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池上さんはお金持ち

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汾陽麻衣かわみなみまい)さんは、メチャメチャ美人だぞ

今日の出勤途中、FMでサンデーフリッカーズを聴きながら・・・

リスナーからのお便りに、「地名が名字の人はお金持ち」ってのがありまして。

春風亭一之輔師匠が、話の流れから、池上さんの話をされてました。

池上さんは、池上本門寺の池上さんらしくて、一緒にお仕事をしていた時に、毎回、1万円のお小遣いを師匠にくれていたんだとか。。。

師匠の話にも、池上さんの御先祖様が日蓮大聖人様の信徒で、御供養として池上本門寺の寺領を寄進したことが出ていました。

一之輔師匠が世話になった池上さんが、池上彰さんだったかどうか、運転中のことなのではっきりしませんが、もしそうだったらすごいなって。。。

池上本門寺って、僕なんかは大学生の時に尾崎豊さんの葬儀があったお寺。。。そんなイメージです。

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兄弟抄で有名な池上兄弟の池上宗仲が、大聖人様の死後にお弟子さんに領地を御供養したのが由来らしい。

弘安5年(1282年)9月8日、病身の日蓮身延山を出て、湯治のために常陸茨城県)へ向かう。9月18日に武蔵国池上郷(東京都大田区池上)の池上宗仲の館に到着。生涯最後の20数日間を過ごすこととなる。同年同月に、池上氏館の背後の山上に建立された一宇日蓮が開堂供養し、長栄山本門寺と命名したのが池上本門寺の起源という。

同年10月13日に日蓮が没すると、池上宗仲は法華経の字数(69,384)に合わせて六万九千三八四坪を寺領として寄進し寺院の基礎が築かれ、以来「池上本門寺」と呼びならわされている。池上本門寺 - Wikipedia

僕が教義的に思い浮かべるのは、不受不施派なんだけど。池上本門寺は幕府と対決していたので城塞のように石段が曲がりくねってけんぞうされているとか。。。

大白法・平成7年9月1日刊(第439号)仏教各宗破折(9)より転載
日にち蓮れん宗しゅう不ふ受じゅ不ふ施せ派は
 概 論
 一、不ふ受じゅ不ふ施せの意義

 「不受不施」の「不受」とは、謗法の供養を受けないということである。
 この「不施」には、謗法に供養(財施)をしないという財施の「不施」と、謗法の人のためには御祈念をしない、読経・唱題をしないという出家の法施の「不施」とがある。
 つまり、「謗施不受・謗施不施」ということを略して「不受不施」という。『新池御書』には、
「諸仏も諸神も謗法の供養をば全く請け取り給はず、(中略)謗法の供養をば銅の焔とこそおほせられたれ。(中略)与同罪恐るべし恐るべし」(御書1458頁)
と、謗施不受の義が説かれている。
 また『立正安国論』には、
「夫それ釈迦の以前の仏教は其の罪を斬ると雖も、能仁のうにんの以後の経きょう説せつは則ち其の施を止む」(御書248頁)
とあり、謗施不施の義が説かれている。
 また、大聖人の信者である大学三郎が、鎌倉幕府の要人、秋田城介(安達泰盛)に頼まれて、大聖人に「いのり」を依頼した。しかし、大聖人は、大学三郎が大聖人にとって「ふつうの人」ではない恩のある人であるが、秋田城介のために「いのり」はできないと断られた。これについて『大学殿事』に、
「いのりなんどの仰せかうほ蒙るべしとをばへ候はざりつるに、をほ仰せた給びて候事のかたじけなさ。(中略)されども此の事は叶ふまじきにて候ぞ。大がく学と申す人は、ふつうの人にはに似ず、日蓮が御かん勘き気の時身をすてかた方うど人して候ひし人なり。此の仰せは城じょう殿の御計らひなり。城殿と大がく殿は知ち音いんにてをはし候。其の故は大がく殿は坂東第一の御て手か書き、城介じょうのすけ殿は御て手をこの好まるゝ人なり」(御書1324頁)
とある。この御文は、出家の法施不施の義を説かれている。
 日蓮正宗の仏法は、大聖人様の教えを寸分違わず伝えているので、謗法の不受、謗法への不施は当然のことであり、その点からいえば、日蓮正宗も不受不施の義を守っている宗派であるといえる。

 二、日蓮宗不受不施派の沿革
 ① 派祖・日奥
 日蓮宗不受不施派とは、京都妙覚寺十九世仏性日奥にちおう(1565~1630)を派祖とする日蓮宗一致派の一つのことである。
 仏性日奥は、永禄八年(1565)六月八日、京都に生まれ、天正二年(1574)七月九日、十歳のとき、妙覚寺十八世実成院日典の室に投じ、十八歳のとき、出家得度した。日典のもとで勉学修行し、文禄元年(1592)七月、二十八歳のとき、妙覚寺十九世を譲り承けた。
 文禄四年(1595)九月、豊臣秀吉は先祖並びに亡父母追善のため、京都東山の妙法院に大仏を建立し、千僧供養を執行しようとして、日蓮宗も含め、諸宗に僧侶の出仕を招請した。
 しかし、未入信者・謗法者である秀吉の供養出仕に応ずることは、法華宗の行規である「不受不施」の宗義を破毀はきし、謗法の供養を是認したことになる。しかし、秀吉の権力に抗するすべもない。
 そのような中、本満寺の一如日量・本法寺の功徳日通・妙顕寺の星陽日紹等の諸寺の大勢は、国家権力を重視して国主の施は例外として受用するという、「王侯除外の不受不施」の新義を立て出仕論に傾いた。

 ② 受・不受の論争
 しかし、日奥は謗施不受を主張して、出仕に反対した。この日奥の主張に与同したのが、関東の仏乗日惺・蓮成日尊、顕本法華宗の常楽日経等である。
 ここに、日蓮宗の受・不受の対論が起こるようになったのである。
 ともかく、日奥は秀吉の出仕命令を拒否し、妙覚寺を退出し、丹波小泉に蟄居ちっきょし、その際、日奥は秀吉に『法華宗諌状』を提出したのである。
 文禄五年(1596)七月十二日、大地震のために大仏殿が崩壊した。日奥は再び秀吉に諌状を提出し、十月十二日には、後陽成天皇に、大聖人の『立正安国論』に『法華宗奏状』を添えて提出したのである。
 慶長四年(1599)十一月、大仏供養出仕派(受派)の讒訴ざんそにより、徳川家康は、妙顕寺日紹等と受・不受について対論させられた。もとより、家康は権威を以て、日奥に供養会に出仕させようとしていたので受派に肩入れしたのである。しかし、日奥はあくまで不受不施義を理由に出仕を拒否したのである。
 その結果、日奥は、流罪を言い渡され、日紹等に袈裟・衣を剥はぎ取られた。これを「大阪対論」という。
 日奥は翌慶長五年、対馬に配流され、十三年の流罪生活を終えて赦免となり、慶長十七年(1612)に京都に帰った。
 元和九年(1629)、徳川秀忠崇源院大夫人菩提のため、芝増上寺において、諸宗の僧侶に諷経ふぎんを命じた。
 これが端となって身延山(受派)と池上本門寺(不受派)との間に訴訟合戦が起こり、寛永七年(1630)二月、幕府は両者を対論させたのである。これを「身池対論」という。
 この結果、日奥が幕府に逆らう不受不施派の首謀者と裁決され、日奥は、再度、対馬に流されることになったが、日奥は、既に三月十日に亡くなっており、これを「死後の流罪」といわれている。

 ③ 派内の分裂
 日奥の流れは二つに別れた。即ち、日奥から岡山妙覚寺系の日樹の流れが日蓮宗不受不施派であり、同じく日奥から岡山本覚寺系の安国日習・安国日講(1626~1698)と流れたものが日蓮講門宗(旧名不受不施講門派)である。どちらも、派祖は日奥であり、「我らこそは日奥の正義を汲む」と称して、不受不施義を称えている。
 寛文九年(1669)三月、徳川幕府は、不受不施寺院の寺請の停止を発令し、不受不施は明治九年四月十日まで約二百年に亘って禁制(法令に禁止されること)となった。
 安国日講は、寛永三年(1626)七月三日、京都に生まれ、十歳のとき、妙覚寺退出の安国日習の室に投じ、出家得度した。
 日講の思想は、一言で言えば、日奥の思想を継承しながらも、更に尖鋭化したものといえる。
 寛永四年(1664)、徳川幕府は、寺社領地は将軍からの敬田供養になることを示し、これに従わない者は寺領朱印を認めない。没収すると命じたのである。しかし、日講は「守正護国論」を奉行所に提出し、これに反発したが、寛文六年六月、日講は日向佐土原に配流された。
 日講が佐土原在住のとき、御書の解釈書として著わしたのが『録内啓蒙』三十六巻である。

 
本 尊
 派祖の日奥は、
「抑も末法相応の本尊とは本門久成の教主釈尊なり」(法華宗奏状萬代亀鏡録上巻31頁)
と言って、本門久成の釈尊を本尊と立てるが、その著『唱題勘発抄』には、
「三世の諸仏は題目を師として正覚を成じ」(寓代亀鏡録上巻114頁)
と説き、一往、法勝人劣の立場を取っている。
 近年出版された『日本仏教基礎講座』には、不受不施派の本尊について、不受不施派の僧が自ら、
「宗祖日蓮奠定の十界常住の文字曼陀羅を以て本尊とす、それはまさしく久遠本仏の正体を示したものであるからである。本仏は仏像や形相で示すことはできない。されば久遠本仏の『観心』を以て『本仏』とするのである」(7-311頁)
と、漫荼羅を本尊とする旨を述べているが、不受不施派のこの本尊観は、観心と本仏の立て分けもつかない迷妄の論というべきである。
 一方、日蓮講門宗の日講は、その著『本尊抄啓蒙』に、
「本門の本尊につき、諸御書の中題目を本尊とし玉ふと、久成の釈尊を本尊とし玉ふと両向あり。報恩抄下云本門の教主釈尊を本尊とすべし。三大秘法抄云……値難抄云……其外類文之を略す。さて本尊問答抄・当御書(本尊抄)向の其本尊の為体塔中妙法蓮華経の御文言などは題目を本尊とし玉へる義なり。其中に題目を本尊とするは義宗義の正意なる事前に展示するが如し」
といい、久成の釈尊を人本尊と立て、題目を法本尊と立てているが、正意は題目の法本尊であると説いている。
 教 義
 日蓮宗不受不施派は、その名のとおり、謗法の不受不施のみが強調されているが、その教義内容は、五老僧の日朗の流れを汲む本迹一致であり、本仏を釈尊と立てるところなどは、他の日蓮宗と何ら変わるところはないのである。
 但し、不受不施派では禁制の中で不受不施義を実行するために、法中ほっちゅうと呼ばれる僧侶(清派)と、法立ほうりゅうという中間的な僧侶(濁派)を立て、この法立が内信者といわれる、表むきは他宗信徒でありながら内信で不受不施を信奉する在家者から財物を受けて、法中に取りつぐという、極めて特異な宗教組織を形成している。
 また、宗内の規則ともいうべき『宗綱』には、僧侶の誡めとして、謗法の堂社に参詣致すべからざる事。但し遊覧等を除く。謗法の僧侶を供養すべからざる事。但し仁義愛礼を除く。不信謗法の供養物を受くるべからざる事。他に向かって同行者の過失を言うべからざる事。他門を罵詈めりし不覚の宗論を致すべからざる事を挙げ、真俗奉行の勧例として、異体同心にして我が本化事観の妙行を修すべき事。常に法の為に不惜身命の心地あるべき事。過失あれば懇に相い諌め共に善に進むを喜びとする事。相い互いに謙下し礼義を重んずべき事。各自其の家業を大切に精進すべき事などを挙げている。
 破 折
 日蓮宗不受不施派日蓮講門宗も、五老僧の中の日朗の流れを汲む門流であり、日興上人が、
「本迹一致の修行を致す者は師子身中の虫と心得べき事」(御書1884頁)
と『日興遺誡置文』に厳しく戒められた本迹一致の邪義を立てている。
 もちろん、本尊についても種脱相対に迷って、釈尊を本仏、本尊と立てている。また、不受不施では、何が謗法に当たるかについて様々に議論し、それぞれの説によって分派したり、変更したりしたが、これなども、
相伝に有らざれば知り難し」(御書92頁)
と仰せられた宗祖大聖人の相伝がないための我見から成り立っている証拠である。
 更に、彼らは「謗法厳誡をもって一切衆生を救う」と称しながら自派の組織内に清派と称する僧侶の純粋性を守るために三重四重の構造を作り、信徒には内信者と称する表面的には他宗信徒をよそおう形式を執らせるなどの方法を使っているが、このような信徒の行為は、純粋な不受不施義に反することになるはずであり、彼らの説からすれば明らかな謗法与同である。それでも僧侶の純粋性を守るための奉公というのであれば、不受不施派という宗教は、僧侶のみが救われ、信徒はその犠牲となっても仕方がないという冷酷で権威主義的なものという他はない。
 このような、本尊も教義も宗祖大聖人に背反し、しかも異常な戒律主義をもって非合理的で非人間的な信仰形態を強要する不受不施信仰は、人々を救うどころか、民衆を不幸に陥れる邪宗教なのである。

 

 

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池上本門寺公式HPの縁起では、宗旨についての詳しい記述はされていなようですね。

縁起

池上本門寺は、日蓮聖人が今から約七百十数年前の弘安5年(1282)10月13日辰の刻(午前8時頃)、61歳で入滅(臨終)された霊跡です。
日蓮聖人は、弘安5年9月8日9年間棲みなれた身延山に別れを告げ、病気療養のため常陸の湯に向かわれ、その途中、武蔵国池上(現在の東京都大田区池上)の郷主・池上宗仲公の館で亡くなられました。
長栄山本門寺という名前の由来は、「法華経の道場として長く栄えるように」という祈りを込めて日蓮聖人が名付けられたものです。そして大檀越の池上宗仲公が、日蓮聖人御入滅の後、法華経の字数(69,384)に合わせて約7万坪の寺域を寄進され、お寺の礎が築かれましたので、以来「池上本門寺」と呼びならわされています。
毎年10月11日・12日・13日の三日間に亘って、日蓮聖人の遺徳を偲ぶ「お会式法要」が行われ、殊にお逮夜に当たる12日の夜は、30万人に及ぶ参詣者で賑わいます。
そして池上本門寺は「日蓮聖人ご入滅の霊場」として700年余り法灯を護り伝えるとともに、「布教の殿堂」として、さまざまな布教活動を展開しています。

生身・孝道示現の御尊像

池上本門寺の大堂に格護されている日蓮聖人の御尊像は、日蓮聖人の七回忌にあたる正応元年(1288)に日持上人と日浄上人とが大願主となって造立されました。生前の日蓮聖人を良くご存知だった方々が丹誠を込めて作られたことから、ありし日のお姿を映した「生身の御尊像」と呼ばれています。
また、日蓮聖人は孝養を大変重んじられた方でした。その一端を表すように御生母の髪の毛を御入滅の時まで肌身離さずお持ちになっておられました。池上本門寺の御尊像は、左手に御入滅の時までお読みになっていた「内典の孝経」法華経第六巻を、そして右手には御生母の髪の毛を差し入れた払子(ほっす)をお持ちになって、日蓮聖人が体現された孝養の道を忘れることがなきよう「孝道示現の御尊像」として、静かに私たちを見守っておられるのです。

その歴史

日蓮聖人の御入滅 宗仲公をはじめ、弟子たちの介抱にもかかわらず病状はすすみ、臨終が近いことを悟った日蓮聖人は、10月8日に後継者として本弟子6人(六老僧)を定められたのち、同月13 日、齢61 歳で御入滅された。翌14 日、弟子たちは葬送の式を営み、荼毘に付したのち、御遺言によって御遺骨は身延山へ納められた。宗仲公の邸宅は当山西谷にあって、現在の大坊本行寺(公式サイト)がその故地にあたる。御荼毘所もその傍らに位置し、現在では宝塔が建立されている。

中世 日蓮聖人御入滅の後、宗仲公は当山を六老僧の1人、日朗聖人に付与し御入滅の霊跡として伽藍を整備された。日蓮聖人7回忌にあたる正応元年(1288)には、大堂に奉安されている日蓮聖人御尊像(重要文化財)が、六老僧の1 人日持聖人らによって造立されている。日朗聖人は、自らが布教活動の拠点としていた鎌倉比企谷の長興山妙本寺(公式サイト)と当山の貫首職を兼任した(両山一首制、昭和16 年まで続いた)。
以来、当山は多くの末寺を組織して本寺としての発展を遂げ、身延山久遠寺(公式サイト)とともに宗門の最重要寺院に位置づけられるようになった。


近世 徳川家康が江戸へ入府すると、第12 世日惺聖人はその居を鎌倉から池上に移し、以来貫首は池上に常住する。これにより、当山は徳川家や加藤清正などの諸侯の外護を得て更なる発展を遂げ、大伽藍を形成するに至った。江戸後期には、江戸市中の人々における祖師信仰・法華信仰の高まりとともに、寺運はますますの隆盛を迎える。当山で営まれる日蓮聖人御命日の法要「お会式」には江戸より庶民が群参し、賑わいを見せるとともに、浮世絵の題材としても取り上げられた。

近代 幕末には、江戸城攻撃のために東征した官軍が当山に本陣を構えるなど、動乱の影響を受けた。この時、江戸城無血開城のため西郷隆盛勝海舟が当山奥庭の松濤園で会見したとされる。明治時代には新制度下の混乱と改革の嵐に見舞われるなか、第65世新居日薩聖人の尽力によって宗門の近代化が進められていった。


戦災と復興 昭和20 年4月15 日、京浜地区南部の空襲によって、大伽藍と厳重に格護されてきた御霊宝のほとんどを失った。しかし、猛火のなか身命を賭した寺僧の活動によって、日蓮聖人御真蹟を中心とする特に重要な御霊宝は焼失を免れ今に伝わっている。また、伽藍は堂宇56 棟を焼失するという未曾有の大被害をうけたが、先師先聖の御尽力と檀信徒のご丹精により復興を遂げ、今日に法灯を伝えている。

ま、一致派ということでしょうか?

現在では御会式の参拝客30万人で稼いでいるということです。

伝統の不受不施義も糞もないですわ。

最も心配なのは池上兄弟は成仏できたのか?ってことでしょうね。

大聖人様御在世の旦那さんは、御書に登場する有名な方でも謗法の寺の開基旦那だったりするんです。

過去帳でも南条時光殿以外は、在家で記載されている方はいません。

日蓮正宗が形成されている現在の私たちは、本当に有難い立場だと、しみじみ感じいるしだいでありまする。

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御会式は参拝客でごった返してますが。。。