日蓮正宗のススメ

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1170夜:初信の功徳とはなんでしょうか?

日達上人様の御指南
皆さまがよくいうところの、はじめて折伏をうけて信心に入った時、すなわち初信の功徳というものがあります。初信の功徳が初随喜の位であります。
 この初信の功徳を忘れずに最後まで、臨終の最後まで続けていくところに真の信心があるのであります。この初信の功徳を、もち歓喜し続けていけないという人があるならば、それは折伏をすればよいのであります。折伏をして他人を教化していくところに、自分が受けた初信の功徳は、また新たなる功徳になって永遠に続いていくのであります。
 もし折伏を忘れ、他人を教化することを忘れたならば、自分が受けた初信の功徳はいつか忘れて、またもとの、無信の状態に移るのであります。
           (昭和42年8月11日 法華講連合会第四回総会お言葉)

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世阿弥の花鏡(かきょう)もいいですね。

日達上人様の御指南にありましたように、初信の功徳とは初随喜の位であります。
真剣に勉強してみたい人は、日蓮正宗聖典を購入して読んでみてください。『四信五品抄』に詳しく説かれています。
本山への御供養にもなりますし、教学の功徳も積めて一石二鳥です。

御書をお持ちでない方は、もちろん平成新編 日蓮大聖人御書(大石寺)も併せて購入してください。
今日で今年も早いものですが、1月が終わります。
1月は正月です。
ぜひ、正月をもてなすという信心の志を形にして、今年一年を飾りましょう。

一念信解の功徳は五波羅蜜の行に越へ、五十展転の随喜は八十年の布施に勝れたり。(持妙法華問答抄297㌻)
又一念信解の四字の中の信の一字は四信の初めに居し、解の一字は後に奪はるゝ故なり。若し爾らば無解有信は四信の初位に当たる。経に第二信を説いて云はく「略解言趣」云云。記の九に云はく「唯初信を除く、解無きが故に」と。随って次下の随喜品に至って上の初随喜を重ねて之を分明にす。五十人是皆展転劣なり。第五十人に至って二の釈有り。一には謂はく、第五十人は初随喜の内なり。二には謂はく、第五十人は初随喜の外なりと云ふは名字即なり。「教弥実なれば位弥下し」と云ふ釈は此の意なり。四味三教より円教は機を摂し、爾前の円教より法華経は機を摂し、迹門より本門は機を尽くすなり。「教弥実位弥下」の六字に心を留めて案ずべし。(四信五品抄1112㌻)

初随喜(しょずいき)の功徳とは                 
仏の信心とは、衆生の心に随喜の念(ずいきのねん)が生じることから始まるのです。
衆生がいくら多くの経典を読み勉強しても、教理(きょうり)を深く学んでも、それは学問の仏教なのです。
衆生の心にありがたいと思う感動が起きることで、仏の教えを真に信じるのです。
その意味で「信仰の方程式」について述べます。
信仰の世界には 信仰=信仰する対象×信仰 という方程式があります。
信仰の対象が100(完全)であっても、信仰の心(随喜の念・感動)が0なら 100×0=0の信仰になります。
信仰の対象が100(完全)ならば1の信仰の心であってもその信仰は1×100=100となります。
さらに、信仰の心が100であるならば10000の信仰となります。
又・逆に信仰心が100(百)であっても、その信仰の対象が0ゼロ)ならば、つまり対象が不完全な場合は0×100=0となってしまいます。その信仰は無価値なものなのです。
良い結果にはなりません。
さらに、信仰の対象が、マイナス1のときはマイナス1×100=マイナス100となってしまうのです。
最悪のケースとは信仰の対象が、マイナス100の場合です。
この場合、衆生の信仰心が100(百)であってもマイナス100×100=マイナス1万となります。
こうなると不幸なことや悪害が、その衆生に現われてくるのです。
無量無限の法華経戒壇の大御本尊様を受持すること)の教えは完全ですので、衆生の信仰心が、たとえ1であっても・50でも・100でも無量無限×信仰心(1・50・100)=無量無限となります。つまり、日蓮正宗の信仰は無限なのです。
このような意味で、衆生の信心がプラスであれば、日蓮正宗の信仰は無限大のものとなります。

五十展転(てんでん)とは
あなたがいる場所で、父母・親戚・友人・知人・などに自分が聞いた日蓮正宗の教えを、自分が聞いた通りのまま 自分のできるかぎりで 話し伝えたとします。
そして、その教えの話を聞いた人たちも 同様にありがたい随喜の心を覚えたまま、各地に出かけて行きまだ、日蓮正宗の話を聞いたことの無い人々たち相手に、自分が聞いたままを 話して伝えたとします。
これを聞いた人々も又随喜の心をおこして、あちこちの土地で、いろんな人に話し伝えたとします。
こうして、日蓮正宗の教えが人々の口から口へと伝わり、それが50回(50人)も展開されていったとします。
その50回目に聞いた善男子・善女人にも、同様の随喜の感激が生まれたとします。  このように 49人の言葉で伝わってきた法華経の教えなのだが 少しも薄まることはありません。
50回目に聞いた人の随喜の功徳でさえも、まことに大きい功徳なのです。
これが五十展転の意味です。

その前に、経文にある功徳の話に関連した 大事な要点を説明します。
①其の所聞の如く‥‥とは 教えを聞いた通りに他に伝える、という意味の言葉です。
人には、聞きまちがいもあるし・記憶力にも差があるし・自分の主観が加わることも よくあるのです。だから教えを伝えるときはー金太郎飴のように伝えるーことが大事なのです。金太郎飴は、どこを切っても、同じ金太郎が出てきます。このように、自分が聞いた言葉のまま教えを伝えることが大事なことなのです。
②力に随したがって‥‥とは二つの意味をもっています。話す人の力に応じてと、人の力の限りを尽くしての二つです。話しが上手いとか・ヘタとかは関係ありません。心をこめて、自分の限りを尽くすことが大切です。
③50回も人に伝えられ展開され‥‥とは、人から人へ伝わる話というものは、金太郎飴の原則を守って伝えていても、数多くの人々へ伝わっていくうちに話す人の温度が下がっていきやすいものです。これは、人の心の作用でよくあることです。話を伝える人も、最初の頃は溢れんばかりの新鮮感をにじませ、輝いていたのですが、やがて感動の心が薄れてくるにつれ金太郎飴の原則を忘れ、話が自己流じこりゅうになりがちです。
例えば、相手を説得することが目的になって、自慢気な天狗鼻の話しっぷりになりやすいものです。応々にして、人から人への話とはこのような姿におちいりがちです。自分でも充分に気をつけなければなりません。

八十年の布施とは
この宇宙に存在の六趣の生命、所謂天上界・人間界・修羅界・畜生界・餓鬼界・地獄界の生命、さらに四生の生命、いわゆる鳥・獣・虫けら・微生物・などの世界を含めすべての生命、又有想・無想・非有想・非無想の生命は皆、幸せに生きることを望んでいます。この宇宙のすべての生命は、自分の人生が苦労無く、煩わしく無く、幸せに生きれることを願っております。
そこで、ある大施主(施す人)が宇宙のすべての生命が、生活を楽しむためのもの・幸せに生きるのに欲するもの・すべて与えたのです。
それらの生命が満足するほどの金・銀・瑠璃・硨磲・瑪瑙・珊瑚・琥珀・の七宝、さらに、日常に必要な、象・馬・車や七宝で飾った建物など、とにかく何でも、どんな物でも、それぞれの生き物が欲するあらゆる物質をすべて与えたのです。
このように、その大施主は 80年間も長く財施しつづけておりました。80年間を過ぎたある時、大施主は、ふと考えました。今まで私は衆生が欲していたので、生活を楽しむための物や、欲するものすべて、彼らに与えてきた。しかし、この衆生たちはだんだんと年をとって、もう80歳という年齢をもすぎてしまった。
彼らは、髪は白く、顔はしわだらけに、死期も確実に、静かに近づいてきている。
だから今、私はこの人たちのために、仏法を教え涅槃の境地へ導いてやる必要があるだろう。
そこで大施主はすべての生命を集め、法を説き教化しました。
大施主の教えを聞いた生命は、皆、法を学び心が喜び、法も行も実行しようという気持ちが起きました。
その結果、それらの生命は、またたくまに
  須陀洹道しゅだおんどう 

  斯陀含道しだごんどう  

  阿那含道あなごんどう  

  阿羅漢道あらかんどう の境地を得て、
有漏うろ(すべての迷い)から離れ、どんなことがあっても心が乱れない深い禅定の境地まで達しました。
又どんな境遇であっても、その境遇に動かされない自由自在な心境を得たのです。

五十展転の随喜は八十年の布施に勝れたり

つまり、人づてに50番目に聞いた日蓮正宗の話で喜んだ功徳は、80年間の衆生への布施に優る功徳ですよということです。
初信の功徳を忘れずに最後まで信心を貫けば、日蓮正宗信徒として成仏できますよというのが、日達上人様の御指南なのです。
展転とは化他、つまりは人に話すことです。
私がブログを書き続けている理由もここにあるのです。
最後までお読み下さり、ありがとうございました。