日蓮正宗のススメ

人生談義と時事放談

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2020年 新年 あけまして おめでとうございます。

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今年もよろしくお願いします。

ブログをお読みいただいている皆様、2020年の新年、あけましておめでとうございます。

今年一年が、皆様にとって実り多き一年となりますよう、お祈り申し上げます。

本日、午前0時からの元旦勤行に妻と参詣できました。

良き一年の出発が果たせた思いであります。

東京オリンピック開催が目玉の年と、世間では騒がれておりますが、私は全く興味がございません。

本年は、私が法華講に入って満10年の節目の年

しかも48歳の年男。

人の寿命は計り知れません。

大聖人様も、

法華経に云く「如是相乃至本末究竟等」云云、大論に云く「臨終の時色黒き者は地獄に堕つ」等云云、守護経に云く「地獄に堕つるに十五の相・餓鬼に八種の相・畜生に五種の相」等云云、天台大師の摩訶止観に云く「身の黒色は地獄の陰に譬う」等云云、夫以みれば日蓮幼少の時より仏法を学び候しが念願すらく人の寿命は無常なり、出る気は入る気を待つ事なし・風の前の露尚譬えにあらず、かしこきもはかなきも老いたるも若きも定め無き習いなり、されば先臨終の事を習うて後に他事を習うべしと思いて、一代聖教の論師・人師の書釈あらあらかんがへあつめて此を明鏡として、一切の諸人の死する時と並に臨終の後とに引き向えてみ候へばすこしもくもりなし、此の人は地獄に堕ち給う乃至人天とはみへて候を、世間の人人或は師匠・父母等の臨終の相をかくして西方浄土往生とのみ申し候、悲いかな師匠は悪道に堕ちて多くの苦みしのびがたければ、弟子はとどまりゐて師の臨終をさんだんし地獄の苦を増長せしむる、譬へばつみふかき者を口をふさいできうもんしはれ物の口をあけずしてやまするがごとし。(妙法尼御前御返事)

臨終近しとの思いで、一年、一年を生きていきたいと思います。

世間の哲学者でも、人の死について向き合った賢人は数多くいます。

私が19歳の時に知った、ハイデガーはまさに実存(人として固有の人生)分析の達人でした。

何も考えないで生きる人を「ダス・マン」(世人・一般ピープル)と定義。 

人間は必ず死ぬという前提条件をしっかりと意識し、残された人生をしっかりと生ききる・・・それを彼は「現存在(ダーザイン)」と定義しました。 

著作の「存在と時間」は、未完の名著。

第一部1~3編、第2部1~3編が完成型でしたが、第一部の2編で終わってしまいます。

死は誰もが受け入れざるをえない事実。

その不安を「先駆的決意性」としてとらえ、プラス発想に変えたのが彼の最大の貢献だと思います。 

誰しも死を意識すれば、本気になると言われていますが、約8割の人が答を見いだせないまま、人生を終えてしまう傾向があるように思えます。 

ハイデカーが探究したテーマは、残された人生を、いかに「よりよく生きるか?」。

出生と死の間を、いかに充実した日々として過ごすか?を探究した哲学であると理解しています。 

ハイデカーからも多くの影響を受けたと言われるサルトルは、実存主義をさらに進化させていきます。

サルトルの主著と言われている書物、それは「存在と無」というタイトルです。

二人の書物は、第一次世界大戦第二次世界大戦という、人類史上最大級の悲惨が生み出した、哲学的至宝だと思われます。

精神医学が死と向き合った時代の先駆者たち

やはり、同時代の精神が生み出した精神的遺産が、「夜と霧――ドイツ強制収容所の体験記録」・「人生は廻る輪のように 」の2著作です。

人は通常、何も考えないで生きる「ダス・マン」(世人・一般ピープル)であっても、自分の死に直面しなければならない存在です。

その理由が、病気であるか理不尽な暴力や事故であるかによらず。

年末年始、私は、キューブラー・ロス博士の「人生は廻る輪のように 」を読んでいます。

スイスで過ごした少女時代、難民救済活動、ナチス強制収容所で出会った蝶の壁画の謎、医師への道、結婚とアメリカへの移住、終末期医療と死の科学への取り組み、夫との別離、体外離脱体験、詐欺及び殺人未遂被害、ヒーリングセンターの設立、放火によるすべての焼失…。魂の名医が綴った、愛と死と生の秘密。ページをめくるごとに、希望と感動が溢れてくる一冊です。

この本は、皆様にお勧めしたい本です。ぜひ、読んでみてください。 

人生は廻る輪のように (角川文庫)

人生は廻る輪のように (角川文庫)

 

思索ではたどり着けないからこそ 

「唯仏与仏 乃能究尽 諸法実相」とは、法華経方便品の有名な一句です。

舎利弗。不須復説。所以者何。仏所成就。第一希有。難解之法。唯仏与仏。乃能究尽。諸法実相。
所謂諸法。如是相。如是性。如是体。如是力。如是作。如是因。如是縁。如是果。如是報。如是本末究竟等。

止みなん、舎利弗、復説くべからず。所以は何ん、仏の成就したまえる所は、第一希有難解の法なり。唯仏と仏と乃み能く諸法の実相を究尽したまえり。
所謂諸法の如是相・如是性・如是体・如是力・如是作・如是因・如是縁・如是果・如是報・如是本末究竟等なり。

諸法の実相とは、 「如是相・如是性・如是体・如是力・如是作・如是因・如是縁・如是果・如是報・如是本末究竟等」であると説かれますが、その真意は凡夫には分かりません。ただ、「唯仏と仏と乃み能く」ですから。仏様にしか分からないと、仰るわけですから。

さらに、如来寿量品には「如来智慧は三界のありさまをありのまま見る……三界に住む凡夫が三界を見るようなものではない」という文句があります。

如来如実知見。三界之相。無有生死。若退若出。亦無在世。及滅度者。非実。非虚。非如。非異。不如三界。見於三界。如斯之事。如来明見。無有錯謬。」

 如来如実に三界の相を知見す。生死の若しは退、若しは出あることなく、亦在世及び滅度の者なし。実に非ず、虚に非ず、如に非ず、異に非ず、三界の三界を見るが如くならず。斯の如きの事、如来明かに見て錯謬あることなし。

これは、昔から法華経は讃嘆文ばかりで、肝心の悟りが明かされていないと言われてきた所以であります。薬の効能書きだけで、肝心の薬が見当たらないとも言われます。

まさに、釈迦の法華経は何度も法華経をほめるだけの経典なのです。具体的に、どうやってお釈迦様が過去の世で成仏の果報を得ることが出来たのか、一切説かれていません。

日蓮正宗ではその方法が明かされています。

日蓮正宗では何を拝んでいるの? 」

「あの御本尊様って何?」

折伏をすると素朴な疑問に出くわします。

また、法華講の人でも、「どういう風に言ってあげればいいのか、わかりません」という、素直な気持ちを語ってくれる人もいます。

私が、法華講に入って間もないころ、先輩から教えてもらったのは、御観念文を学びなさいということでした。特に二座の御観念文が一番大事ですよと。

「南無本門寿量品の肝心・文底秘沈の大法・本地難思境地冥合・久遠元初・自受用報身如来の御当体・十界本有常住・事の一念三千・人法一箇・独一本門戒壇の大御本尊、御威光倍増御利益広大御報恩謝徳の御為に」

総本山第二十六世日寛上人は『当流行事抄』で

「当門所修の二行の中に、初めに助行とは、方便寿量の両品を読誦し、正行甚深の功徳を助顕す。譬えば灰汁の清水を助け、塩酢の米麺の味を助くるが如し。故に助行と言うなり。(乃至)次に正行とは、三世諸仏の出世の本懐・法華経二十八品の最要・本門寿量の肝心・文底秘沈の大法・本地難思の境智冥合・久遠元初の自受用身の当体・事の一念三千・無作本有の南無妙法蓮華経是れなり。荊渓尊者の謂えること有り「正助合行して因んで大益を得」云々。行者応に知るべし、受け難きを受け値い難きに値う、曇華にも超え浮木にも勝れり。一生空しく過ごさば万劫必ず悔いん、身命を惜しまずして須く信行を励むべし。「円頂方袍にして懶惰懈怠の者は是れ我が弟子に非ず、即ち外道の弟子なり」と云々。慎しむべし慎しむべし、勤めよや勤めよや」

と教えて下さっています。

詳しくは、 

nichirendaihonin.hatenablog.com

お読みくだされば、あらためて理解が深まると思います。 

大聖人様御自身のお悟りの法体の題目。今の私達に約して言うならば大聖人様が御図顕遊ばされましたその御本尊様の当体の題目。つまり御本尊様の中央に「南無妙法蓮華経 日蓮」とお認め遊ばされておるその御本尊様の題目を唱えているわけであります。従って天台や伝教のように、また、他の宗旨のように、『法華経』の経巻の題目を唱えているのではない。法華経』の経典、経文の題目を唱えているのではないということをよく心に置いて頂きたいのであります。私達の唱える題目は、三大秘法の整足したお題目。本門の本尊と本門の題目と本門の戒壇という、この三大秘法がきちっと整足したところのお題目を唱えておる。そこが二つめの理由。第一は、大聖人様御自身が悟られた久遠名字の妙法蓮華経の題目を唱えておる。二つめは、大聖人様が建立遊ばされるところの本門の本尊、本門の題目、本門の戒壇。この三大秘法が、きちっと整足したお題目を私達は唱えておるということ。

 そうして三つめは、これも御本尊に尽きるのでありますけれども、大聖人様の御自身の当体のお題目なのです。大聖人様御自身の南無妙法蓮華経仏としての人の本尊、そして大聖人様の顕されるところの法の本尊。人法一箇の上に顕された大聖人様の当体のお題目を私達は唱えておる。ですから、大聖人様と私達と、その信心を通して、題目の唱題を通して、勤行を通して、折伏を通して、大聖人様とその師弟一如の上におけるところの題目を唱えておるわけでざいます。例えば、他の宗旨の人が南無妙法蓮華経と、お釈迦さんの像に向かって唱えておる。あるいは、弥勒菩薩に向かって南無妙法蓮華経と唱える。文殊菩薩に向かって南無妙法蓮華経と唱える。、あるいは鬼子母神や大黒天に向かって南無妙法蓮華経と唱える等ということは、唱える対象の御本尊と唱える題目というものが一体となっていない。一致していない。つまり、中曽根総理大臣に「宮沢さん、宮沢さん」と唱えているようなもの。それで中曽根さんが言うことを聞いてくれますか?中曽根総理大臣に向かって「安倍さん、安倍さん」と百万遍唱えたって、中曽根さんは言うことを聞いてくれるはずもない。また、そんな失礼なことはない。ですから、法体と唱える題目というものが一致しなければ、信仰も何もあったものではない。御利益も功徳も何のはたらきもない。大聖人様御自身の顕された御本尊、大聖人様の十界、その御内証を顕された当体の御本尊に向かって、「南無妙法蓮華経」と唱えるから、大聖人様は私達の信心を嘉(よみ)せられて、その功徳を与えて下さる。大聖人様との間に、主師親の三徳の関係が生まれてくるわけであります。私達の唱える題目はどこまでも、大聖人様の当体の御本尊様のお題目であるということをよく心に置いていただきたいのであります。

一部、引用いたしましたが、私には御尊能化様のお話以上に、かみ砕いて説明する力はございません。

「御本仏様の御悟り=日蓮大聖人様御自身=自受用報身如来の御当体」という風に理解しております。

釈迦の法華経にも文の底に、大聖人様が取り出せるようにお題目が、秘し沈められているという文底秘沈の法門・法理があります。

法華経寿量品第十六に、

「諸善男子。我本行菩薩道。所成寿命。今猶未尽。復倍上数。」 

「諸の善男子、我本菩薩の道を行じて成ぜし所の寿命、今猶お未だ尽きず。復上の数に倍せり。」

ここに沈められているんですと、昔、日顕上人様の御講義で読んだ記憶があります。本因妙と呼ばれる、仏様が仏様に成る根本の修行のことです。

それが、日蓮正宗の三大秘法ということです。

どうか、初詣に神社・仏閣に行くのではなく、唯一無二の日蓮正宗寺院で御授戒を授かりましょう。 

日蓮正宗寺院一覧 - Wikipedia

 

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