日蓮正宗のススメ

人生談義と時事放談

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【 日応上人の御事跡(最終号)】

 当時、疲弊していた総本山の御影堂の雨漏りがひどく、

建物自体が大破してきていました。

それまでの御影堂の屋根は檜皮葺(ひのきの樹皮を屋根材として使用)で腐れ果てておりました。

 

 

          【檜皮葺当時の御影堂】


日応上人はこれを憂い全国より寄付(御供養)を集め、銅瓦に改装し、

この年めでたく御影堂の営繕大落慶法要を執り行いました。

 

        【銅瓦に改装された御影堂】

また日応上人の三大事業の最後の一つは、

大石寺周辺の林野を静岡県から払い下げられたことです。

このように日応上人の御事跡は大石寺の分離独立を筆頭に、

御影堂の修復、全国御巡教、法道院の創設、首都東京での布教、
他宗との数々の法論、宗門機関紙の発行、学林の設立等々、枚挙に暇がありません。

御登座以来20年、長年のご苦労と胃の宿病のため明治41年には管長を辞じ、

法を日正上人に血脈相承し御隠尊なされます。


   【第57世 日正上人】


ですが、これで日応上人の御活躍が終わったわけではありません。

勇退後の日応上人は深川の法道院を本拠地とし、

さらに首都東京の布教に力を入れていきます。

 

       【昭和の始めに再建された法道院



妙光寺法道院、砂村教会を筆頭に東京に点在する各法華講

(本門講、本因妙講、広布講、妙道講、独一本門講、青山講など)を
指揮し、浅草両国館、京橋桜川亭、芝倶楽部、麻布鹿島亭、日本橋薬研堀倶楽部、

神田松月亭などなどで『日蓮本仏論』の大演説会を挙行し、

首都東京の法華講の発展は日に日に高まっていきました。

明治44年には総本山において布教講習会(現在の行学講習会の前身)を

宗内住職や教師を対象に20日間開催します。
(翌45年から日蓮宗富士派日蓮正宗と公称します)

 

        【日昇上人時代の教師講習会】

大正2年には仏立講(現本門佛立宗)と法論しますが、

なんと相手の論者たちは一言も発言することもできず日応上人の圧勝に終わります。

また妙光寺発行の機関紙『大日蓮』を宗門の機関紙と認定し、

現在も総本山から発行が続いております。

晩年の大正7年に70才も御高齢にもかかわらず、

またまた東北、北海道と御巡教に回ります。

翌8年には名古屋・大阪方面に御巡教に行かれます。

翌9年には73才と齢を積み重ねます。
 

それまでお薬を服用することのない御健康なお身体でありましたが、

突然の脳充血に襲われ緊急入院なされます。

しかし1ケ月半後には見事退院なされ復活します。

少しのご静養の後、大正10年には磐城市小名浜において『宗旨の本領』と題し大演説会を行い、

満場の聴衆に対し大いに宣揚しました。

翌11年6月、妙光寺において御訓諭を述べられたその3日後に御遷化なされました。(享年75才)


              【現在の妙光寺


以上、日応上人の御事跡を掲載してまいりました。

お亡くなりになる3日前まで、御法のために御法主自らが全国を走り回った布教精神は、

僧俗の永遠の明鏡としなければなりません。

最後に日応上人の逸話を二つほど掲載し、

今回のシリーズを終了したいと思います。

【元直達講・副講頭 竹尾清澄氏の回顧録

『単独でお目通りして親しく御言葉を賜ったのはもう御隠居なされた時で、

場所は新築された蓮葉庵でありました。
上人は初めて会う信徒に対しては大変ご丁寧であらせられ

「あなた様」と仰られて恐縮してしまいました。

東京の寺院で行われる会合にはいつも御導師をなされ、

自我偈の「現有滅不滅」が「ゲンンーメンーメ」と聞こえたたことと
「彼は脱、是は種、彼は一品二半、是は唯題目の五字なり」と

御講義された時のバス調の重厚なお声が今でも強く耳に響くように
残っております。

【沼津・蓮興寺 前住職 関戸慈晃師の回顧録

総本山にて夕方、石之坊の前を通りかかると日応上人と土屋慈観師(日柱上人)が勤行をなされていた。
その御声たるや言葉で言い表せないくらい誠に素晴らしく、深く聞き入ってしまいました。(主意)

〜 日応上人の御事跡 終わり 〜

 

 

弁惑観心抄

弁惑観心抄

 

 

一念三千法門

一念三千法門