質問者との対話:勤行に迷うことなかれ。。。題目専修主義を考える。
Twitterにダイレクトメッセージをいただきました。
勤行は三大秘法でしょうか?昔の法華講衆は、御題目だけを修行していたのではないでしょうか?(主旨)
という内容です。
質問者さんが、何に迷っていらっしゃるのかよくわかりませんが、末法の修行は五座三座の勤行ではなく、題目修行専修じゃないか?との疑問だと承りました。
よくありがちな疑問だとは思います。
御書の勝手読み(身延読み・創価読み)をすれば、切り文で立証も可能でしょう。例えば、
今末法は南無妙法蓮華経の七字を弘めて利生得益あるべき時なり、されば此の題目には余事を交えば僻事なるべし、此の妙法の大曼荼羅を身に持ち心に念じ口に唱え奉るべき時なり(御講聞書)
今末法に入りぬれば余経も法華経もせんなし、但南無妙法蓮華経なるべし、かう申し出だして候も・わたくしの計にはあらず、釈迦・多宝・十方の諸仏・地涌千界の御計なり、此の南無妙法蓮華経に余事をまじへば・ゆゆしきひが事なり、日出でぬれば・とぼしびせんなし・雨のふるに露なにのせんかあるべき、嬰児に乳より外のものをやしなうべきか、良薬に又薬を加えぬる事なし。(上野殿御返事)
第六一時俱作の事
御義口伝に云く一時とは末法の一時なり倶作とは南無妙法蓮華経なり倶とは畢竟住一乗なり、今日蓮等の類いの所作には題目の五字なり余行を交えざるなり、又云く十界の語言は一返の題目を倶作したり、是れ豈感応に非ずや。(御義口伝巻上)第三雖一地所生一雨所潤等の事
御義口伝に云く随縁不変の起る所の文なり、妙楽大師云く「随縁不変の説は大教より出で木石無心の言は小宗より生ず」と、此の大教とは一経の惣体に非ず此の雖一地所生等の十七字を指すなり、一地所生一雨所潤は無差別譬・而諸草木各有差別は有差別譬なり無差別譬の故に妙なり有差別譬の故に法なり云云、今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉るは有差を置くなり廿八品は有差別なり、妙法の五字は無差別なり、一地とは迹門の大地一雨とは本門の義天・一地とは従因至果・一雨とは従果向因、末法に至つて従果向因の一雨を弘通するなり一雨とは題目に余行を交えざるなり、序品の時は雨大法雨と説き此の品の時は一雨所潤と説けり一雨所潤は序品の雨大法雨を重ねて仏説き給うなり、一地とは五字の中の経の一字なり一雨とは五字の中の妙の一字なり法蓮華の三字は三千万法・中にも草木なり三乗・五乗・七方便・九法界なり云云。(御義口伝巻上)
赤字部分が切り文による文証。
御題目だけでいいじゃんっていう時の切り札。
でもね、少し冷静になってみれば分かること。
日蓮正宗の歴代猊下様並びに高僧方が、この御文を拝していないとでもいうのであろうか?
そんなわけないじゃん。。。ね。
日寛上人様の当流行事抄の冒頭を引用いたします。
当流行事抄第五 日寛謹んで記す
大覚世尊、教を設くるの元意は一切衆生をして修行せしめんが為なり。
修行に二有り、所謂正行及び助行なり。宗々殊なりと雖も同じく正助を立つ、同じく正助を立つれども行体各異なり。流々の正助は今論ぜざる所なり、当門所修の二行の中に、初めに助行とは方便・寿量の両品を読誦し、正行甚深の功徳を助顕す。譬えば灰汁の清水を助け、塩酢の米麺の味を助くるが如し、故に助行と言うなり。此の助行の中に亦傍正有り、方便を傍とし寿量を正と為す。是れ則ち遠近親疎の別有るに由る故なり、傍正有りと雖も倶に是れ助行なり。次ぎに正行とは三世諸仏の出世の本懐、法華経二十八品の最要、本門寿量の肝心、文底秘沈の大法、本地難思、境智冥合、久遠元初の自受用身の当体、事の一念三千、無作本有の南無妙法蓮華経是れなり。荊渓尊者謂える有り「正助合行し、因って大益を得」云云。
行者応に知るべし、受け難きを受け、値い難きに値う、曇華にも超え浮木にも勝れたり、一生空しく過ごさば万劫必ず悔ゆ、身命を惜まずして須く信行を励むべし、円頂方袍にして懶惰懈怠の者は是れ我が弟子に非ず、即ち外道の弟子なり云云。慎む可し、慎む可し、勤めよや、勤めよや。
※荊渓(けいけい)尊者・・・妙楽大師
本門の題目は、自行と化他に開かれるのだが、自行も正と助に開かれるということ。
そして、助行も傍と正に開かれる。
方便を傍とし寿量を正と為すとの仰せだ。
予が愚見をもつて近来の世間を見るに多くは在家・出家・誹謗の者のみあり、但し御不審の事・法華経は何れの品も先に申しつる様に愚かならねども殊に二十八品の中に勝れて・めでたきは方便品と寿量品にて侍り、余品は皆枝葉にて候なり、されば常の御所作には方便品の長行と寿量品の長行とを習い読ませ給い候へ、又別に書き出しても・あそばし候べく候、余の二十六品は身に影の随ひ玉に財の備わるが如し、寿量品・方便品をよみ候へば自然に余品はよみ候はねども備はり候なり、薬王品・提婆品は女人の成仏往生を説かれて候品にては候へども提婆品は方便品の枝葉・薬王品は方便品と寿量品の枝葉にて候、されば常には此の方便品・寿量品の二品をあそばし候て余の品をば時時・御いとまの・ひまに・あそばすべく候。(月水御書)曾谷入道殿御返事
方便品の長行書進せ候先に進せ候し自我偈に相副て読みたまうべし、此の経の文字は皆悉く生身妙覚の御仏なり然れども我等は肉眼なれば文字と見るなり、例せば餓鬼は恒河を火と見る人は水と見る天人は甘露と見る水は一なれども果報に随つて別別なり、此の経の文字は盲眼の者は之を見ず、肉眼の者は文字と見る二乗は虚空と見る菩薩は無量の法門と見る、仏は一一の文字を金色の釈尊と御覧あるべきなり即持仏身とは是なり、されども僻見の行者は加様に目出度く渡らせ給うを破し奉るなり、唯相構えて相構えて異念無く一心に霊山浄土を期せらるべし、心の師とはなるとも心を師とせざれとは六波羅蜜経の文ぞかし、委細は見参の時を期し候、恐恐謹言。
文永十二年三月 日 日 蓮花押
曾谷入道殿御文に云く此の経を持ち申して後退転なく十如是・自我偈を読み奉り題目を唱へ申し候なり、但し聖人の唱えさせ給う題目の功徳と我れ等が唱へ申す題目の功徳と何程の多少候べきやと云云、更に勝劣あるべからず候、其の故は愚者の持ちたる金も智者の持ちたる金も・愚者の然せる火も智者の然せる火も其の差別なきなり、但し此の経の心に背いて唱へば其の差別有るべきなり、此の経の修行に重重のしなあり其大概を申せば記の五に云く「悪の数を明かすことをば今の文には説・不説と云ふのみ、有る人此れを分つて云く先きに悪因を列ね次ぎに悪果を列ぬ悪の因に十四あり・一に憍慢・二に懈怠・三に計我・四に浅識・五に著欲・六に不解・七に不信・八に顰蹙・九に疑惑・十に誹謗・十一に軽善・十二に憎善・十三に嫉善・十四に恨善なり」此の十四誹謗は在家出家に亘るべし恐る可し恐る可し(松野殿御返事)
と、まあ、こんなところか。
赤字が大聖人様が勤行に方便品・寿量品を読みなさいと、御指南されていた文証。
と、禅宗の化儀軽視を破折されている。日寛上人様の禅宗云く向上の一路は先聖不伝云云、答う爾らば今の禅宗も向上に於ては解了すべからず若し解らずんば禅に非ざるか凡そ向上を歌つて以て憍慢に住し未だ妄心を治せずして見性に奢り機と法と相乖くこと此の責尤も親し旁がた化儀を妨ぐ其の失転多し謂く教外と号し剰さえ教外を学び文筆を嗜みながら文字を立てず言と心と相応せず豈天魔の部類・外道の弟子に非ずや(蓮盛抄)
行者応に知るべし、受け難きを受け、値い難きに値う、曇華にも超え浮木にも勝れたり、一生空しく過ごさば万劫必ず悔ゆ、身命を惜まずして須く信行を励むべし、円頂方袍にして懶惰懈怠の者は是れ我が弟子に非ず、即ち外道の弟子なり云云。慎む可し、慎む可し、勤めよや、勤めよや。
の文に符合するではないか。
円頂(坊主頭のこと)方袍(袈裟のこと)とは御僧侶のことであるから、我等在家は準じて拝すべし。
で、現在の日蓮正宗の五座三座の勤行についてだが、総本山第26世日寛上人は、当時の信徒に対して、「若(も )し堪(た )えたらん人は本山の如く相(あい)勤(つと)むべし。若し爾らずんば十如自我偈題目なりとも五座三座の格式(かくしき)相守るべし」(報福原式治状)と五座三座の勤行方式を守るよう御指南されている。
また、『当流行事抄』に、「但我が富山のみ蓮祖所立の門流なり、故に開山已来化儀・化法四百余年全く蓮師の如し、故に朝暮の勤行は但両品に限るなり。」(六巻抄一九三)と、仰せである。
故に、質問者の「昔の法華講衆は、御題目だけを修行していたのではないでしょうか?」との疑問も、見当違いであると結論できる。
百歩譲って、もしも、生活上の都合で五座三座の修行が、なかなか思うようにならないとの悩みであるならば、懶惰懈怠に安住することなく、可能な限り努力していけばよいのではなかろうか。日寛上人様も「若(も )し堪(た )えたらん人は」との思いやりの言葉を、報福原式治状に付されている。深く拝すべし。