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作法受得の意義が分かって、全てがスッキリしたという話

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ホントにスッキリしました

1991年から2021年まで30年という長い間、私の心中で常にくすぶり続けてきた問題がありました。
それは、戒壇の事と義の問題です。
この問題について、日蓮正宗の見解としては概ね以下の通りであろうかと思われます。

本門の戒壇について

 次に「本門の戒壇」とは、本門の本尊を安置して信心修行するところをいいます。
 戒壇の「戒」は防非止悪の意で、現今では主に謗法厳戒を意味します。また「壇」は仏道修行者が戒を受ける場所を示し、謗法を排して本門の本尊を御安置する場所が、そのまま本門の戒壇です。
 この「本門の戒壇」には「事」と「義」の立て分けがあり、「事の戒壇」とは、本門戒壇の大御本尊まします霊場大石寺)、「義の戒壇」とは本宗寺院や各家庭に下付されている御本尊所住の清浄な処のことです。
 さらに、この戒壇義には、
 「富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり」(御書一六七五)
との日蓮大聖人のお言葉があるように、大聖人門下全般に対する究極的な信行の目標として、広宣流布の暁に全世界の民衆が大御本尊に深く帰依し、礼拝するための堂宇を、富士山(大石寺)に建立すべき大聖人の尊い御遺命が示されています。

www.myotsuuji.info

上記のような話に加え、その主張の根拠となる文証も勉強しました。
しかし、スッキリと納得できずに悩んでいました。
その理由は「戒」についての理解が不十分だったのだと。。。
作法受得の意味を自分なりに考えていく中で、悟り、腑に落ちるまで煩悶し続けました。
作法受得とは、「応受持  持戒清潔にして作法受得の義なり。(上行所伝三大秘法口決1704㌻)」「問ふ、何の故ぞ、修学解行の受職の比丘の功徳は無智の道俗の功徳に勝るゝや。答ふ、解行の受職の比丘は無智の道俗の功徳を具するのみならず、己が修学解行と作法受得の受職と、又利他の功徳と此等の功徳を取り集めて、一身に具する故に勝ると云ふなり。(得受職人功徳法門抄591㌻)」の、二か所に見られる言葉です。
受持即受戒ですから、大御本尊様を受持するということは、受戒でありそれが作法受得であるということです。
また、作法とは信行の実践であり、その実践は日蓮正宗の化儀に則ったものであるということです。
そこで化儀即化法ということの意味が分かりました。

日蓮正宗の信仰について総本山第九世日有上人は、「当宗は第一化儀なり」(有師物語聴聞抄佳跡上・富士宗学要集一巻一九八頁)と仰せられました。この意味について第三十一世日因上人は、「第一化儀とは当宗化儀即仏法 なるが故に」(同頁)と、補釈されました。
ここから、日蓮正宗の信心について「化儀即化法だよ」とか、「化儀即法体だよ」、などと言われているのです。
この意味をさらにわかるようにお話ししますと、化儀とは、私たちが最初この信仰を始める時に受けた「御授戒」も、日々の五座・三座の勤行の形も、それも、もっぱらお題目を唱えるのではなく、一番目に方便品・次に寿量品とまずお経文を読み・最後に唱題が来るという唱え方の順番、私たちが御本尊を御安置してお題目を唱える修行に名づけられた「三大秘法」、お数珠を指に掛け、合わせた手を胸の上に置く合掌の形、念仏は無間の業、禅宗は天魔の所為、真言は亡国の悪法、律宗国賊、という、邪義邪宗をその要点を突いて誰もが一撃できる「四箇の格言」、御本尊御安置の南面北座、おしきみを左に飾り、右にロウソクを灯し、真ん中に香を焚く香炉を置く三具足、勤行の最後にしきみの三つ葉を切る所作も、枕経・通夜・葬式・火葬場での読経・唱題、法事、題目の染筆、位牌・塔婆等々、すべては、大聖人の教えの具現化なのです。
つまり、大聖人様の教えやお考えといった目に見えないものを、目に見える形にすること。甚深の御法門を己の智慧によって理解することが出来無くても、戒壇の大御本尊様への信心と御法主上人猊下様への信伏随従の志さえあれば、少しもその意義を損なうことなく、実際に私たちの修行として、この身に移す事が出来る手立て・方法のこと。
あるいは、大聖人様の修行を私たち凡夫も実行・再現・追体験出来るように、我々初心の行者の背丈に合わせて仕立て直してくだされたもの、表現されたもの等をすべて含めて「化儀」というのです。
ですから、日亨上人の『化儀抄註解』には、「曼荼羅書写本尊授与の事は、宗門第一尊厳の化儀なり」(富士学林教科書研究教学書第二十九巻一三二頁※後は研教と呼ぶ)とあるように、御法主上人猊下が御本尊を書写されることも、これを私どもに授与される事も、皆化儀なのです。
このように、化儀とは教えや法門が具体化されたものですから、これを忠実に実践することで、自然とその意に当たって、結果に繋がっていけるのです。
なぜ、そのような信仰の姿が形作られているのかと言えば、私たちが、「未断惑の機(※見思・塵沙・無明という煩悩を、爪先程も断ちきってもいない迷いの状態にある人々)にして、六即の中には名字初心に建立する処の宗なる故」(研教化儀抄註解七頁)あるいは、(同十二頁)に、「当宗何事も智慧を面に成し候へば、宗旨破れ候なり。その故は、愚者の上の、名字の初心の信計りを専(※せん…もっとも重要な事。第一)として、宗旨として候なり」また、同十三頁には、「我等凡夫名字初心にして余念の事も無く南無妙法蓮華経と受け持つ処の受持の一行即一念三千の妙法蓮華経なり。即身成仏なり」などなど、類文が非常に多いので、これ以上は煩雑になるので、一応止めておきます。これらのことを実に上手く説明されている文章が「東中国布教区編の『信心の原点』」にありますから、ぜひ紹介しておきましょう。
「当家《日蓮正宗の事》の化儀は、化儀即化法とか、化儀即法体とよくいわれます。つまり我々の、日々の振る舞いの所が妙法の具現(あらわれ)であり、信の一念で為すところは、そのままが成仏の姿ということです。第九世日有上人は、当家の化儀を大成されましたが、その『化儀抄』に『法華宗は能所(※師弟)共に一文不通の愚人の上に建立』、また『六即の中には名字初心に建立する宗』と説かれました。いわゆる大聖人様の仏法が、末法の文字も読めない《一文不通》の衆生、妙法の名前を聞いて〝有り難い〟と感じただけの、《名字即》の衆生を対象に説かれた教えであるという事です。
つまり末法の我々は、おしなべて自分の智慧で仏法を理解することは出来ないために、身の振る舞い・実践の中に妙法を示していくことが大切なのです。これが、所作・振る舞いがやかましく言われる所以です。
ですから、御本尊のお給仕から勤行の姿勢・題目の唱え方・仏事回向・同信の方々との接し方、そして寺院参詣に至るまで、自分自身の信心の表れと心得なくてはなりません。
すなわち化儀は、単なる形式ではなく、大聖人様の御法門がそのまま、私たちの振る舞いの中に現われていると思って、大事に考えていかなくてはならないのです」

nishidaisenji.jp

つまり、戒には修行の実践が不即不離なのです。皆様にご紹介しようと思い、日蓮正宗末寺様のHPを渉猟するなかで、上記の西大宣寺様の記事を拝見し、作法受得の意味が私なりにではありますが、一気に理解できたのです。
私は、戒を魔法陣や結界のようなものと考え違いをしていたようです。
事相の戒壇たる「本門寺の戒壇を建立」しさえすれば、万事恙無く事の寂光土がこの国に出現するような、妄想を抱いておりました。

種々の災過一々に起こると雖も、他方の怨賊国内を侵掠する、此の災未だ露はれず、此の難未だ来たらず。仁王経の七難の内、六難今盛んにして一難未だ現ぜず。所以四方の賊来りて国を侵すの難なり。加之国土乱れん時は先づ鬼神乱る、鬼神乱るゝが故に万民乱ると。今此の文に就いて具に事の情を案ずるに、百鬼早く乱れ万民多く亡ぶ。先難是明らかなり、後災何ぞ疑はん。若し残る所の難悪法の科に依って並び起こり競ひ来たらば其の時何が為んや。帝王は国家を基として天下を治め、人臣は田園を領して世上を保つ。而るに他方の賊来たりて其の国を侵逼し、自界叛逆して其の地を掠領せば、豈驚かざらんや豈騒がざらんや。国を失ひ家を滅せば何れの所にか世を遁れん。汝須く一身の安堵を思はゞ先ず四表の静謐を祈るべきものか。就中人の世に在るや各後生を恐る。是を以て或は邪教を信じ、或は謗法を貴ぶ。各是非に迷ふことを悪むと雖も而も猶仏法に帰することを哀しむ。何ぞ同じく信心の力を以て妄りに邪義の詞を崇めんや。若し執心飜らず、亦曲意猶存せば、早く有為の郷を辞して必ず無間の獄に堕ちなん。所以は何、大集経に云はく「若し国王有って無量世に於て施戒慧を修すとも、我が法の滅せんを見て捨てゝ擁護せずんば、是くの如く種うる所の無量の善根悉く皆滅失し、乃至其の王久しからずして当に重病に遇ひ、寿終の後大地獄に生ずべし王の如く夫人・太子・大臣・城主・柱師・郡主・宰官も亦復是くの如くならんと。(立正安国論249㌻)

現今の日本の国は、立正安国論に指摘されている様な世相であります。
世界も大戦乱の兆しが見えております。
日蓮大聖人様の仏法は「事」の一念三千法門であります。
国土世間の住人たる国民が、全て大聖人の振る舞いを真似び、正しい作法で戒壇の大御本尊様を受持すれば、本門事の三大秘法の力用により、安穏の国土世間と変わる原理をお示しなのです。
政治的イデオロギーや、国防戦略の是非が焦点ではありません。

法華折伏破権門理の金言なれば、終に権教権門の輩を一人もなくせめをとして法王の家人となし、天下万民諸乗一仏乗と成りて妙法独りはむ昌せん時、万民一同に南無妙法蓮華経と唱へ奉らば、吹く風枝をならさず、雨土くれをくだかず、代はぎのうの世となりて、今生には不祥の災難を払ひて長生の術を得、人法共に不老不死の理顕はれん時を各々御らんぜよ、現世安穏の証文疑ひ有るべからざる者なり。(如説修行抄671㌻)