1220夜:脳死はNO!「死」…現代医療と仏法
【質問】
近年、「脳死」ということが取り沙汰されていますが、脳死をもって人の死といってよいのでしょうか。
また、以前は脳死という概念はありませんでしたが、臓器移植を行なう上から、脳死をもって死亡と認定して、臓器を摘出するようになりました。この臓器移植については、仏法上、どう考えたらよいでしょうか。
また延命措置についてですが、衰弱して臨終も近い人に、わずかばかりの命を長らえさせるために延命措置をすることが、はたして、その人のためになることでしょうか。
【回答】
基本的には、「脳死」をもって人の死と断定してしまうことはできない、と考えます。
といいますのは、なぜ脳死をもって死亡と認定する医師がいるのかといえば、脳死状態から回復する人はなく、脳死になればやがて必ず死に至る、ということからです。
しかし、必ず死に至るとしても、その時点では、まだ完全に死亡しているわけではなく、身体の他の器官は活動しているわけですから、これを「死」と断定してしまうのは少々乱暴すぎます。
ところで仏法においては、
「一経の説に依るに、一切衆生の心の間に八葉の蓮華有り」(御書一五一五頁)
「我等衆生、法華経を持ちて南無妙法蓮華経と唱ふる胸中の肉団におはしますなり。是を九識心王真如の都とは申すなりり」(御書一三八八頁)
と、我々の生命に「八葉の蓮華」あるいは「九織心王真如の都」があると説いています。
これを、我々の身体に具体的に当てはめてみますと、「胸中」という位置や、「八葉の蓮華」という形状からいって、心臓のことを指しているものと拝せられます。ですから、心臓のところに我々の命を司っている大きな力があるということを、「八葉の蓮華」と言われたのでありましょう。
たしかに、脳は意識活動を司って、その人の個性・人格などを決定する重要な器官ではあります。しかし、仏法では、人間の生存を支えている大きな力が心臓にある、ということも指摘しているわけです。
そうして考えてみると、脳死状態になったとしても心臓が活動しているうちは、仏法上からも、その人が死亡したと断定することはできない、と思います。
また、これは稀な話ですが、臨死体験をする人がいます。過去の歴史の中には、呼吸も脈拍も停止して死亡宣告を受けながら、丸一日経って生き返ったという人もいます。その人が脳死状態だったのかどうかはわかりませんが、いったん死亡したものとされながらも、それから数時間後とか数十時間後に蘇生してきた人達が、現実にいるのです。
そうしたことからも、脳死となった時点で完全に死亡したものと断定することは、危険なことだと思います。
次に臓器移植の問題ですが、仏法においては、人が息を引き取り脈拍も停止して死に至った後も、それから数刻は、その人の生命がそこに留まっている、と説いています。その間は、周囲の話し声が聞こえていたり、あるいは、神経が過敏な状態となって身体の表面に集まってきており、わずかな衝撃でも重い石をドスンと落とされたような苦しみを感じる。だから、むやみと遺体にさわってはいけない、その人の意識が、まだ遺体に留まっていることを尊重して、慎重に丁重に扱っていかなくてはならない、というのです。
先はどの臨死体験をした人達の話によれば、自分が死んだと宣告された後、周囲の人達が嘆き悲しんでいる声がはっきり聞こえたとか、解剖しようという話が聞こえた、ということもあったようです。こうした事例から考えても、死亡して数刻の間は意識が留まっている、ということは真実なのでしょう。
だとすれば、医学的に死亡が宣告されたからといって、本人の意識がまだ留まっているうちに、眼を取り出すとか、肝臓を取り出す、あるいは解剖する、というのは、ひどく残酷な話に思えます。むろん、本人が希望して臓器を提供したい、というのを制止するわけではありませんが。
最後に、臨終の近い人への延命措置が良いことかどうか、という問題ですが、これは一概には言えないと思います。
もちろん、医療に従事する人であれば、延命のために精いっぱいの治療をするのが義務であり責任であります。
とはいえ、度の過ぎた延命治療は考えものではないでしょうか。
たとえば、まさに臨終を迎えようとしている人に、人工呼吸器をつけて強制的に肺に空気を送り込み、無理やり呼吸をさせて命を長らえさせようとすることがあります。そのようなことをされたら、臨終に、声を出してお題目が唱えられなくなってしまいます。ですから、私自身としてはお断わりしたいと思っています。
また、助かる見込みがあって人工呼吸器を使うのなら良いと思いますが、明らかに全身が衰弱して臨終を迎えようとしている時に、わずか数時間、あるいは一日か二日程度、脈を打たせておくために人工呼吸器をつけて、そのためにお題目が唱えられなくなる、というようなことは、御免こうむりたいものです。
我々にとって何より大切なことは、しっかりお題目を唱えて、大聖人様に迎えに来ていただき、成仏させていただくことなのですから。
逆に、これも最近、問題になっていることですが、安楽死といって、“この人はもう助からないのだから、ここで楽に死なせてあげよう”などとして、人為的に手を加えて死亡させる――これは、やってはいけないことです。その人の命は業によって定まっているのですから、そこに手を加えて縮めることは殺人行為であり、自分が悪業を積むこととなってしまいます。
近年、「脳死」ということが取り沙汰されていますが、脳死をもって人の死といってよいのでしょうか。
また、以前は脳死という概念はありませんでしたが、臓器移植を行なう上から、脳死をもって死亡と認定して、臓器を摘出するようになりました。この臓器移植については、仏法上、どう考えたらよいでしょうか。
また延命措置についてですが、衰弱して臨終も近い人に、わずかばかりの命を長らえさせるために延命措置をすることが、はたして、その人のためになることでしょうか。
【回答】
基本的には、「脳死」をもって人の死と断定してしまうことはできない、と考えます。
といいますのは、なぜ脳死をもって死亡と認定する医師がいるのかといえば、脳死状態から回復する人はなく、脳死になればやがて必ず死に至る、ということからです。
しかし、必ず死に至るとしても、その時点では、まだ完全に死亡しているわけではなく、身体の他の器官は活動しているわけですから、これを「死」と断定してしまうのは少々乱暴すぎます。
ところで仏法においては、
「一経の説に依るに、一切衆生の心の間に八葉の蓮華有り」(御書一五一五頁)
「我等衆生、法華経を持ちて南無妙法蓮華経と唱ふる胸中の肉団におはしますなり。是を九識心王真如の都とは申すなりり」(御書一三八八頁)
と、我々の生命に「八葉の蓮華」あるいは「九織心王真如の都」があると説いています。
これを、我々の身体に具体的に当てはめてみますと、「胸中」という位置や、「八葉の蓮華」という形状からいって、心臓のことを指しているものと拝せられます。ですから、心臓のところに我々の命を司っている大きな力があるということを、「八葉の蓮華」と言われたのでありましょう。
たしかに、脳は意識活動を司って、その人の個性・人格などを決定する重要な器官ではあります。しかし、仏法では、人間の生存を支えている大きな力が心臓にある、ということも指摘しているわけです。
そうして考えてみると、脳死状態になったとしても心臓が活動しているうちは、仏法上からも、その人が死亡したと断定することはできない、と思います。
また、これは稀な話ですが、臨死体験をする人がいます。過去の歴史の中には、呼吸も脈拍も停止して死亡宣告を受けながら、丸一日経って生き返ったという人もいます。その人が脳死状態だったのかどうかはわかりませんが、いったん死亡したものとされながらも、それから数時間後とか数十時間後に蘇生してきた人達が、現実にいるのです。
そうしたことからも、脳死となった時点で完全に死亡したものと断定することは、危険なことだと思います。
次に臓器移植の問題ですが、仏法においては、人が息を引き取り脈拍も停止して死に至った後も、それから数刻は、その人の生命がそこに留まっている、と説いています。その間は、周囲の話し声が聞こえていたり、あるいは、神経が過敏な状態となって身体の表面に集まってきており、わずかな衝撃でも重い石をドスンと落とされたような苦しみを感じる。だから、むやみと遺体にさわってはいけない、その人の意識が、まだ遺体に留まっていることを尊重して、慎重に丁重に扱っていかなくてはならない、というのです。
先はどの臨死体験をした人達の話によれば、自分が死んだと宣告された後、周囲の人達が嘆き悲しんでいる声がはっきり聞こえたとか、解剖しようという話が聞こえた、ということもあったようです。こうした事例から考えても、死亡して数刻の間は意識が留まっている、ということは真実なのでしょう。
だとすれば、医学的に死亡が宣告されたからといって、本人の意識がまだ留まっているうちに、眼を取り出すとか、肝臓を取り出す、あるいは解剖する、というのは、ひどく残酷な話に思えます。むろん、本人が希望して臓器を提供したい、というのを制止するわけではありませんが。
最後に、臨終の近い人への延命措置が良いことかどうか、という問題ですが、これは一概には言えないと思います。
もちろん、医療に従事する人であれば、延命のために精いっぱいの治療をするのが義務であり責任であります。
とはいえ、度の過ぎた延命治療は考えものではないでしょうか。
たとえば、まさに臨終を迎えようとしている人に、人工呼吸器をつけて強制的に肺に空気を送り込み、無理やり呼吸をさせて命を長らえさせようとすることがあります。そのようなことをされたら、臨終に、声を出してお題目が唱えられなくなってしまいます。ですから、私自身としてはお断わりしたいと思っています。
また、助かる見込みがあって人工呼吸器を使うのなら良いと思いますが、明らかに全身が衰弱して臨終を迎えようとしている時に、わずか数時間、あるいは一日か二日程度、脈を打たせておくために人工呼吸器をつけて、そのためにお題目が唱えられなくなる、というようなことは、御免こうむりたいものです。
我々にとって何より大切なことは、しっかりお題目を唱えて、大聖人様に迎えに来ていただき、成仏させていただくことなのですから。
逆に、これも最近、問題になっていることですが、安楽死といって、“この人はもう助からないのだから、ここで楽に死なせてあげよう”などとして、人為的に手を加えて死亡させる――これは、やってはいけないことです。その人の命は業によって定まっているのですから、そこに手を加えて縮めることは殺人行為であり、自分が悪業を積むこととなってしまいます。