日蓮正宗のススメ

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1193夜:日有上人・化儀鈔[日達上人略解]②

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日有上人・化儀鈔[日達上人略解]②

【021】
一、内衣には老若に随って其の時分の色有る小袖を用うべし、衣付きには必ず白小袖を著るべきなり云云。

其の時分の色とは、四季の季節に随って花の色をいう。小袖とは袖の小さい着物。平常(ふだん)着る着物は、老若によって、四季の色のものを用いてもよしいのであります。春は藤色。夏は卯の花や、なでしこの色。秋は紅葉色や、朽葉色。冬は白梅、紅梅の色等を用いてよろしいのであります。総じて若い人は、色の濃いもの、老人は薄いもの、あるいは朽葉色などを用います。衣を着る時は、その下着は必ず白小袖(白衣)でなければいけません。

【022】
一、出仕の時は太刀を一つ中間に持たすべし、折伏修行の化儀なるが故なり但し礼盤に登る時、御霊供へ参る時は刀をぬいて傍に置くべきなり云云。

出仕は、勤行のため、御堂、客殿に出ること。中間は侍と小者の中間の人、すなわち種々の下役をなす人。礼盤は導師のすわる高座、御霊供は御霊膳(御影様)に献膳供養すること。
御堂や客殿へ勤めに出る時は、刀を中間に持たしなさい。本宗は破邪顕正折伏を表とする宗旨であるから、正法護持の為刀剣を執持するを許すと安国論にあるごとく、鎌倉、室町時代の闇黒乱世には、本宗の僧も、太刀を腰に帯しておったのであります。
但し礼盤に登り読経をなす時、又は仏様に献膳をなす時は、腰から刀をぬいて傍に置きなさい。

【023】
一、仏の供養を取り次ぎ候に、祝の時は、如法目出度く候と申し候、訪いの時は如法有り難しと云云。

信者から御本尊様に供養を奉った時、これを受け取る時は、慶祝の場(上棟、結婚、誕生等)は、「御本尊様に御供養なされて結構なことであります」と申し、また葬儀、法要等の場合は、「御本尊様に御供養なされて誠に御奇特のことであります」と申して、御本尊に御供えしなさい。

【024】
一、弟子檀那の供養をば、先ず其所の住持の御目にかけて、住持の義に依って仏へ申し上げ鐘を参らすべきなり、先師先師は過去して残る所は当住持計りなる故なり、住持の見たもう所が諸仏聖者の見たもう所なり。

弟子檀那から御本尊様へ御供養が上がった時は、取り次いだ人は、一往、その寺の住職(本山にては法主上人)に御覧に入れ、その住職のさしずによって御本尊様に上げお題目を唱え鐘を打ちなさい。
その理由は、宗祖も開山も目師も、代々の先師は御人滅になり、その魂もぬけられて、現住している住職にあるから、結局その住職が御覧になる所が、宗祖聖人、開山、目師その他の先師の御覧になることになりますから。

【025】
一、他宗難じて曰く、謗施とて諸宗の供養を受けずんぱ、何ぞ他宗の作くる路、他宗のかくる橋を渡るか、之れを答うるに、彼の路は法華宗の為に作らず、又法華宗の為に懸けざる橋なり、公方の路、公方の橋なるが故に、法華宗も、或は年貢を沙汰し或は公事をなす、故に公界の道を行くに謗施と成らざるなり、野山の草木等又此の如し云云。

公方とは、おおやけのこと。年貢は税金、沙汰は納入のこと。公事はおおやけの事務、ここでは徴用のこと。公界、おもてむきの場所。本宗は謗法の施を受けません。それ故、謗法の人々は、本宗を非難して「他宗の供養を謗法の施といって受けないのなら、なぜ他宗の人の作った路、他宗の人の架けた橋を渡るのか」といいます。
この非難にたいして答えるのに、「その路は法華宗の人のためといって作ったのではありません。また橋も法華宗の人のためにといって架けたのではありません。国家の路であり、国家の橋であります。だから法華宗にも税金を賦課し、または徴用を命じます。それ故、天下の公道を歩くに謗施をうけたことにはなりません。
山野の草木等を使用しても決して謗施を受けたことにはなりません」と。(注、後世、謗施を受けずぱ、寺領、飲水、行路など、みな謗施にあらずや、否恩田なり、あるいは悲田なりとの論争があって、不受不施派、あるいは不受不施講門派などができた)

【026】
一、絵師、仏師、或は鍛冶、番匠等の他宗なるをつかう事は、御堂、坊等にも苦しからず、作料を沙汰するが故なり。

番匠とは大工のこと。本堂や庫裡、僧の住居等を建立する時に用する絵師、仏師、鍛冶屋、大工、左官等は、必ずしも信者でなくともよろしい。それは相当な賃金を支払って使用するのだから、謗施ではありません。また、これと逆に、謗法の所の仕事をしても、相当の賃金を受けて仕事をするならば、謗法になりません。

【027】
一、信と云い血脈と云い法水と云う事は同じ事なり、信が動ぜざれば其の筋目違うべからざるなり、違わずんぱ血脈法水は違うべからず、夫れとは世間には親の心を違えず、出世には師匠の心中を違えざるが血脈法水の直しきなり高祖已来の信心を違えざる時は我等が色心・妙法蓮華経の色心なリ、此の信心が違う時は我等が色心凡夫なり、凡夫なるが故に即身成仏の血脈なるべからず、一人一日中・八億四千の念あり念念中の所作者是れ三途の業因と文。

妙法蓮華経の法を信じて、後に伝えて誤りないことが、人の身体の血管に血が流れるごときであるから、それを血脈というのであります。
故に、信というも、血脈というも、法水というも、同じ意義であります。信心がぐらつかなけれぱ、信心の筋目(系統)は間違いません。それ故に信心が間違わなければ、血脈も法水も間違いません。それは、世間(一般家庭)では、両親の心に違わなければ、その家継は正しく、出世間(仏法)においては、師祖の教えに違わなければその仏法の血脈は正しいのであります。
大聖人様からの信心のあり方を誤らなければ、私どもの身心がそのまま、妙法蓮華経の当体となるのであります。もし大聖人様よりの信心を誤まれば、私どもは、ただ迷いの人間であります。迷いの人間なれば、即身成仏の血脈を継ぐことはできません。
迷いの人間は誰でも、一日に八億四千もの沢山の思念が、生滅するのでありますが、それらの思念はみな、地獄、餓鬼、畜生の三悪道へ堕つる原因を作っているのであります。それ故、大聖人様よりの信心を正しく継ぎ、迷いの思念を即身成仏の血脈に入れ、妙法蓮華経の当体蓮華仏にならなければなりません。

【028】
一、経を持つ人の事、今日持って明日退するとも、無二の志にて持つ時は然る可し、何れの年、何れの月とも時節を定めて持つ事、爾るべからず云云。

本宗の信心をする人が、今日入信し、明日退転したとしても、その間、真に一心の信心であったならば、その日の信心は結構であり、何かの理由で退転したのだから問題ではないが、しかし、始めから、何カ年間とか、何カ月間とかと、あらかじめ年限を区切って、信心するがごときは、たとい、それが永くて、一代法華であっても、真の信心ということにならないからだめであり、また真の利益も得られないのであります。

【029】
一、師弟相対する処が下種の躰にて事行の妙法蓮華経なるが故に、本尊の前より外に、亡者の前とて別に供具をもり、又は三具足を立つる事之れなきなり、霊供なんどをも高祖代々の御霊供に対して備うるなり、代々の御台はあれども何れも師の方に付けて仏界の方におき、今日の霊供をば九界の方へ付けて備うる時、十界互具、一念三千にて事行の妙法蓮華経なリ、仏事の時は必ず仏界へ向わずして通途の座にて御経を読むなり、仏界より九界を利益する姿なり、是れも十界互具を躰とするなり云云。

師弟相対とは、能化、所化倶に在る所をいう。下種の体とは、本因下種の相のこと。
事行の妙法蓮華経とは、寿量品文底の妙法蓮華経すなわち末法の宗祖大聖人の唱える妙法蓮華経のことであります。本因下種、能所不二の所が宗祖大聖人様の南無妙法蓮華経でありますから、亡者の霊は御本尊様に帰入するのが能所不二であります。
それ故に御本尊様に御供物を盛り備え、あるいは三具足(華香灯)を備えるのであって、特別に亡者の霊前を設けて、供物や三具足を供える必要はないのである。御霊膳も大聖人様及ぴ開山、ならびに目師等、代々に対してのみ備えるだけであります。
(注、この正しき方式は、現在も本山において行われておりますが末寺においては、とかく、世俗的になって、精霊台を造り、亡者の霊前の方のみ供物を備えたりしております。これは本来の御本尊様に帰命の姿を忘れたことになった形であります)
歴代法主の台盤(食器台)は、みな、御本尊(仏界)に向って備え、その日の追善すべき精霊の御膳は九界の方へ置きます。これが師弟相対して十界互具、一念三千の行儀を表わしたので、事行の妙法蓮華経と申すのであります。
法事の時は、必ず定まった座にて御本尊に向わないで御経を読んで、追善供養をするのであります。それは仏界(御本尊-能化)から、九界に(精霊-所化)利益を施すものであります。これも十界互具を表わしたのであリます。
(注、これらの儀式は、現在の本山の儀式を拝すれぱわかります。御堂においては、法主は御本尊様に向って読経唱題しますが、客殿は檀信徒の法要回向等の法事を行う場合でありますから、法主は横向きで直接九界に向って読経唱題するのであリます。
特に葬儀の式を見れば、導師は御本尊を背にして、霊棺に向って読経回向します。これは即ち仏界より九界を利益する姿の明白な形であります)

【030】
一、経を読むには必ず散花あるべし、信の時は法界妙法蓮華経なる故に一仏なり、その一仏の三身に供するなリ是れ則ち本門の無作なり、天台宗に沙汰する本有の理智慈悲は理の無作なり。

散花は、仏の説法の時は、必ず雨華の瑞相が現われるのであります。それを表わして、一般仏教では、蓮華の花弁に模して色紙で作った花弁を、経行の時に散ずるのであります。本宗においては、もっぱら、四季にわたって色香不変の樒を用い、勤行あるいは説法の時、いつでも読経唱題の後には、樒の三葉を切って散華とするのであります。
いかなる場合でも、読経、唱題した時は必らず樒の三葉を切って散華をしなさい。
信心の眼で見る時は、宇宙法界は妙法蓮華経の御本尊、自受用報身の一仏であります。その一仏には、法身、報身、応身の三身が具しているのでありますから、散華のため、樒の三葉を取って供えるのは、自受用身の一仏に供えるを表わし三葉を切って三つに散華するは、三身に供えるを表わすのであって、本門の無作の三身、一身即三身三身即一身ということを、事に表わしたのであります。
これは天台宗でいう所の本有の理徳の法身、智徳の報身、慈悲の徳の応身との理の三身ではありません。

【031】
一、卒都婆の事、縦ひ能筆なりとも題目計りをぱ書くべき人にかかすべし、余の願文意趣の事は然るべき作文の人能筆尤も大切にて候、又一向其の時の導師無筆ならば、代官にしても書かすぺきなり、是れも師弟相対、十界互具の事の一念三千の事行の妙法蓮華経なる故なり。但し導師計りの外には沙汰あるべからざる事なり云云。

卒都婆は塔婆で、願文意趣は塔婆建立の趣旨のこと、すなわち何回忌追善供養とか仏道増進とか証大菩提等の意であります。塔婆建立に当って、まずお題目は、その寺の住職(本山は法主)が書写すべきで、たとい、その住職が字が下手であっても、住職が書くべきであります。
その他の追善供養とかの塔婆建立の趣旨は、文章のうまい人や、達筆家が書いてよろしいのであります。もし、その時の住職が全く字が書けない人ならば代理の僧に書かしてよろしい。これは師弟相対した十界互具の事の一念三千の妙法蓮華経でありますから、すなわち師弟相伝した所の妙法蓮華経でありますから、よろしいのであります。
しかし、これらのことは、導師(住職)の心持で決定するので、導師以外の人が、勝手にしてはいけません。

【032】
一、法華経をば一部読まざれども、一部本尊の御前にもおき、我が前にも置くべきなり、方便寿量品につづめて読むも本迹の所詮なる故に一部を読むなり、又寿量品の題目を読みそえて自我偈計り読むも一部なり、又題目計り読むも一部なり、されば経文には皆於此経宣示顕説文、御書には、皆於此経宣示顕説とは一経を指すに非ず題目の五字なりと遊ばさるる故なり、仍お法華経に於て文義意の三の読み様あリ、夫れとは一部二十八品を読むは文を読むなり、又十界互具の法門を云うは義を読むなり、亦題目計り唱うるは意を読むなり云云。

本宗は法華経の一部読誦はいたしませんが御本尊様の前に一部を、導師の前にも一部を必ず置きなさい。そのわけは、法師品「此の中には已に如来の全身有(いま)す」と説かれてあるからであります。
末法の修行としての一部読誦はいたしません。末法の修行としての読誦は法華経迹門の肝心の方便品を借文とし、本門の肝心の寿量品を所用として、この二品だけ読みますが、本迹の肝心を読むのですから、法華経の一部を読んだことになります。
また寿量品の自我偈と寿量品の文底の南無妙法蓮華経を読誦しても、一部を読んだことになります。また、寿量品の文底の題目ばかり唱えても、一部を読んだことになります。そのわけは、神力品には四句の要法をあげて「皆此の経に於て宣示顕説す」と説かれております。
宗祖大聖人は「皆此の経に於て宣示顕説すとは、法華経の一部を指すのではなくて、寿量文底の南無妙法蓮華経を指すのであります」と、解釈せられておりますから。なおまた、法華経には、文句、義理、意味の三通りの読み方もあります。
それは、法華経の一部八巻二十八品を文々句々、全部を読むのは、文を読むということであります。また法華経から十界互具、一念三千等の法門を説くのは、義を読むということであります。また、南無妙法蓮華経と寿量品の題目計り唱えるのは、意を読むということであります。末法今日の修行は、この第三番目の意を読むということが肝要であります。

【033】
一、当家の本尊の事、日蓮聖人に限り奉るべし、仍って今の弘法は流通なり、滅後の宗旨なる故に未断惑の導師を本尊とするなり、地住已上の聖者には末代今の五濁闘諍の我等根性には対せらるべからざる時分なり、仍って方便品には若遇余仏便得決了と説けり、是れをば四依弘経の大師と釈せり、四依に四類あり、今末法四依の人師、地涌菩薩にて在す事を思い合すべし。

未断惑とは、三惑(見思、塵沙、無明)を、いまだ断尽しないこと。地住已上の聖者とは、地住は天台の五十二位(十信、十住、十行、十回向、十地、等覚、妙覚)の十住以上の智慧の高い聖者をいう。
若遇余仏便得決了とは、方便品の文で、今の仏に遇っても謗法深重で成仏できなかった者は、未来世に別の仏に遇って、成仏を得るという意であります。四依とは、大涅槃経の説で、人四依、法四依とあります。その内の人四依とは、須陀垣、斯陀含、阿那含、阿羅漢の四果の聖人であります。
四依に四類ありとは、観心本尊抄の説で小乗時代の四依は、迦葉、阿難。大乗時代の四依は、馬鳴、竜樹、天親。法華迹門の四依は南岳、天台。本門の四依は、地涌千界の上行、すなわち宗祖日蓮大聖人であります。
本宗の御本尊様は人法一箇の御本尊様でありますが、別して人本尊をあげれば、宗祖日蓮大聖人様であります。その理由は、今は末法で寿量文底の南無妙法蓮華経を弘通すべき時であります。本宗は仏の滅後の末法相応の宗門でありますから、未断惑すなわち凡身の導師を人本尊と崇めるのであります。
もし断惑証理の初住以上に達した聖者は、末法の五濁乱漫、闘諍言訟の根性の下劣の我々には、到底及ぴもつかないし相応しくもないのであリます。そこで方便品には、今の荘厳の仏によって成仏ができないものは「来世に於て別の仏に遇って成仏すべし」と説かれてあるのであります。
別の仏とは、四依弘経の大師と解釈され、その四依には四種類があります。末法の四依の人師は、地涌千界の菩薩で、宗祖日蓮大聖人のことでありますから本宗では大聖人様を御本仏と拝するのであります。

【034】
一、唐朝には鉢を行う故に飯をもち上げて食する事、唐の土の法なり、日本にてはクギャウにて飯を用ゆる故に持ち上げざるなり、同じく箸の礼も唐の法なる故に日本にては用いざるなり、日本にても天台宗等は慈覚大師の時分までは律の躰にて唐土の振舞なり、慈恵大師の代より衣鉢を捨てて折伏修行の射たらくにて一向日本の俗服を著らるるなり、聖道は何れも日本の風俗なり云云。

鉢とは、僧が食物を入れるもの、鉄鉢などという。クギャウは、供饗で三方に似た台で四方に穴のない台。聖道とは、聖道門。
中国(唐朝)においては、僧は食事のときは食作法があって鉢の礼を行い、鉢に入った飯を持ち上げて食べるのであります。それは中国(唐朝)における作法であって、日本では、食物を乗せるという供饗という台があって、その上に置いてありますから、特に持ち上げることをしません。同じく箸の礼もありますが、これも中国(唐朝)の作法ですから、そんな作法は日本では行いません。
日本においては、天台宗などでも慈覚大師のころまで、律宗と同じく行儀をしておりました。これは中国(唐朝)式であります。慈恵大師の時に、これまでの律宗風の衣鉢を捨てて、末法折伏修行の依態をなしてもつぱら、その当時の日本風の俗服(薄墨の裏付け衣=現在の本宗のごとき衣)を著られました。聖道門の諸宗は、概して日本風を尊みて中国(唐朝)風を取りません。
(注、慈恵大師の時代に仏法は像法が終り、末法に入ったといわれるので天台宗法華経を依経とするから、末法折伏の姿をなしたのでしょう)

【035】
一、法華宗は不軽の礼拝一行を本となし、受持の一行計りなり、不軽は威音王仏の末法の比丘、日蓮聖人は釈迦仏の末法の比丘なり、何れも折伏修行の時なり云云、修一円因感一円果文、但受持の一行の分の読誦解説書写あるべし、夫れとは梅桃のさねの内にも枝葉になるべき分之れ有り、之れを思うべし

不軽の礼拝一行とは、不軽品に「不専読誦但行礼拝」とあります。その不軽菩薩の修行は礼拝の一行であります。修一円因感一円果とは、受持一行の因により、円果すなわち成仏を感(得)することをいうのであります。
不軽は威音王仏の末法の比丘とあリますが、この末法は像法の書き違いかと思います。不経菩薩の法華経は弘経は礼拝一行で摂受を表とし、折伏を裏とした修行であります。宗祖大聖人の法華弘経は、折伏を表とし、摂受を裏とした末法の修行であります。
本宗は、不軽菩薩の但行礼拝の一行をもって、法華経を弘通したのを手本として、但だ南無妙法蓮華経を口唱する所の受持の一行であります。
不軽菩薩は、過去威音王仏の末法(像法)の僧であります。宗祖日蓮聖人は今日釈迦仏の末法の僧であります。不軽は摂受を表とし、宗祖は折伏を表とした、ともに法華弘通の修行をなす時(末法)であります。但だ南無妙法蓮華経の口唱受持の一因によって、成仏(円果)を得と説かれております。
本宗の修行は、法華経の五種法師の受持、読、誦、解説、書写の内の但だ受持の一行だけてありますが、その受持の一行の上の読、誦、解説、書写の行であります。そのわけは、梅でも桃でも、果の内に核があって、その核の中に枝葉が具わっております。このことは、成仏は種の南無妙法蓮華経を受持する所にあるということであります。これを、よく心に止めておかなけれぱなりません。

【036】
一、当宗には談義あるべからず、其の故は談義とは其の文段を横に沙汰する故に智者の所作なり、当宗は信の宗旨なる故に爾るべからず、但し竪に一宗の建立の様を一筋云い立つるは説法なり、是をば当宗にゆるすぺきなり、愚者の聞く耳なるが故に云云。

談義とは、経文について科文を設け、理論的に講義するをいう。
本宗では、信者を化導するためには、経文について科文を分け、天台流に理論的に講義をしてはいけません。そういう講義の仕方は、智者、学匠の研究であって、本宗は信を根本とする宗旨でありますから、そういう理の上の講義をせず、ただ宗祖大聖人よりの信心の在り方を説き直達正観の信心を植えしめるのであります、本宗は、末法の本未有善の最悪の凡夫を対象として建立する宗旨であるからです。
しかし、学匠の自行練磨のためには、二祖日興上人御遺戒の「論義、講説等を好み、自余を交ゆべからざるの事」のごとく、勉学に励まなけれぱなりません。

【037】
一、卒都婆を立つる時は大塔中にて十如是自我偈を読みて、さて彼の仏を立つる所にて、又十如是自我偈を読むべし、是れ又事の一念三千の化儀を表するか。

卒都婆とは、塔婆のことで、地水火風空の五輪の塔を表わす。大塔中とは、総本山歴代墓地の中央の宗祖大聖人並びに二祖及ぴ三祖の大墓碑を指す。彼の仏を立つる所とは、塔婆建立回向する、その墓をいう。
亡者の追福作善のため、塔婆を建てて回向する時は、塔婆を一度、大聖人の墓碑の所へ立てて、方便品、自我偈、唱題して、一度回向してから、その追善すべき亡者の墓へ、その塔婆を建立して、方便品、自我偈、唱題して追善供養するのであります。これが師弟相対した事の一念三千の化儀を表わしたことになるのであります。

【038】
一、一日十五日、香炉に香を焼(たい)で天の経の内へ参らすべきなり云云。

毎月一日と十五日は、早朝の天拝の時に香炉に香を焼て、備えるべきであります。
(注、思うに一日は新月、十五日は満月で早朝に満潮の日であります。生生の気の満ちた日で、世間では一日十五日を特に重じられているので、別して香炉に香を焼いてその意に備えたのでありましょう)

【039】
一、法楽祈祷なんどの連歌には寄り合わず、其の故は宝号を唱え三礼を天神になす故に、信が二頭になる故に我宗の即身成仏の信とはならざるなり云云。

法楽とは、神は法華経を唯一の楽しみとしているので、神に法華経を読誦することを法楽という。
天神は、菅原道真を祭る。和歌の神とする。神に法楽を捧げるため、あるいは願いごとのための祈祷や、追善のための歌の会には、加入してはいけません。そのわけは、その場合の会は、天神を祭って、その神のみ名を唱え、三拝の礼をするから、自分の信心が二つになることによって、本宗の不渡余行の信によって即身成仏を得る信心の在り方でないからであります。ただし、普通の歌の会なら、出席しても差支えないのであります。

【040】
一、帰命の句の有る懸地(かけじ)をぱかくべからず二頭になる故なり、人丸の影、或は勝鬼大臣等の影をばかくべきなり云云。

勝鬼(しょうき)大臣とは、鐘馗(しょうき)或は鐘馗大臣のことで、中国の唐の玄宗の時に描き出された所の、疫鬼を駆逐する想像の神。我が国にては、五月幟や、人形に作る。
帰命の句のある懸地とは、帰命即ち南魚とか帰命頂礼の文字のある軸物のこと。
南魚観世音とか南無阿弥陀仏とか帰命頂礼釈迦牟尼仏とかの文字の有る軸物を掛けてはいけません。そのわけは帰命は身命を捧げて帰依し信ずることでありますから、信心が二つになることになりますのでいけないのであります。
但し、信仰に関係の集い歌人柿本人麿の画像や、鐘鐘大臣の画像或は竹林の七賢人や寒山拾得等の画像は掛けて差支えありませんが、やはり同じ画像でも観音、不動、鬼子母神、摩利子天等の如く信仰に関係のある画像は掛けてはいけません。