日蓮正宗のススメ

人生談義と時事放談

PVアクセスランキング にほんブログ村 日蓮正宗のススメ - にほんブログ村

1175夜:迷ってもいい、愚痴ってもいい、サボってもいい。棄てる勿れ。

f:id:ekikyorongo:20220221120734j:plain

「ミステリと言う勿れ」に自省録が出てきました。


www.fujitv.co.jp

毎回、面白く観ている「ミステリと言う勿れ」。
第16代ローマ皇帝マルクス・アウレリウス・アントニヌスの「自省録」が、暗号本として登場したのには感激しました。

それはそれとして、私が法華講に入って12年。
干支が一周しました。

私の信心なんて微々たるものですから、私の体感で仏法を語る勿れと言われれば、それまでのことなんですが。。。

自分の人生は仏法上、三つの時期に分類できます。

  1. 日蓮正宗の信徒団体だった、創価学会員時代
  2. 顕正会員時代
  3. 法華講員時代

創価が破門になったのは、1991年11月。
顕正会入会が1992年1月。
法華講入講が2010年7月。
生まれが1972年。

19年、19年、12年。

経験年数がほぼ均等な状態なわけ。

一番長く感じているのは、最初の19年ですけどね。
人生の折り返し点は、主観的には19歳だそう。
それも納得で、ここ数年の体感時間はものすごく速いのです。

「正気に返って、自己を取り戻せ。目を覚まして、君を悩ましていたのは夢であったことに気付き、夢の中のものを見ていたように、現実を眺めよ。」マルクス・アウレーリウス 自省録 (岩波文庫)

最初に取り上げた自省録の、ドラマの中の暗号符に使われた言葉。

この戒めのような言葉が、私の心に深く突き刺さってくるのです。
もし、仮に私が創価2世でなく1の時代がなければ、信心とは無縁の日本国民として一生を終えたことでしょう。
顕正会員としての2の時代がなければ、1から3へとすんなり移行して好々爺になっていたかもしれません。
今、1、2の時期を経て3の時代を生きている私。
なぜ、地獄への直行便から乗り換えることが出来たのか?
宿縁があったのだと思っています。

本未有善の法門から言えば、末法衆生は皆、理生眷属の本未有善の衆生です。
しかし、因果俱時法門の不可思議妙から観じて見るならば、宿縁が存在したのだろうと推測しています。
これは、日顕上人様が百六箇種脱對見拜述記の中の、眷属妙の説明で少し私見を開陳されておられますので、ぜひとも本山への御供養と思って御購入してください。

難しい本ですが、非常に勉強になります。

さて、表題の件ですが。

問ふ、一切衆生の当体即妙法の全体ならば、地獄乃至九界の業因・業果も皆是妙法の体なるや。答ふ、法性の妙理に染浄の二法有り。染法は薫じて迷ひと成り、浄法は薫じて悟りと成る。悟りは即ち仏界なり、迷ひは即ち衆生なり。此の迷悟の二法、二なりと雖も然も法性真如の一理なり。譬へば水精の玉の日輪に向かへば火を取り、月輪に向かへば水を取る、玉の体一なれども縁に随って其の功同じからざるが如し。真如の妙理も亦復是くの如し。一妙真如の理なりと雖も、悪縁に遇へば迷ひと成り、善縁に遇へば悟りと成る。悟りは即ち法性なり、迷ひは即ち無明なり。譬へば人夢に種々の善悪の業を見、夢覚めて後に之を思へば、我が一心に見る所の夢なるが如し。一心は法性真如の一理なり。夢の善悪は迷悟の無明・法性なり。是くの如く意得れば、悪迷の無明を捨て、善悟の法性を本と為すべきなり。(当体義抄692㌻)

当体義抄は難しい御書です。
でも、大切な御書です。
なぜかというと、十界互具本有常住を説明されているのです。
仏の化導は久遠の昔から延々と続いているのです。
なぜ、未だ救済が終わっていないのか?不思議に思ったことはありませんか?
前の、前々回の戒壇の大御本尊様はどこに行ったのか?って思いませんか?
十界じゃなく仏界だけでいいじゃん?とか。

ここの不思議なところが説明されているのです。
法界といい、宇宙といい、全体が妙法蓮華経にあらざるなしなんですよ?

妙法蓮華経こそ本仏にては御坐し候へ。経に云はく「如来秘密神通之力」是なり。如来秘密は体の三身にして本仏なり、神通之力は用の三身にして迹仏ぞかし。凡夫は体の三身にして本仏ぞかし、仏は用の三身にして迹仏なり。然れば釈迦仏は我等衆生のためには主師親の三徳を備へ給ふと思ひしにさにては候はず、返って仏に三徳をかぶらせ奉るは凡夫なり。其の故は如来と云ふは天台の釈に「如来とは十方三世の諸仏・二仏・三仏・本仏・迹仏の通号なり」と判じ給へり。此の釈に本仏と云ふは凡夫なり、迹仏と云ふは仏なり。然れども迷悟の不同にして生仏異なるに依って、倶体倶用の三身と云ふ事をば衆生しらざるなり。さてこそ諸法と十界を挙げて実相とは説かれて候へ。実相と云ふは妙法蓮華経の異名なり。諸法は妙法蓮華経と云ふ事なり。地獄は地獄のすがたを見せたるが実の相なり、餓鬼と変ぜば地獄の実のすがたには非ず。仏は仏のすがた、凡夫は凡夫のすがた、万法の当体のすがたが妙法蓮華経の当体なりと云ふ事を諸法実相とは申すなり。(諸法実相抄665㌻)

仏という悟りの法性が、なぜ迷わなくてはいけないのか?
無明と法性が一体であるとは何か?

これがいわゆる力動因というものなのか?

なぜ、世界はこのようであり、生成変化し続けるのか?
凡夫の不可思議境であります。

國分功一郎さんの「暇と退屈の倫理学(新潮文庫)」は、とてもいいヒントを提供してくれています。

私にとっては、ダニの環世界*1についての説明は、考察の白眉たる傑作でした。

ダニは餓鬼界の生き物です。
畜生界ではありません。
仏縁(耳根得道の機根)から隔絶されています。
細菌やウィルスと同根です。
我々人間がなぜ退屈し、退屈を忌避しようとするのか?

この視点から見えてくることが、染浄の二法を感得する近道であるような気がしています。

地涌の菩薩はなぜ成仏を拒み、本仏とともに娑婆世界の浄化に尽力し続けるのか?

煩悩即菩提、生死即涅槃。

御本仏様の御仏智が表す、この世界の真実。
これがうっすらと見えてくるに随い、日蓮正宗を棄てる勿れの戒めが響いてくるのです。

凡夫だから、迷ってもいい、愚痴ってもいい、サボってもいい。棄てる勿れ。

何に況んや末法今時は教機時刻当来すといへども其の師を尋ぬれば凡師なり。弟子又闘諍堅固・白法隠没・三毒強盛の悪人等なり。故に善師をば遠離し悪師には親近す。其の上真実の法華経の如説修行の行者の弟子檀那とならんには三類の敵人決定せり。されば此の経を聴聞し始めん日より思ひ定むべし、況滅度後の大難の三類甚だしかるべしと。然るに我が弟子等の中にも兼ねて聴聞せしかども、大小の難来たる時は今始めて驚き肝をけして信心を破りぬ。又兼ねて申さゞりけるか、経文を先として猶多怨嫉況滅度後と朝夕教へし事は是なり。予が或は所を追はれ或は疵を蒙り、或は両度の御勘気を蒙りて遠国に流罪せらるゝを見聞すとも、今始めて驚くべきに非ざるものをや。(如説修行抄670㌻)

御本尊様を御返ししたり、創価・顕正に日和ってみたり、有象無象の邪宗教に頼ってみたり。
そんなことさえしなければ、来世もまた日蓮正宗信徒として修行できたのに。
地獄に行くのだけはやめておきましょう。

 

 

*1:環世界(=Umwelt:ウンベルト)とは、ドイツの生物学者であり哲学者であるユクスキュルさん(1864〜1944)が唱えた考え方で、すべての生物は自分自身が持つ知覚によってのみ世界を理解しているので、すべての生物にとって世界は客観的な環境ではなく、生物各々が主体的に構築する独自の世界である、というものです。