1222夜:幽霊や霊魂が見えたり、体に触れられたりすることについて
幽霊や霊魂が見える理由は?
【質問】
幽霊や霊魂を見たという話を聞くことがありますが、これは、どういうことなのでしょうか。
【回答】
仏法では、死後にまで生命が続くことを説いていますが、だからといって、幽霊や霊魂の実体を認めているわけではありません。
昔から、人が死ぬと、その身体から霊体とか霊魂といったものが抜け出して漂っていく、ということが言われます。しかし、そのような実体は、いまだに観測されていません。今日においては、電子顕微鏡で分子・原子のレベルまで見ることができるようになっているのですから、もし霊体なり霊魂という実体が存在していて、この空間に浮遊しているとしたら、それが観測できないはずがありません。
そこで、観測できない理由として、幽霊や霊魂は物質ではなく精神体である、という事が言われます。
しかし、この説も、よく考えてみると変なのです。
まず、私達が真空だと思っている空間も、じつは本当の真空ではありません。空間には細かい粒子が詰まっているのです。その粒子がぎっしり詰まっている空間の中を、精神だけの霊魂が、物質をかき分けて動き回っている、というのでしょうか。だとしたら、かき分けられた軌跡が観測できてよいはずです。
つまり、幽霊や霊魂のような実体が本当に存在しているのなら、物質的な側面を持っていようと、いまいと、今日の科学で必ず観測できるはずなのです。だから、そのような存在はあり得ない、ということになります。
しかしながら、幽霊を見たとか、声を聞いた、あるいは身体を触られた、という人が大勢いることも事実です。また、幽霊の出た場所に十人の人がいたとして、そのうちの二人とか三人が同じように幽霊を見ている、という現実もあります。
それを、単に嘘だとか、錯覚だとか、その人達の精神状態がおかしかった、ということで片付けることはできません。
では、こうした霊的な現象は何なのかということですが、これは、感応という精神の作用の一端であると考えられます。
譬えて言えば、テレビのようなものです。我々が生活しているこの空間には、無数のテレビの電波がきています。しかし、それは我々の目に見えないし、耳で聞くこともできません。今、こうしている時に、「みのもんた」の声が聞こえるとか、「タモリ」の姿が見える、などという人はいませんよね(笑い)。
ところが、テレビをつけて、その電波に波長を合わせると、電波の中に乗せられている人の姿を映像として見ることができ、音声を聞くことができます。しかし、現実にそういう人が、その場所にいるわけではありません。
死後の生命ということも、それと同じことなのです。
幽霊や霊魂といった実体がそこに存在しているわけではありませんが、しかし、死後の生命というものは確かに存在しているのです。
どのような状態で存在しているのかというと、生前に作った業によって、この宇宙間に存在する十界のいずこかに果報を受け、そこに渾然一体となって溶け込んでいるのです。
そして、その中には、地獄界に堕ちたり、餓鬼界に堕ちて、苦悩を感じている生命もあるのです。
そういう死後の生命は、我々の目で所在を見分けることはできません。しかし、時として、生命力の落ちた人が、そういう死後の生命と波長が合ってしまうことがあるのです。
自らの生命力が落ちて、地獄界や餓鬼界等の境界に陥っているために、この宇宙法界の中の地獄界に堕ちて苦しんでいる生命、餓鬼界に堕ちて苦しんでいる生命と波長が合ってしまい、その結果として、そこに幽霊の姿が見えたり声が聞こえたりしてしまうのです。
だから、同じ場所にいても、ある人には見えるのに、ある人には見えない、という違いが出てしまうわけです。
中には、“手を触られ、その感触が残っていた”という人もありますが、これも見えたり聞こえたりするのと同じことです。
これについて、もう少し説明をしておきますと、人間の生命の一番外側にあって外界と接している器官を、仏法では六根といいます。六根というのは、目で物を見、耳で音を聞き、鼻で臭いを嗅いで、舌で味わいを感じ、皮膚で固い、柔らかい、熱い、冷たいという触感を知り、心で人の想いなどを感じる、ということです。我々は、この眼・耳・鼻・舌・身・意という六つの感覚器官を使って、物事を感じ取っているのです。
そして、死後の生命と感応した場合には、この六つめの感覚である意(心)根で死後の生命を感じてしまい、それが、さらに眼に見えたり、耳に聞こえたり、身に触られたたように感じてしまうのだ、といえます。
実体のないものが見えたり、聞こえたり、感触がある、などということがあるのか、といえば、あるのです。夢について考えてみてください。眠っている時に、心の中で思い描く人の姿が、はっきりと見え、その声が聞こえ、時には触れている実感もあるではないですか。実体がないのに、心を中心とする六根ではそう感じているわけです。これでおわかりですね。
また、心霊写真というものがありますが、これも同じことです。
同じ場所でシヤッターを切っても、Aさんが撮った写真には幽霊が映っているのに、Bさんが撮った写真には映っていない、ということがあります。そこに本当に実体があるのなら、誰がシヤッターを切っても映るはずですが、そのような違いが起きるのは、そこに幽霊などという実体がないからです。
では、なぜ映るのかといえば、波長が合ってしまった人の意の作用、念の作用で、その姿がフィルムに焼き付けられた、と考えられましょう。
なお、生命力が低いために幽霊や霊魂が見えることを、世間では「霊感が強い」などと言って、何か特別な能力があるかのように言いますが、たまったものではありません。
バス停で並んでいる時に、ふと横を見たら幽霊が立っていたとか、電車に乗って座ろうとしたら、そこに幽霊が座っていたとか、夜、目が覚めたら、隣に知らない人の血まみれの顔があったとか(笑い)、そんなことばかり起き続けたら、とても正常な神経ではいられなくなり、普通の健全な生活ができなくなってしまいます。こんなことは素晴らしい能力などではなく、生命力が低いのです。
ところが、正しい仏法を信仰していきますと、次第に生命力が強くなりますので、当然、そういうものは見えなくなっていきます。講中には、入信前によく幽霊を見た、という人が何人もいますが、皆、この正法の信仰に励む中で見えなくなっています。
正しい信仰をすることによって生命力が強くなれば、そのような現象は起こらなくなるのであります。
幽霊や霊魂を見たという話を聞くことがありますが、これは、どういうことなのでしょうか。
【回答】
仏法では、死後にまで生命が続くことを説いていますが、だからといって、幽霊や霊魂の実体を認めているわけではありません。
昔から、人が死ぬと、その身体から霊体とか霊魂といったものが抜け出して漂っていく、ということが言われます。しかし、そのような実体は、いまだに観測されていません。今日においては、電子顕微鏡で分子・原子のレベルまで見ることができるようになっているのですから、もし霊体なり霊魂という実体が存在していて、この空間に浮遊しているとしたら、それが観測できないはずがありません。
そこで、観測できない理由として、幽霊や霊魂は物質ではなく精神体である、という事が言われます。
しかし、この説も、よく考えてみると変なのです。
まず、私達が真空だと思っている空間も、じつは本当の真空ではありません。空間には細かい粒子が詰まっているのです。その粒子がぎっしり詰まっている空間の中を、精神だけの霊魂が、物質をかき分けて動き回っている、というのでしょうか。だとしたら、かき分けられた軌跡が観測できてよいはずです。
つまり、幽霊や霊魂のような実体が本当に存在しているのなら、物質的な側面を持っていようと、いまいと、今日の科学で必ず観測できるはずなのです。だから、そのような存在はあり得ない、ということになります。
しかしながら、幽霊を見たとか、声を聞いた、あるいは身体を触られた、という人が大勢いることも事実です。また、幽霊の出た場所に十人の人がいたとして、そのうちの二人とか三人が同じように幽霊を見ている、という現実もあります。
それを、単に嘘だとか、錯覚だとか、その人達の精神状態がおかしかった、ということで片付けることはできません。
では、こうした霊的な現象は何なのかということですが、これは、感応という精神の作用の一端であると考えられます。
譬えて言えば、テレビのようなものです。我々が生活しているこの空間には、無数のテレビの電波がきています。しかし、それは我々の目に見えないし、耳で聞くこともできません。今、こうしている時に、「みのもんた」の声が聞こえるとか、「タモリ」の姿が見える、などという人はいませんよね(笑い)。
ところが、テレビをつけて、その電波に波長を合わせると、電波の中に乗せられている人の姿を映像として見ることができ、音声を聞くことができます。しかし、現実にそういう人が、その場所にいるわけではありません。
死後の生命ということも、それと同じことなのです。
幽霊や霊魂といった実体がそこに存在しているわけではありませんが、しかし、死後の生命というものは確かに存在しているのです。
どのような状態で存在しているのかというと、生前に作った業によって、この宇宙間に存在する十界のいずこかに果報を受け、そこに渾然一体となって溶け込んでいるのです。
そして、その中には、地獄界に堕ちたり、餓鬼界に堕ちて、苦悩を感じている生命もあるのです。
そういう死後の生命は、我々の目で所在を見分けることはできません。しかし、時として、生命力の落ちた人が、そういう死後の生命と波長が合ってしまうことがあるのです。
自らの生命力が落ちて、地獄界や餓鬼界等の境界に陥っているために、この宇宙法界の中の地獄界に堕ちて苦しんでいる生命、餓鬼界に堕ちて苦しんでいる生命と波長が合ってしまい、その結果として、そこに幽霊の姿が見えたり声が聞こえたりしてしまうのです。
だから、同じ場所にいても、ある人には見えるのに、ある人には見えない、という違いが出てしまうわけです。
中には、“手を触られ、その感触が残っていた”という人もありますが、これも見えたり聞こえたりするのと同じことです。
これについて、もう少し説明をしておきますと、人間の生命の一番外側にあって外界と接している器官を、仏法では六根といいます。六根というのは、目で物を見、耳で音を聞き、鼻で臭いを嗅いで、舌で味わいを感じ、皮膚で固い、柔らかい、熱い、冷たいという触感を知り、心で人の想いなどを感じる、ということです。我々は、この眼・耳・鼻・舌・身・意という六つの感覚器官を使って、物事を感じ取っているのです。
そして、死後の生命と感応した場合には、この六つめの感覚である意(心)根で死後の生命を感じてしまい、それが、さらに眼に見えたり、耳に聞こえたり、身に触られたたように感じてしまうのだ、といえます。
実体のないものが見えたり、聞こえたり、感触がある、などということがあるのか、といえば、あるのです。夢について考えてみてください。眠っている時に、心の中で思い描く人の姿が、はっきりと見え、その声が聞こえ、時には触れている実感もあるではないですか。実体がないのに、心を中心とする六根ではそう感じているわけです。これでおわかりですね。
また、心霊写真というものがありますが、これも同じことです。
同じ場所でシヤッターを切っても、Aさんが撮った写真には幽霊が映っているのに、Bさんが撮った写真には映っていない、ということがあります。そこに本当に実体があるのなら、誰がシヤッターを切っても映るはずですが、そのような違いが起きるのは、そこに幽霊などという実体がないからです。
では、なぜ映るのかといえば、波長が合ってしまった人の意の作用、念の作用で、その姿がフィルムに焼き付けられた、と考えられましょう。
なお、生命力が低いために幽霊や霊魂が見えることを、世間では「霊感が強い」などと言って、何か特別な能力があるかのように言いますが、たまったものではありません。
バス停で並んでいる時に、ふと横を見たら幽霊が立っていたとか、電車に乗って座ろうとしたら、そこに幽霊が座っていたとか、夜、目が覚めたら、隣に知らない人の血まみれの顔があったとか(笑い)、そんなことばかり起き続けたら、とても正常な神経ではいられなくなり、普通の健全な生活ができなくなってしまいます。こんなことは素晴らしい能力などではなく、生命力が低いのです。
ところが、正しい仏法を信仰していきますと、次第に生命力が強くなりますので、当然、そういうものは見えなくなっていきます。講中には、入信前によく幽霊を見た、という人が何人もいますが、皆、この正法の信仰に励む中で見えなくなっています。
正しい信仰をすることによって生命力が強くなれば、そのような現象は起こらなくなるのであります。
創価時代、顕正会時代には時々、心霊現象を体験したことがありました。
また、意味もなくゾッとする感じを経験したこともあります。
ただ、心霊動画や心霊写真についての見解は異なります。
写ったモノは全ての人に見えるわけですから、実体があったということではないでしょうか?
如是作・如是因・如是縁によって、異界の衆生が現れることもあるのではないでしょうか?