創価ダメ出しさんに学ぶ:題目信仰の間違いについて
「南無妙法蓮華経」のお題目を唱える宗派や、人々の数はものすごく多くて、日本では最多を占めるのだそうです。
- お題目そのものに力がある
- お題目こそが本尊だ
- お題目は究極の法だ
などなど、お題目に関する誤解は数多く存在します。
創価ダメ出しさんが、御自身のブログで創価のお題目信仰を破折しておられます。
この破折は、全ての異流儀・他門が唱える、お題目信仰にも適用できますので、ぜひ、勉強してみて欲しいと思います。以下に、該当記事の引用を。
(旧)創価学会員による創価ダメ出しブログ 創価教学じゃない御書講義(2019年11月座談会御書・法華経題目抄)
創価教学じゃない御書講義(2019年11月座談会御書・法華経題目抄)
今月の座談会御書は「法華経題目抄」ですね。創価教学の「間違い」である「題目第一主義」を助長させるためには最高の御書です。どうせ今回の講義では「唱題」の功徳とかが強調され「題目あげれば何でもOK」的な創価教学がさく裂するのでしょう。既に今回の座散会御書を講義している創価系サイトを見ると案の定「題目の功徳」だけを講義しているサイトばかりで本当にコイツ等は大聖人仏法を分かってね~なと冷笑しています。
さて、この「法華経題目抄」全体の内容は、日寛上人が文段のなかで、
◇初めに能唱の題目の功徳を明かし、次に所唱の妙法の具徳を明かす。これ則ち能唱の功徳の広大なる所以は、良に所唱の具徳の無量なるに由る故なり。
とご指南されています。このご指南だけで十分なんですけど一応話を続けます。冒頭の【問うて云く法華経の意をもしらず只南無妙法蓮華経と~】からの前半部分は「能唱の題目」の功徳を明かしています。そして【問うて云く妙法蓮華経の五字にはいくばくの功徳をかおさめたるや~】からが「所唱の妙法」の具徳を示されている内容になっていて、今回拝読の御文は「所唱の妙法」の具徳を示されている部分です。「能唱の題目」とは「我らが唱える所の題目」即ち「唱題」のことです。しかして「所唱の妙法」とは「唱えられる所の妙法」であり即ち「本門本尊」の事です。つまりこの御文は「題目」の功徳を述べたのではなく「本尊の具徳」を述べられた御文なのです。何故南無妙法蓮華経の功徳は広大無辺なのか?といえば御本尊、就中ご本仏の体である戒壇大御本尊の具徳が広大無辺だからという事を「妙」の一字に備わる三義を通して教えられているのが今回の拝読箇所なのです。だから今回の御文を通じて講義すべきは「題目」ではなく「本尊」なのです。何度も書くけど「本門の題目」とは「本門の本尊」を信じて唱える題目を「本門の題目」と呼ぶのです。そして「本門の本尊」とは一大秘法たる「戒壇大御本尊」がその根本であり究極なのです。「南無妙法蓮華経」の題目そのものには「法力」「仏力」は備わっていない。「法力」「仏力」が備わっているのは「戒壇大御本尊」なのです。その大御本尊を「信力」「行力」をもって受持する修行を「本門の題目」と呼ぶのです。
創価民が一番勘違いしているのはココです。創価民たちは「題目」に功徳があると思っている。でも違う。「功徳」があるのは題目ではなく「本尊」なのです。今回の「法華経題目抄」のような佐前の「本尊」を明かされいない「題目流布」の化導の段階の書を読むと「題目第一」と勘違いするんですね。本書の題号の「法華経題目抄」とは一応は佐前御書なので「権実相対」して「法華経の題目」と書いて他経と区別し「法華経」を簡んでいるが大聖人仏法の本義から言えば「法華経」ではなく「本門本尊」を簡んでいるのが元意です。なので本書は「本門本尊題目抄」あるいは「本門の題目抄」というべき御書です。
拝読部分の「蔵のカギ」とは多くの創価民は「題目」だと思っているだろうけど、そうじゃない。「蔵のカギ」とは題目ではなく「本尊」のことです。今風に分かりやすく言えば、題目は暗証番号でキャッシュカードはご本尊。大御本尊はマスター・カードいうような位置づけです。いくら「暗証番号」を知っていても、肝心のカードが偽造品のニセモノならば中にある財を見ることもできない。つまり大御本尊捨てた創価民がいくら「南無妙法蓮華経」と呪文を唱えても「何も開かない」というこですね。「開」ということについて大聖人は御義口伝の中で、
◆開とは信心の異名なり信心を以て妙法を唱え奉らば軈て開仏知見するなり
と言われています。「信心を以って唱題する」のです。また
◆如何してか今度法華経に信心をとるべき信なくして此の経を行ぜんは手なくして宝山に入り足なくして千里の道を企つるが如し(法蓮抄)
にあるように「法華経に信心をとる」のです。法華経ってなんですか?釈迦の経典ですか?違うよね?大聖人が顕された「本門の本尊」ことでしょう。その「本門の本尊」を捨て剰え仏法の修行もなければ教学もない勿論相伝もない単なる凡夫の大作や原田の爺さんが恐れ多くも大聖人様の本尊を「裁定」するなどぬかしてる創価学会。そんな創価の住民の創価民たちがいくら題目を上げたところで「妙の具徳」など顕れるはずもないから当然功徳もないのです。今の創価民が感じているのは「功徳」ではなく「通力」であることは文証・理証によって明らかなのです。
◆成は開く義なり法界無作の三身の仏なりと開きたり(御義口伝巻下)
との教えにあるように「成仏」とは「自身の仏界を開く」ことです。蔵の中の財とは「自身の仏界」です。それを開くためのカギが「本門の本尊」です。その「本門の本尊」の根本たる戒壇大御本尊を捨てた創価民には成仏は無理です。「創価の題目」などという呪詛を唱えているヒマがあったら酒でも飲んでカラオケ歌っている方が有意義ですよ。題目をあげるなら「正しい本尊を信じ正しい題目」をあげましょう。その為にはまづは創価のインチキ教学・インチキ活動から離れることが重要です。
創価ダメ出しさんが、破折に用いられた御書文段は、法華経題目抄文段 目次 : 日蓮大聖人『御書』解説から参照できます。
序文だけでも、物凄く勉強になりますので貼り付けておきます。
題目抄文段
正徳六丙申六月十三日 大貳日寛記す
一 法華題目抄文。
当抄の大意は佐渡已前、文永三丙寅御年四十五歳の時の述作なり。故に文の面は権実相対の判釈なり。文の初めに能唱の題目の功徳を明かし、次に所唱の妙法の具徳を明かす。是れ則ち能唱の功徳の広大なる所以は、良に所唱の具徳の無量なるに由る故なり。
次に題号を釈す。此れに二意有り。謂く、付文・元意なり。付文の辺、亦二意を含む。
一には「法華」の二字は体を挙げ、「題目」の二字は名を挙ぐ。是れ則ち名は必ず体ある故なり。謂く、妙法蓮華経とは即ち此れ法華経一部八巻二十八品の題目なり。故に「法華題目抄」と云うなり。下の文四に云く「釈迦如来乃至四十二年が間は名をひしてかたりいださせ給わず仏の御年七十二と申せし時はじめて妙法蓮華経ととなえいでさせ給いたり」云云。
二に雙観経等の題目を簡ぶ。故に「法華題目抄」と云うなり。此れ則ち日本一同に念仏を唱うる故なり。撰時抄下二十二に云く「此の念仏と申すは雙観経・観経・阿弥陀経の題名なり権大乗経の題目の広宣流布するは実大乗経の題目の流布せんずる序にあらずや」云云。
次に元意の辺は、此の題号に於て三箇の秘法を含むなり。謂く、「法華」の二字は所信の体、即ち是れ法華経の本門寿量文底下種の本尊なり。「題目」の二字は能唱の行、即ち是れ本門寿量文底下種の題目なり。所住の処は即ち是れ久遠元初の本門の戒壇なり。
問う、何を以て此の事を知らん。
答う、当体義抄二十三・十三に云く「正直に方便を捨て但法華経を信じて南無妙法蓮華経と唱うる人は、三道即三徳と転じ、其の人の所住の処は常寂光土なり。本門寿量の当体蓮華仏とは日蓮が弟子檀那等の中の事なり」(取意)云云。果、既に本門寿量の当体蓮華仏なり。因、豈本門寿量の妙法に非ずや。能唱、既に本門寿量の妙法なり。所信、豈本門寿量の本尊に非ずや。故に知んぬ「但法華経を信ず」とは即ち是れ法華経の本門寿量文底の本尊なり。今「法華」の二字は即ち「但法華経を信ず」に同じ。今「題目」の二字は即ち「南無妙法蓮華経と唱う」に同じ。故に知んぬ、今「法華題目抄」と云うは、但法華経の本門寿量文底の本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱うる義なり。故に「法華題目抄」と云うなり。此れは蓮祖出世の本意に約する故に、元意の義、了らざるべからず云云。
問う、啓蒙二十三初に当抄の題を釈して云く「本より『法華の号は一門を専らにせず』の道理の故に本迹一致の題目なり。三大秘法の中の本門の題目と名異義同なり」云云。此の義如何。
答う、彼尚台家通途の法相の名通義別を知らず。況や当流甚深の元意を知らんや。当に知るべし、「法華の号は一門を専らにせず」とは是れ名通、一往の辺なり。若し義別の辺は勝劣分明なり。故に記十・三十に云く「具聞の言、全く本迹を表す。況や法華の号は一門を専らにせず。先ず迹を表し、次に本を表す。迹中の顕実すら尚而して之を強毒す。況や復本実能く即ち受けんや」略抄。既に迹を挙げて本を況す。豈勝劣分明に非ずや是一。
若し本迹一致の題目、三箇の秘法の中の本門の題目と名異義同と云わば、汝何ぞ蓮祖の唱えたもうが如く、本門寿量の南無妙法蓮華経と弘めずして、更に本迹一致の題目と云うや。豈宗祖違背の謗法に非ずや是二。
凡そ諸御抄の中に、何れの処に本迹一致の南無妙法蓮華経と云うや是三。
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