唱題は日蓮正宗の信心の上で最も重要な行であります。
しかるに多くの人が本来の唱題行から離れた祈祷の行をやっているように思われます。
即ち唱題と祈りを混同しているように見受けられます。
自分の願望が叶うことをひたすら念じながら題目を唱えるのが唱題と考えているようですが、これは祈祷行以外の何ものでもありません。
三大秘宝の本門の御本尊に向かい、御本尊を信じて唱題するのを本門の題目といいますが、大切なのはその際の一念です。
「命己に一念にすぎれば」(持妙法華問答抄)とありますように、生命といってもその瞬間、瞬間の一念の連続です。
したがって唱題という行をするときの一念がいかなるものであるかが極めて大切なのてわあります。
言うまでもなく、その一念とは「信」の一念でなければなりません。
御本尊を久遠元初自受用無作三身如来即日蓮大聖人そのものであることを信じる、あるいは御本尊は日蓮大聖人の尊極の御境涯・お悟りそのものであると信じる、あるいはこの御本尊への信心こそ我等衆生の唯一無二の成仏の直道であると信じる、等々の「信」の一念であります。
六道に迷う我が願望の叶うことを念ずるのは祈祷であり、この祈祷の一念と「信」の一念とは明らかに違うのであります。
御本尊に唱題する本来の目的は、御本尊と境智冥合して仏界を湧現することにあります。
故に大聖人様は「観心の本尊」と仰せなのです。
「寿量品の自我偈にいわく『一心に仏を見たてまつらんと欲して自ら身命を惜しまず』云々、日蓮が己心の仏界を此の文に依って顕すなり」(義浄房御書)
この御文について第65世日淳上人は次のように御指南されております。
「此の文を拝すれば、大聖人の御内証の仏界は一心欲見仏不自惜身命であらせられ、そのところが自受用無作の三身・妙法の当体にましますところをうかがうことができます。時々念々発々の振舞いそのところに、ひたすら仏を見んと欲する一心が仏であるぞと仰せられたものと拝せられます」
我々凡夫の身が仏界を会得できる直道がはっきり示され、勇気て希望が湧いてまいります。
唱題の一念とはまさしく、このような信心の一念でなければならないのであります。
~中略~
しかるに南無妙法蓮華経と口で唱えていても、我が願望の叶うことを祈る一念では六道の迷いそのものであって、仏を見たてまつらんと欲する信心の一念とは全く異なります。
この祈祷の一念が生じている時は、信心の一念は滅しています。
同時に二念は生死えないからです。
すなわち自分の願望を叶えて欲しいという一念が生じている間は、御本尊とは冥合しておりません。
したがって唱題の初めから終わりまで、自分の願いのみを祈っているのでは、ついに信心の一念なき行になってしまい、御本尊と境智不冥合のまま終わってしまい、本来の唱題行てはほど遠いものになりかねません。
いうなれば祈祷の行、祈願の行ということになってしまい、本門の題目の修行とは到底いえないのです。
願いの叶うことを祈りつつ唱題せよ、という御指南は御書のどこにもございません。
勿論、大聖人様は祈祷を否定してはおられません。
「法華経をもっていのらむ祈は必ず祈となるべく」(祈祷抄)と仰せです。
又、祈願しつつ唱題するのが謗法であるとも言えません。
たとえ発心が真実でなくとも正境に縁するだけでも功徳がはなはだ多いからです。
しかしそれは初信の人に対しの御教示であり、信心10年、20年の人の唱題行としてはあまりにもお粗末に過ぎるでしょう。
大聖人様が「祈り」について御指南される際には必ず「申す」と御教示されております。
「ただ嘆く所は露命計りなり、天たすけ給へと強盛に申し候」(経王殿御返事)
「何なる世の乱れにも各々をば法華経・十羅刹助け給へと湿れる木より火を出し乾ける土より水を儲けんが如く強盛に申すなり」(可責謗法滅罪抄)
「とくとく利生をさずけ給へと強盛に申すならば、いかでか祈りのかなはざるべき」(祈祷抄)
「各々も不便(ふびん)とは思えども助けがたくやあらんずらん、よるひる法華経に申し候なり、御信用の上にも力もをしまず申し給え」(南條殿御返事)
これ等の御文の如く、祈りと題目を唱えることとは明確に区別しておられます。
「申し」ながら唱題することは到底できることではありません。
このことからも唱題と祈祷・祈念とは、きちんと立て分けていくべきであることがお分かりでしょう。
故に当宗の勤行では四座の観念のところで祈念するのが原則になっています。
信心は日々月々に強まり成長しなければなりません。
信心のレベルを初信のままにし、ただ題目の数だけを多くして満足しているというのでは、境涯の向上もままならず、宿業の転換、諸天の加護も微々たるものでしかありますまい。
六道の欲念からの願望を御本尊にひたすらに祈る祈祷行の唱題を盛大に行って信心強盛と錯覚し、本来の仏道修行たるべき唱題行にははるかに及ばぬ域で自己満足している多くの会員の姿を見るにつけ、悲しくなります。
まことに勿体ないと思うのであります。
「但在家の御身は余念もなく日夜朝夕南無妙法蓮華経と唱えて候て…」(松野殿御返事)
この「余念もなく」に注目しましょう。
「信の一念」でないのは「余念」であります。
「信」を込めれば「余念」はなくなります。
ここのとこもをしっかり心得、信を込めて唱題に励むことが大切です。
そして妙法仏界に冥合しゆく果報の中に、宿命の転換・生命力の湧現・諸天の加護等の一切の功徳が具わっていることを強く確信すべきです。
日蓮正宗七百年間、一貫して唱題はこのようになされてきたことをゆめゆめ忘れてはいけません。
唱題はまことに無上の甚深なる仏道修行そのものである故に、正しく厳格にそして真剣に取り組み、行じなければなりません。
御本尊の仏力・法力はまことに甚深無量です。
南無妙法蓮華経
南無妙法蓮華経
南無妙法蓮華経
(合掌)
日蓮正宗第67世日顕上人猊下
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最後にある
「御本尊の仏力・法力はまことに甚深無量です。」に注目してください。
『仏力・法力』が具わっていないニセ本尊をいくら血の涙をながして拝んでも、四力が整足していないので、かえって墜獄の因となってしまいます。
松本市にある本立寺の御住職は
「ニセ本尊を拝むと考え方が狂ってしまう」と指導しておりました。
たとえば、ある学会女子部員のように「題目は単なる誓願文だ!」などと我見を振り廻す脳乱した頭破七分な考え方が飛び出てくるのです。
全ての日蓮宗(創価学会も含む)の僧俗のみなさま、大石寺にまします大聖人様の御当躰である本門戒壇の大御本尊様に、信服随従の唱題をあげましょう!
来週から『十王讃歎抄』に戻ります。
みなさん一緒に「三途の川」を渡りましょう。(^_^;)
◆私が平成3年に法華講に入ったときに、この「唱題行について」と書かれたコーピーを婦人部の方にいただきました。
そのコピーには記述者の名前がありませんでした。
まさかその御婦人が書いたものであろうはずもなく、まして末寺の一住職さんが書いたものとも思われません。
文面から拝察すると第67世・日顕上人のご指南と思われます。
日顕上人の御高徳を寿ぎ、御冥福をお祈り申し上げます。
私も御多分に漏れず祈祷師です。
反省いたしました。
お願い信心・乞食信心・功徳乞食。。。
恥ずかしながら、なかなか脱却できません。
腹が立っているときなど、呪詛になっていることもございます。
反省猛省。
「寿量品の自我偈にいわく『一心に仏を見たてまつらんと欲して自ら身命を惜しまず』云々、日蓮が己心の仏界を此の文に依って顕すなり」(義浄房御書)の御金言を、時々は思い出し。臨終正念と合わせて、唱題の一念とできるよう努力していきたいです。
(ポリ銀)