くの事例を見てきていますが、その体験の上から言っても、まさに本当に曇りがなく、経典に説かれているとおりです。
であるならば、死後の生命の境界は、けっして一様ではなく、そこには必ず差別があるはずなのです。
また、道理の上からいっても、生前に悪事をなした者と善事をなした者とが、死後に同じ果報を受ける、などということはありえません。悪因があるから悪果が生じ、善因があるから善果が生じる、というのが道理であって、悪因・善因も、死んでしまえば全て善果になる、などという馬鹿なことがあるはずがないではありませんか。
なかには、“臨終の相”に対する批判として「臨終の相が人によって違うのは、生前の生き様の結果を現わしているかもしれないが、死後の状態を現わすとは限らない」などと言う人もいます。
死ぬ時の相に“成仏の相”と“地獄の相”の違いがあるというだけなら、そうも言えるかもしれませんが、しかし、いったん堕地獄の悪相で亡くなっていても、正法で供養すれば、死後、何時間か経っていても、きれいな善相に変わっていきます。これも、私達が何度も見てきている現実です。
ということは、正法で供養することによって死後の生命が救われているからこそ、死後の生命と最も縁の深い遺体の上に、そうした変化が現われている、としか考えられないではありませんか。
以上のことからも、仏法に説かれるとおり、生命は死後にまで継続しており、なおかつ、そこには堕獄や成仏という差別が、厳然とあるのです。
また、世間の書物の中では、退行催眠(過去へ過去へと遡っていって記憶を引き出す、という催眠術)をかけられた人達の多くが、「自分は前世で死んだ後、この世に生まれるまでの間、光の世界にいってきた」という発言をしている、などとも書かれていますが、これはいったい、どういうことだと考えられるでしょうか。
結論からいえば、それは堕地獄の苦悩を味わった部分の記憶が完全に消えてしまっている、ということです。
仏法上からいいますと、私達の生命の、最も表層のところに「眼・耳・鼻・舌・身・意」という六根があり、さらに、その奥に七識と呼ばれる無意識の領域がありますが、死ぬことによって、この七識まで、すなわち眼・耳・鼻・舌・身はもとより、意識、無意識までが冥伏(その存在が表面的には見当たらなくなってしまうこと)してしまいます。
したがって、死後の生命には、自分で物事を認識し考えたりする意識や、その奥の無意識の働きまでがなくなっています。それらは全て、さらにその奥の八識の部分へ引っ込んでしまっている、と言えましょう。
これを、海の波で譬えてみますと、平らな水面が盛り上がって波が立ち、盛り上がった波が、しばらく経つと、また元の水の中に引っ込んでしまう。
それと同じように、我々が生きて活動をしている時は、六識もあり七識もあり、表面にそういう活動が現われていて、いろいろな感覚器官が働いているわけです。しかし、死によって、波が水面に引っ込んでいくように、六識・七識の働きは八識の奥に引っ込んで、冥伏してしまうわけです。
ですから、死後の生命は意識も無意識も働かなくなっていますから、前世で死んだ後の記憶など、残っているわけがないのです。
また、もう一つには、我々には自己防衛本能があって、極度の苦悩は記憶からスッポリ抜けてしまう、という場合があります。そして、死後の無間地獄の苦しみの有り様は、それを詳しく聞いた者が血を吐いてショック死するほど恐ろしい、というわけですから、地獄に堕ちていた間の状態について、記憶の中に留まっているはずがありません。
以上のようなことから、退行催眠によって前世の記憶を引き出すことができたり、また、ごく稀に前世の記憶を持っている人が生まれることはあっても、前世の死から今世に生を受けるまでの間については、皆、一様に、その部分の記憶がポッカリと抜けて断絶しているはずです。そのために、その空白状態のことが単純に「光の世界」のような話になってしまっているのではないか、と考えられます。
しかし、六識、七識のところに、そういう記憶が留まらなかったとしても、八識のところには善業・悪業が貯蔵されていて、その果報として、厳然と死後の生命には地獄の苦しみや成仏の安息感があり、その差別が現証として死相の上に現われてくるわけです。
これらの現証は、動かすことができません。
以上のことから見た時、“死ねば全て同じ光の世界へ行く”とか、“死後というのは誰にとっても素晴らしい世界だ”などという考え方は、まったく間違いであります。道理からいっても現証からいっても、これは否定されるべき見解です。
しかし、世間においては、そういう本や出版物が氾濫し、今までになく、広く人々に受け入れられている、という状態が起きています。信心している人がこれらの考え方に影響を受けていって、問題はないのかといえば、問題は大ありです。
それは、まず外道の考え方に堕することになってしまいます。
仏法では、死後を「空」として捉えるわけですが、「霊魂が抜け出して…」という考え方は「空」ではなく、「有」つまり、その死後の霊魂に実体があるという考え方で、すでに釈尊が「空」の概念をもって破しているものです。
また、死後に成仏や堕獄の違いはなくて、全てが光の世界に入っていく、などということを立てるとすれば、これは因果を否定することになり、因果無視になります。
そして、当然、このような考え方は、仏道修行者として、浅識・計我に当たることは間違いありません。
それらを信ずることにより、今度は徐々に仏法が信じられなくなっていき、ついには不信謗法を形成していくことになってしまうでしょう。
ですから、興味半分でそういう本を読んで、無条件でその考え方を受け入れてしまったり、あるいは、その影響による小さな間違いを放っておくと、やがては大不信謗法を形成することがありますので、充分に注意していくことが大切であります。
近年、世間では、「人間は死んだらどうなるのか」という話がブームになりました。
そういった研究をしている学者の本もたくさん出ています。
そうした中に、「私は前世を見た」という体験談や、「人間が死ぬと、魂が抜け出す」というようなことが書かれてあるのですが、どこまで信じてよいのでしょうか。
【回答】
単純に、前世があるとか、死後の来世があるということだけなら、問題はないのですが、それら巷に出廻っている本の内容を見てみますと、道理の上から考えて、明らかに間違っていることがたくさんあります。
たとえば、「人が亡くなると魂が抜け出して…」という話ですが、なぜ、そのような説が出てきたのかというと、仮死状態から生き返った人が、その間の記憶について、「身体から抜け出して、上から自分の遺体を見下ろしていた」と語ったことを根拠としているようです。それで、人が死ぬと霊魂が抜け出して、身体の三メートルくらい上に、しばらくの間、留まっているというのです。
しかも、その霊魂には三十五グラムの重さがある、とも言われてきました。死ぬ間際の人を体重計に乗せて計っていたら、死んだと同時に、体重が三十五グラム減ったから、これが霊魂の重さだ、というのです。
しかし、この話は絶対に誤りです。
私は前々から、「もし、三十五グラム減ったとすれば、何か、別な理由がある。亡くなると同時に失禁してしまった、その分が三十五グラムだったとか…」と言ってきました。
だいたい、「身体の中から、三十五グラムの霊魂が抜け出した」というのなら、その“霊魂”は、重さをもった物質的な存在ということになりますから、物理的に観測できるはずです。
いまや、精密な電子顕微鏡ができたことによって、微生物や細胞に至るまで、いや、分子や原子レベルまで見ることができる時代です。
それにもかかわらず、三十五グラムの霊魂など、誰も観測できたためしがありません。
おかしいじゃないですか。
これについては最近、学者達が臨床実験を行なった結果、死亡時に体重は全く減少しない、ということがわかったそうですから、もはや私が力説する必要もないでしょう。
また、「死ねば皆、どんな人でも差別なく、一様に光の世界に入っていく」などということも言われていますが、これも絶対にありえないことです。
もし、それがありえるのなら、なぜ臨終の後の死相に、“地獄の相”と“成仏の相”といった違いが出るのでしょうか。
大聖人は、
「一代聖教の論師・人師の書釈あらあらかんがへあつめて此を明鏡として、一切の諸人の死する時と並びに臨終の後とに引き向けてみ候へば、すこしもくもりなし」(御書一四八二頁)
つまり、「一切の人の死ぬ時の様子、また死んだ後の死相の状態を、経典に照らし合わせてみれば、一点の曇りもない。大謗法を犯して地獄に堕ちた人は地獄の相を現ずるし、正しい仏法を行じて成仏を遂げた人は成仏の相を現ずるのだ」ということを示され、すべて経典に説かれているとおりだ、と仰せられています。
現実に、我々も、数多くの事例を見てきていますが、その体験の上から言っても、まさに本当に曇りがなく、経典に説かれているとおりです。
であるならば、死後の生命の境界は、けっして一様ではなく、そこには必ず差別があるはずなのです。
また、道理の上からいっても、生前に悪事をなした者と善事をなした者とが、死後に同じ果報を受ける、などということはありえません。悪因があるから悪果が生じ、善因があるから善果が生じる、というのが道理であって、悪因・善因も、死んでしまえば全て善果になる、などという馬鹿なことがあるはずがないではありませんか。
なかには、“臨終の相”に対する批判として「臨終の相が人によって違うのは、生前の生き様の結果を現わしているかもしれないが、死後の状態を現わすとは限らない」などと言う人もいます。
死ぬ時の相に“成仏の相”と“地獄の相”の違いがあるというだけなら、そうも言えるかもしれませんが、しかし、いったん堕地獄の悪相で亡くなっていても、正法で供養すれば、死後、何時間か経っていても、きれいな善相に変わっていきます。これも、私達が何度も見てきている現実です。
ということは、正法で供養することによって死後の生命が救われているからこそ、死後の生命と最も縁の深い遺体の上に、そうした変化が現われている、としか考えられないではありませんか。
以上のことからも、仏法に説かれるとおり、生命は死後にまで継続しており、なおかつ、そこには堕獄や成仏という差別が、厳然とあるのです。
また、世間の書物の中では、退行催眠(過去へ過去へと遡っていって記憶を引き出す、という催眠術)をかけられた人達の多くが、「自分は前世で死んだ後、この世に生まれるまでの間、光の世界にいってきた」という発言をしている、などとも書かれていますが、これはいったい、どういうことだと考えられるでしょうか。
結論からいえば、それは堕地獄の苦悩を味わった部分の記憶が完全に消えてしまっている、ということです。
仏法上からいいますと、私達の生命の、最も表層のところに「眼・耳・鼻・舌・身・意」という六根があり、さらに、その奥に七識と呼ばれる無意識の領域がありますが、死ぬことによって、この七識まで、すなわち眼・耳・鼻・舌・身はもとより、意識、無意識までが冥伏(その存在が表面的には見当たらなくなってしまうこと)してしまいます。
したがって、死後の生命には、自分で物事を認識し考えたりする意識や、その奥の無意識の働きまでがなくなっています。それらは全て、さらにその奥の八識の部分へ引っ込んでしまっている、と言えましょう。
これを、海の波で譬えてみますと、平らな水面が盛り上がって波が立ち、盛り上がった波が、しばらく経つと、また元の水の中に引っ込んでしまう。
それと同じように、我々が生きて活動をしている時は、六識もあり七識もあり、表面にそういう活動が現われていて、いろいろな感覚器官が働いているわけです。しかし、死によって、波が水面に引っ込んでいくように、六識・七識の働きは八識の奥に引っ込んで、冥伏してしまうわけです。
ですから、死後の生命は意識も無意識も働かなくなっていますから、前世で死んだ後の記憶など、残っているわけがないのです。
また、もう一つには、我々には自己防衛本能があって、極度の苦悩は記憶からスッポリ抜けてしまう、という場合があります。そして、死後の無間地獄の苦しみの有り様は、それを詳しく聞いた者が血を吐いてショック死するほど恐ろしい、というわけですから、地獄に堕ちていた間の状態について、記憶の中に留まっているはずがありません。
以上のようなことから、退行催眠によって前世の記憶を引き出すことができたり、また、ごく稀に前世の記憶を持っている人が生まれることはあっても、前世の死から今世に生を受けるまでの間については、皆、一様に、その部分の記憶がポッカリと抜けて断絶しているはずです。そのために、その空白状態のことが単純に「光の世界」のような話になってしまっているのではないか、と考えられます。
しかし、六識、七識のところに、そういう記憶が留まらなかったとしても、八識のところには善業・悪業が貯蔵されていて、その果報として、厳然と死後の生命には地獄の苦しみや成仏の安息感があり、その差別が現証として死相の上に現われてくるわけです。
これらの現証は、動かすことができません。
以上のことから見た時、“死ねば全て同じ光の世界へ行く”とか、“死後というのは誰にとっても素晴らしい世界だ”などという考え方は、まったく間違いであります。道理からいっても現証からいっても、これは否定されるべき見解です。
しかし、世間においては、そういう本や出版物が氾濫し、今までになく、広く人々に受け入れられている、という状態が起きています。信心している人がこれらの考え方に影響を受けていって、問題はないのかといえば、問題は大ありです。
それは、まず外道の考え方に堕することになってしまいます。
仏法では、死後を「空」として捉えるわけですが、「霊魂が抜け出して…」という考え方は「空」ではなく、「有」つまり、その死後の霊魂に実体があるという考え方で、すでに釈尊が「空」の概念をもって破しているものです。
また、死後に成仏や堕獄の違いはなくて、全てが光の世界に入っていく、などということを立てるとすれば、これは因果を否定することになり、因果無視になります。
そして、当然、このような考え方は、仏道修行者として、浅識・計我に当たることは間違いありません。
それらを信ずることにより、今度は徐々に仏法が信じられなくなっていき、ついには不信謗法を形成していくことになってしまうでしょう。
ですから、興味半分でそういう本を読んで、無条件でその考え方を受け入れてしまったり、あるいは、その影響による小さな間違いを放っておくと、やがては大不信謗法を形成することがありますので、充分に注意していくことが大切であります。
有名な研究書をご紹介いたしましょう。
精神科医が綿密に調査を行った研究書です。
記憶の刷り込みや、夢との混同など、疑われる事象を排除していき、疑い得ない記憶事例を特定しています。
実際、前世で殺されたと言う子供が、前世の自分を殺した犯人を告知し、発見できていない遺体の遺棄現場を教え、犯人が逮捕された例があります。
有名なロス博士の研究書です。
霊との交信話なども出てきます。
例が実体化する話など興味深いです。
エクトプラズムですかね。
霊にも高級霊と、邪悪霊がいるみたいな話もあって、やはりオカルトにのめり込むのは危険かと。