1219夜:あなたも私も福子さん?
「福子」とは…?
【質問】
ときどき、「私は福子です」という発言を聞くことがあるのですが、「福子」とは、どういうことなのでしょうか?
また、自分で自分のことを「福子」と言うのも、何かおかしな気がするのですが、どうなのでしょうか?
【回答】
「福子」という言葉は、創価学会の中でよく使われていました。
この言葉は、大聖人から四条金吾殿に与えられた御書の中に拝することができます。
「懐胎のよし承り候ひ畢んぬ。それについては符の事仰せ候。日蓮相承の中より撰み出だして候。能く能く信心あるべく候。たとへば秘薬なりとも、毒を入れぬれば薬の用すくなし。つるぎなれども、わるびれたる人のためには何かせん。就中、夫婦共に法華の持者なり。法華経流布あるべきたねをつぐ所の玉の子出で生まれん。目出度く覚へ候ぞ。色心二法をつぐ人なり。争でかをそなはり候べき。とくとくこそうまれ候はむずれ。此の薬をのませ給はゞ疑ひなかるべきなり。闇なれども灯入りぬれば明らかなり。濁水にも月入りぬればすめり。明らかなる事日月にすぎんや。浄き事蓮華にまさるべきや。法華経は日月と蓮華となり。故に妙法蓮華経と名づく。日蓮又日月と蓮華との如くなり。信心の水すまば、利生の月必ず応を垂れ守護し給ふべし。とくとくうまれ候べし。法華経に云はく『如是妙法』と。又云はく『安楽産福子』云云。」(御書四六四頁)
すなわち、四条金吾殿の奥さんが懐胎したので、大聖人様が御秘符を与えられました(今日でも、信心している人が妊娠した場合、所属寺院を通じて御法主上人猊下から御秘符を頂戴することができます)。そして、大聖人様は、四条金吾夫妻が共に信心に励んでいる功徳と、御秘符の功徳によって、法華経に「安楽産福子」と説かれるとおり、健やかな子供を安産で産むことができるでしょう、と御教示されています。
この御書から、「福子」という言葉が、創価学会の中で一人歩きを始めたようです。
要するに、両親が創価学会員であれば、そこに産まれた子供は「福子」である、という単純な話になって、さらに、「私は福子です」「あなたは福子ですか」等と、何か福子という種類の人がいるかのような使い方となってしまい、本来の意味合いと異なるものになってしまったのです。
まず、この御金言は、信心強盛な四条金吾夫妻に子供が授かり、そこに大聖人様から御秘符を頂戴するなら、その功徳で福徳に満ちた子を安楽に産むことができる、という御言葉です。
それを、両親がただ入信してさえいれば、そこには福子が産まれてくる、と考えてしまうのは、あまりに短絡しています。
入信さえしていればいいのでしょうか。両親ともに勤行を怠けてばかりいて、御供養もしなければ折伏もしない、御登山も大昔に一度行ったきり――、そのような両親のもとに福子が産まれてくるのかどうか、はなはだ疑問であります。両親の信仰の状態を無視して、入信してさえいれば、産まれてくる子供は福子である等と、判で押したように言うことはできません。
ましてや、福子とは、福徳に満ちた子という意味であって、何か、福子という種類の人がいるわけではないのですから、「私は福子」「あなたは福子」などという言葉の使い方は間違いです。ましてや、自分から「私は福子です」などと言うのは、まるで、「私は他の人達とは異なる選ばれた人間です」と自ら言っているようではありませんか。
我々は皆、末法の罪障深き凡夫ですが、その中で自分は特別な福子である等という感覚でいるとしたら、大聖人の教えがわかっているとはいえないし、信仰上の謙譲心にも欠けていると思います。
ともあれ、そういう間違った意味で「福子」という言葉を覚えていた方は、この機会に、ぜひ、直してください
ときどき、「私は福子です」という発言を聞くことがあるのですが、「福子」とは、どういうことなのでしょうか?
また、自分で自分のことを「福子」と言うのも、何かおかしな気がするのですが、どうなのでしょうか?
【回答】
「福子」という言葉は、創価学会の中でよく使われていました。
この言葉は、大聖人から四条金吾殿に与えられた御書の中に拝することができます。
「懐胎のよし承り候ひ畢んぬ。それについては符の事仰せ候。日蓮相承の中より撰み出だして候。能く能く信心あるべく候。たとへば秘薬なりとも、毒を入れぬれば薬の用すくなし。つるぎなれども、わるびれたる人のためには何かせん。就中、夫婦共に法華の持者なり。法華経流布あるべきたねをつぐ所の玉の子出で生まれん。目出度く覚へ候ぞ。色心二法をつぐ人なり。争でかをそなはり候べき。とくとくこそうまれ候はむずれ。此の薬をのませ給はゞ疑ひなかるべきなり。闇なれども灯入りぬれば明らかなり。濁水にも月入りぬればすめり。明らかなる事日月にすぎんや。浄き事蓮華にまさるべきや。法華経は日月と蓮華となり。故に妙法蓮華経と名づく。日蓮又日月と蓮華との如くなり。信心の水すまば、利生の月必ず応を垂れ守護し給ふべし。とくとくうまれ候べし。法華経に云はく『如是妙法』と。又云はく『安楽産福子』云云。」(御書四六四頁)
すなわち、四条金吾殿の奥さんが懐胎したので、大聖人様が御秘符を与えられました(今日でも、信心している人が妊娠した場合、所属寺院を通じて御法主上人猊下から御秘符を頂戴することができます)。そして、大聖人様は、四条金吾夫妻が共に信心に励んでいる功徳と、御秘符の功徳によって、法華経に「安楽産福子」と説かれるとおり、健やかな子供を安産で産むことができるでしょう、と御教示されています。
この御書から、「福子」という言葉が、創価学会の中で一人歩きを始めたようです。
要するに、両親が創価学会員であれば、そこに産まれた子供は「福子」である、という単純な話になって、さらに、「私は福子です」「あなたは福子ですか」等と、何か福子という種類の人がいるかのような使い方となってしまい、本来の意味合いと異なるものになってしまったのです。
まず、この御金言は、信心強盛な四条金吾夫妻に子供が授かり、そこに大聖人様から御秘符を頂戴するなら、その功徳で福徳に満ちた子を安楽に産むことができる、という御言葉です。
それを、両親がただ入信してさえいれば、そこには福子が産まれてくる、と考えてしまうのは、あまりに短絡しています。
入信さえしていればいいのでしょうか。両親ともに勤行を怠けてばかりいて、御供養もしなければ折伏もしない、御登山も大昔に一度行ったきり――、そのような両親のもとに福子が産まれてくるのかどうか、はなはだ疑問であります。両親の信仰の状態を無視して、入信してさえいれば、産まれてくる子供は福子である等と、判で押したように言うことはできません。
ましてや、福子とは、福徳に満ちた子という意味であって、何か、福子という種類の人がいるわけではないのですから、「私は福子」「あなたは福子」などという言葉の使い方は間違いです。ましてや、自分から「私は福子です」などと言うのは、まるで、「私は他の人達とは異なる選ばれた人間です」と自ら言っているようではありませんか。
我々は皆、末法の罪障深き凡夫ですが、その中で自分は特別な福子である等という感覚でいるとしたら、大聖人の教えがわかっているとはいえないし、信仰上の謙譲心にも欠けていると思います。
ともあれ、そういう間違った意味で「福子」という言葉を覚えていた方は、この機会に、ぜひ、直してください