罰の二義
昨日の城内さんのブログを読んで気づいたのさ。
同じ80万でも大分違うなあって。
さて、今から63年前。
戸田先生がお亡くなりになる約一ヶ月前の3月1日、大講堂が完成しました。
大講堂こそ建て替えが必要だね。
コンクリートって60年も持つの?
本門の大講堂がこうして新しい芽として、かくも立派に出来上がったという事は、75万世帯の人と、今は80万を超える人々の真心が一致したればこそ出来たのであります(拍手)
これは私一代のうちに出来ればありがたいと思っていたことですが、まだ死にそうにも無い時代に来ましたので、これから法主様が御酒を下さるそうですから・・・ちょっと体を悪くしましてね、この頃は体の方が言う事をきかないんだけども、飲むほうは前と同じに飲めるから、今日は充分飲んで死んでみようかと思うてます(笑)
戸田さんの時代はタテ線のみの時代。
昭和33年だっけ?
この後、輿に乗って塔中を行進して具合が悪くなったんだよね。
そして一か月後に心衰弱で死んで、無間地獄の死相を現したんでしたっけね。
池田センセーが横線を構築して、組織は盤石かつ柔軟になって、400万世帯に大躍進したんだとか。。。
而るをいかにやしけん、弘法・慈覚・智証の御義を本としける程に、此の義すでに日本国に隠没して四百余年なり。珠をもって石にかへ、栴檀を凡木にうれり。仏法やうやく顛倒しければ世間も又濁乱せり。仏法は体のごとし、世間はかげのごとし。体曲がれば影なゝめなり。幸ひなるは我が一門、仏意に随って自然に薩般若海に流入す。苦しきは世間の学者、随他意を信じて苦海に沈まん。委細の旨又々申すべく候。恐々謹言。(諸経と法華経と難易の事1469㌻)
顛倒*1の時代ですね。
この時、戸田さんも言ってますが自界叛逆の時代ですよ。共産主義が勢力を拡大し、日本の知識人はマルクス主義に傾倒していました。
革命礼賛の時代です。
これね。
日蓮正宗内に創価学会という、自界叛逆の団体が巣食っていたことの現証です。
仏法は体のごとし、世間はかげのごとし、ですから。
仏法とは日蓮正宗のことです。
でね、今日思うのは、戸田さんの時の80万と今の法華講員80万。
どうですかね?
戸田さんの時も80万は盛り付けの数字ですよ。
強制入信も多々ありました。
無知な大衆が正義を背負って暴れることほど怖いものはないですから。
「地獄に堕ちるぞ!」
「そら見ろ!罰があたった。」
「謗法なんざぶっ壊してやる!」(神棚・仏壇の損壊事件)
都市部では創価に入会した若者が暴れまくりました。
先ごろまでの顕正会と同じ構図です。
さらに、池田センセーの時代になると、政治進出・経済進出、さらには創価思想で洗脳した若者を、公職・財界に就職させるという形で総体革命に着手します。
しかし、権力闘争に明け暮れる者は必ず権力に溺れます。
人間革命という革命思想は、共産革命を目指す共産党に政教一致を責められて、国立戒壇思想を撤回し、仏法に仇名すものに安堵を与えました。
共産党の宮本顕治さんは、当時側近の幹部に「戸田は腹が据わってたっけどよ、池田は腰抜けだ。良かったな。」と言って、呵々大笑したそうです。
要するに、舐められたんですヨ。
戸田さんと宮本さんは、巣鴨プリズンの同窓生ですからね。
さて、現在の法華講員80万人体制はどうでしょうか?
これから、かつての創価のように爆発的進展を達成するのでしょうか?
ないでしょうね。
総罰が出ちゃってますもん。
大聖人様は明らかにお怒りですよね。
スッカスカの法華講員80万体制。
本来なら昨年、東京オリンピックに熱狂し、今年は大々的に御本仏生誕800年を祝うはずでした。
しかし、コロナという疫病の蔓延。
「祝わなくて結構です」との御本仏様の常住止説法が聴こえてきます。
戒壇義はグダグダ。
許されるはずがないでしょっての。
過去・現在の末法の法華経の行者を軽賤する王臣・万民、始めは事なきやうにて終にほろびざるは候はず、日蓮又かくのごとし。
罰は総罰・別罰・顕罰・冥罰四つ候。日本国の大疫病と大けかちとどしうちと他国よりせめらるゝは総ばちなり。やくびゃうは冥罰なり。大田等は現罰なり、別ばちなり。各々師子王の心を取り出だして、いかに人をどすともをづる事なかれ。(聖人御難事1379㌻)
罰の二義は二重になっております。
総罰・別罰。
顕罰・冥罰。
総罰≒冥罰、顕罰≒別罰に近い構図ですよね。
日本の衰退は、1970年の国立戒壇放棄&折伏大行進停止から始まりました。さらに、要所要所の大謗法時に、ドカン!と地盤沈下を繰り返しながら、今日の停滞が蔓延する不毛の日本国になっているのであります。
オリンピック開催は強行するけれど、外国人観戦者の入国禁止、聖火ランナー辞退続出で、まさにスッカスカのオリンピックですよ。中身がない。
「世界ガー」のみなさん、それでも、地球市民気取りますか?
まじめに、日本の国の広宣流布について考えてみませんか?
前年度比10%増の折伏誓願目標について、精神論を排除して、その正当性について説明責任を求めていきませんか?
スッカスカの講員名簿数を積み増しすることが、大聖人様の御心に沿うことでしょうか?
お寺は道場として機能していますか?
毎日、法華講員で溢れていますか?
少しでいいから、誠実に、そして自分の頭で考えてみましょう。
2021年。
こんな暗い未来を、世相を想像して折伏行に励んできたのではないでしょう?
*1:てん‐とう〔‐タウ〕【転倒/×顛倒】[名](スル)《古くは「てんどう」とも》 さかさまになること。また、さかさまにすること。「上下関係が―する」「主客―」「本末―」2 倒れること。「つまずいて―する」3 あわてふためくこと。動転。「気が―する」4 《「てんどう」と読む》仏語。正しい理に反すること。道理にそむく考え。