日蓮正宗のススメ

法華講員の千夜一夜随想録

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朝から晩まで働いて、ヘトヘトなんですが。。お寺で偉そうなことを言われました、という人のために。

御文に云はく、此の経を持ち申して後、退転なく十如是・自我偈を読み奉り、題目を唱へ申し候なり。但し聖人の唱へさせ給ふ題目の功徳と、我等が唱へ申す題目の功徳と、何程の多少候べきやと云云。更に勝劣あるべからず候。其の故は、愚者の持ちたる金も智者の持ちたる金も、愚者の燃せる火も智者の燃せる火も、其の差別なきなり。但し此の経の心に背きて唱へば、其の差別有るべきなり。此の経の修行に重々のしなあり。其の大概を申せば、記の五に云はく「悪の数を明かすをば今の文には説不説と云ふのみ」と。有る人此を分かって云はく「先に悪因を列ね、次に悪果を列ぬ。悪の因に十四あり。一に憍慢・二に懈怠・三に計我・四に浅識・五に著欲・六に不解・七に不信・八に顰蹙・九に疑惑・十に誹謗・十一に軽善・十二に憎善・十三に嫉善・十四に恨善なり」と。此の十四の誹謗は在家出家に亘るべし。(松野殿御返事1046㌻)

大聖人様が松野殿に信行を指南されている、有名な御書です。

どちらかと言えば、十四誹謗の方が有名ですね。

駿河国松野の領主で、六老僧日持上人の父また南条時光の外祖父でもあった松野六郎左衛門に宛てられたご消息文です。

松野殿より「聖人の唱えさせ給う題目の功徳と我れ等が唱へ申す題目の功徳と何程の多少候べきや」との問に答えられた返書です。

大聖人は「勝劣あるべからず候、其の故は愚者の持ちたる金も智者の持ちたる金も其の差別なきなり<中略>但し此の経の心に背いて唱へば其の差別有るべきなり」と諭しています。

さらに「人久しといえども百年には過ず、其の間の事は但一睡の夢ぞかし、受けがたき人身を得て適(たまた)ま出家せる者も、仏法を学し謗法の者を責めずして徒らに遊戯(ゆげ)雑談のみして明し暮さん者は法師の皮を著たる畜生なり」と出家僧に言及し、在家の信徒である松野殿へは「在家の御身は但余念なく南無妙法蓮華経と御唱えありて僧をも供養し給うが肝心にて候なり、それも経文の如くならば随力演説も有るべきか」と、自らの力量に応じて他の人へ経文の如く説く事もあって然るべきと励まされています。

松野六郎左衛門の日常生活がどのようであったか?想像することは難しいですが、近代資本主義を生きる私たちよりは、もう少しゆったりとしていたかもしれません。

それでも、在家ですから、

然るに在家の御身は、但余念なく南無妙法蓮華経と御唱へありて、僧をも供養し給ふが肝心にて候なり。それも経文の如くならば随力演説も有るべきか。世の中ものうからん時も今生の苦さへかなしし。況してや来世の苦をやと思し食しても南無妙法蓮華経と唱へ、悦ばしからん時も今生の悦びは夢の中の夢、霊山浄土の悦びこそ実の悦ひなれと思し食し合はせて又南無妙法蓮華経と唱へ、退転なく修行して最後臨終の時を待って御覧ぜよ。妙覚の山に走り登りて四方をきつと見るならば、あら面白や法界寂光土にして瑠璃を以て地とし、金の縄を以て八つの道を界へり。(松野殿御返事1052㌻)

と、御指南されています。

また、曾谷入道殿には、

方便品の長行書き進らせ候。先に進せ候ひし自我偈に相副へて読みたまふべし。此の経の文字は皆悉く生身妙覚の御仏なり。然れども我等は肉眼なれば文字と見るなり。例せば餓鬼は恒河を火と見る、人は水と見る、天人は甘露と見る。水は一なれど果報に随って別々なり。此の経の文字は盲眼の者は之を見ず、肉眼の者は文字と見る、二乗は虚空と見る、菩薩は無量の法門と見る、仏は一々の文字を金色の釈尊と御覧有るべきなり。即持仏身とは是なり。されども僻見の行者は加様に目出度く渡らせ給ふを破し奉るなり。唯相構へ相構へて異念無く一心に霊山浄土を期せらるべし。心の師とはなるとも心を師とせざれとは六波羅蜜経の文ぞかし。委細は見参の時を期し候。恐々謹言。(曾谷入道殿御返事794㌻)

との御指南です。

曾谷 教信(そや きょうしん、元仁元年(1224年)- 正応4年5月1日(1291年5月29日))は、鎌倉時代後期の下総国の武士。同国八幡荘曾谷郷(現在の千葉県市川市曽谷)の領主で千葉氏の家臣。通称は二郎兵衛尉。

後に日蓮大聖人のもとで出家して「法蓮日礼」と名乗った。父は日蓮の母方の伯父ともされる大野政清(異説では曽谷道頂とも)といわれている。また、「教信」という名乗りについては、俗名説と一旦出家した際の法号で後に日蓮によって新しく「日礼」と授けられたとする説があるが、後者を採る説が多い。

入道となっていますから、在家僧のような生活をしていたのかもしれません。

松野殿も曾谷殿も二人とも領主です。

毎日、通勤地獄、ノルマ地獄の私たちとは違っていたと思います。

ある時、お寺でお会いした古い御信徒さんが、苦衷の言葉を吐いたことを聞いたことがあります。

「朝の勤行ができない。。」

かけてあげる言葉がありませんでした。

末法の世に日蓮正宗の御授戒を受けて、御供養できているだけでも立派ですよと言ってあげたかったのですが、言質を取られて揚げ足取りに使われてもしんどいなと。

家にお仏壇を用意して、毎日のお給仕ができているだけでも、大功徳です。

御住職様は御本尊様は家の守り神様だからと、昔は仰ったものですが、柔軟なお話は警戒されて口にしなくなりました。

信徒に聴かれたら、すぐに本山に言いつけるのがいるようで、何も言えないというのが現状です。

信心をしている人間にも、他人の不幸を喜ぶものがいます。

餓鬼界ベースの信心を長いことやっていると、どうもそんな風になるようで。。。

「ダメよ!勤行は絶対に飛ばしちゃダメ!」

「1回でも飛ばしたら、一から修行のやり直しなのよ!」

十四誹謗批判好きのファシストにはげんなりします。

私自身も、そして、このブログをお読みに来てくださる人にも、死ぬまで日蓮正宗信徒でいられて、日蓮正宗の僧侶の葬儀で旅立って逝かれることを願っています。

入信当時、寺で村八分にされている人に、ある婦人部員が怨嫉の言葉を投げかけているのを見たことがあります。

「お前みたいなのが、よくも、寺に顔を出せたな」

「本山に言いつけて除名になるようにしてやる」

悪鬼羅刹か?って思いましたね。

折伏に苦労している一方で、信心をしている仲間に退転を迫る。

そんな人間に現罰が出るのも見て、驚いたこともあります。

五座三座の勤行はできる時にすればいいですよ。

ありがたい勤行です。

でも、できないときはできないなりに、心に御題目を常に唱えて乗り切っていきましょう。

心無い言葉に傷ついて、御本尊様をお返ししたり、無宗教になったりすることは、あまりにももったいないです。

授戒文では、
 「今身こんじんより仏身ぶっしんに至いたるまで爾に前ぜん迹しゃく門もんの邪法邪師の邪義を捨てて、法華本門の正法正師の正義を持たもち奉たてまつるや否いなや」
 「今身より仏身に至るまで爾前迹門の謗法を捨てて、法華本門の本尊と戒壇と題目を持ち奉るや否や」
 「今身より仏身に至るまで爾前迹門の不ふ妄もう語ご戒かいを捨てて、法華本門の不妄語戒を持ち奉るや否や」

と導師にそれぞれ問いかけられて、御授戒を受ける者と紹介者も導師に合わせて、その都度つど、
 「持ち奉るべし南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経
と発声はっせいして、爾前迹門の謗法を捨てて、三大秘法の御本尊様を受持することをお誓い申し上けました。
 そして、御授戒を受ける者は、御本尊様を頭に戴いただいたのです。

このありがたさを噛みしめて、日蓮正宗から離れることだけはなさらぬように。

どこかで悩んでいるあなたに。

そして自分自身にも。

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