当体義抄文段 十四 今本因・本果とは、即ち是れ種家の本因・本果なるのみ。釈尊既に爾(しか)なり、蓮祖も亦爾なり |
一 問う劫初より已来等文。
此の下は大段の第二、能証の人を明かす、亦三。初めに如来の自証化他を明かし、二には仏在世の証得の人を明かし、三には末法の証得の人を明かす。
初めの文、亦二。初めに本地の自証を明かし、次に「世世」の下は垂迹化他を明かす。
此の文は本地の自証を明かすなり。「五百塵点の当初」とは、即ち是れ本地なり。「釈尊」とは是れ能証の人、「妙法の当体蓮華」とは是れ所証の法なり。
問う、「五百塵点の当初」とは、正しく何れの時を指すや。
答う、諸門流の意は皆天台に准じて、本果第一番の時を指して五百塵点の当初と云うなり。是れ則ち不相伝の故なり。若し当流の意は、久遠元初の名字凡夫の御時を指して五百塵点の当初と云うなり。「当初」の両字に意を留めて案ずべし。
此の名字凡夫の御時、妙法当体の蓮華を証得したもうを本門寿量の当体の蓮華仏と名づくるなり。亦久遠元初の自受用身と名づけ、亦久遠名字の報身とも名づくるなり。所証の法をば久遠名字の妙法とも名づくるなり。
問う、証文は如何。
答う、是れ秘文なりと雖も、且く一文を引かん。
総勘文抄に云く「釈迦如来・五百塵点の当初・凡夫にて御坐せし時」等云云。
血脈抄に云く「久遠実成の名字の妙法を余行にわたさず」等云云。
三大秘法抄の「久遠実成の当初」等の文も、之に准じて知るべし云云。
問う、釈尊は久遠五百塵点劫の当初、何なる法を修行して妙法の当体蓮華を証得せしや。
答う、是れ種家の本因妙の修行に由るなり。前の文に云く「聖人此の法を師と為して修行覚道し給えば妙因・妙果・倶時に感得し給う」等云云。文に「聖人」とは、則ち是れ名字即の釈尊なり。故に位妙に当るなり。後を以て之を呼ぶ故に「聖人」と云うなり。此の名字凡夫の釈尊、一念三千の妙法蓮華を以て本尊と為す。故に「此の法を師と為す」と云う。則ち是れ境妙なり。「修行」等とは、修行に始終有り。始めは是れ信心、終わりは是れ唱題なり。信心は是れ智妙なり。唱題は是れ行妙なり。故に「修行」の両字は智・行の二妙に当るなり。是の境・智・行・位を合して本因妙と為す。是の本因妙の修行に依って、即座に本果に至る故に「妙因・妙果・倶時に感得し給う」と云うなり。則ち今の文に「妙法の当体蓮華を証得して」と云うは是れなり。今本因・本果とは、即ち是れ種家の本因・本果なるのみ。釈尊既に爾なり、蓮祖も亦爾なり云云。
一 世世番番に成道を唱え能証所証の本理を顕し給えり文。
此の下は垂迹化他、亦二。初めに中間、次に今日。此の一文は正しく中間を明かすなり。
問う、言う所の中間とは、第二番已後を指すや。
答う、諸門流の意は天台に准ずるが故に、実に所問の如し。若し当流の意は、本地既に久遠名字を指す。故に本果を以て仍中間に属ずるなり。
問う、若し爾らば、本果成道を以て垂迹化他に属するや。
答う、実に所問の如し。文一・二十一ウに云く「唯本地の四仏」等云云。籖の七に云く「久遠に亦四教有り」等云云。又云く「既に四教の浅深不同有り。故に知んぬ、不同なるは定めて迹に属す」云云。記の一に云く「化他定まらず、亦八教有り」等云云。
本果成道に既に四教の四仏有り。亦四教・八教有り。垂迹化他なること分明なり。並びに是れ内証の寿量品の意なり。文上の意には非ざるなり。又玄文の第七の三世料簡の初めに、久遠元初を本地自証と為し、本果已後を垂迹化他に属する明文之あり。台家の学者、此の義を知らず。異論紛紜たり云云。
問う、「能証所証の本理を顕す」とは、其の意如何。
答う、略する則は顕本の両字なり。当に知るべし、世々番々の説法の儀式は、今日に異ること無きなり。爾前に於て種々の草華を施し、迹門に至って開三顕一の蓮華を説き、本門に至って開近顕遠の蓮華を顕し、内証の寿量品に本地難思の境智の冥合、本有無作の当体の蓮華を顕す。故に「能証所証の本理を顕す」と云うなり。
能証は是れ智、所証は是れ境。則ち是れ本地難思の境智の冥合、本有無作の当体の蓮華なり。
当体義抄文段 十五 「常住」とは倶時(ぐじ)を顕す。故に因果倶時の当体蓮華なり。 |
一 今日亦・中天竺等文。
今日に亦四あり。初めに爾前には種々の草花を施設す。次に迹門には開三顕一、三に本門には開近顕遠、四に「問う、法華経は何れの品」の下に文底の本地難思の境智の冥合、本有無作の当体蓮華云云。
一 妙覚の極果の蓮華等文。
問う、今経の中に於て未だ妙覚の益を見ざるは如何。
「妙覚の極果」とは是れ文底の意なり。台家の口伝に云く「等覚一転、理即に入る」云云。当流の口伝に云く「等覚一転、名字妙覚」云云。是れ本化付嘱の内証の寿量品の眼を開いて在世の得益を見る時、皆名字妙覚の悟を得るなり。具には取要抄の愚記の如し。
此の下は、四に文底秘沈の本地難思の境智の冥合、本有無作の当体の蓮華を明かすなり。略して本地所証と云うべきなり。是の義、卒爾には顕れ難き故に諄々として重々に之を明かす。
此の文に亦二。初めに汎く説処を明かし、次に「問う当流」の下は正しく本地所証を明かす。
初めの汎く説処を明かすに、亦二。初めに双べて当体・譬喩の説処を示し、次に「問う若し爾らば」の下は、別して当体の説処を示す。
一 方便の一品は皆是当体蓮華を説けるなり等文。
「方便の一品」は皆是れ法説の開権顕実なり。故に「当体蓮華」と云う。譬喩品は三車・大車の開近顕実、化城喩品は化城宝処の開近顕実なり。故に「譬喩蓮華を説きしなり」と云うなり。方便品に云く「優曇華の如き、時に一たび現ずるのみ」。籖の七に云く「此れ蓮華に似る故に、以て譬と為す。是の故に正応に須く蓮華を用うべし」等云云。故に「方便品にも譬喩蓮華なきに非ざるなり」と云うなり。
譬喩品の合譬の文に云く「一仏乗に於いて、分別して三と説く」。化城喩品にも云く「涅槃の時到り、衆又清浄の仏慧に入らしむ」云云。故に「余品にも当体蓮華無きに非ざるなり」と云うなり。
一 問う、若し爾らば正しく当体蓮華を説きし文は何れぞや。
此の下は次に別して当説の説処を示す、亦二。初めに学者の所解を挙げ、次に「然りと雖も」の下は、今師の正義を示す。初めの学者の所解を明かす中に、初めは文証に拠り、次は現証に拠るなり。
一 天台妙楽今の文を引て今経の体を釈せし故なり文。
妙楽云く「実相は必ず諸法、諸法は必ず十如」等。天台云く「十如、十界、三千の諸法は、今経の正体なるのみ」云云。
一 宝塔品の三身是れ現証なり文。
塔中の二仏並座の蓮華及び分身の師子の座の蓮華、是れ現証なり。例せば、竜女の千葉の蓮華に坐する義の如し云云。今「三身」とは、是れ所表に従う故なり。余文には「三仏」と云うなり。
一 地涌の菩薩を現証と為す事は如蓮華在水と云う故なり。
今、所譬を取るなり。
一 世間相常住と文。
「世間」とは即十界なり。九界は是れ因、仏界は是れ果。「常住」とは倶時を顕す。故に因果倶時の当体蓮華なり。
一 然りと雖も等文。
此の下は次に今師の正義を示す、亦二。初めに正しく示し、次に「問う次上」の下は、別付の文の深旨を明かす。
初めの正しく示す、亦二。初めに迹の文を借りて本地所証を示し、次に能付の文に寄せて所属の法体を示す。
是れ、迹の文を借りて本地所証を示すなり。
問う、方便品の何れの文を指すや。
答う、「諸法実相」の文是れなり。
問う、若し爾らば当世の学者の所解と何の異ありや。
答う、指す所は同じと雖も、其の意は大いに異なるなり。謂く、彼は体外の迹を用い、此れは体内の迹を用う。彼は文義倶に用い、此れは文を借りて義を破するなり。謂く、迹の文を借りて本地の所証を示して、仍迹の義を破するなり。是れ体内の本に及ばざるが故なり。
此の下は次に能付の文に寄せて、所属の法体を示すなり。能付の文とは神力品の文なり。所属の法体とは寿量の妙法なり。三大秘法抄、太田抄、本尊抄等に云云。
当体義抄文段 十六 凡(およ)そ所属の法体は、三大秘法総在の本地難思の境智冥合、本有無作の当体蓮華なり |
一 問う次上に引く所の等文。
此の下は次に別付の文の深旨を明かす、亦三。初めに略して示し、次に「問う其の深意」の下は広く明かし、三に「故に末法今時に於て」の下は結歎。
一 結要の五字の当体を付属すと説きたまえる文なる故なり。
「結要の五字の当体」とは、即ち是れ所属の法体なり。「付属説文」の四字は、即ち是れ能付の文なり。下も去って之に准ず。
一 我が昔の所願の如き等文。
云う所の「普」とは、玄文第三の意は、一には寂滅道場、二には大通仏、三には本果、四には本行菩薩道なり。
若し当流の意は、是れ猶近し、久遠元初の御誓願なり。在世の脱益は一往の御願満足なり。後の五百歳の付嘱を説いて、真実の御願満足なり。
一 当体蓮華の誠証は此の文なり文。
所属の法体たる当体蓮華は財宝の如し、能付の是の文は譲状の如し。故に爾云うなり。
外十六に云く「寿量品に本因本果の蓮華の二字を説いて本化に付属す」等云云。
此の下は三に結歎。凡そ所属の法体は、三大秘法総在の本地難思の境智冥合、本有無作の当体蓮華なり。故に三箇の「真実」、二箇の「題目」、恐らくは意あらんか。
一 問う当流の法門の意は等文。
此の下は次に正しく文底の本地所証を明かす、亦二と為す。初めに正しく本有無作の当体蓮華の証文を明かし、次に「問う何を以て(乃至)知ることを得るや」の下は異文を会す。
此の文は、正しく当体蓮華の証文を明かすなり。
問う、何ぞ迹中所説の題目を引いて、本地所証の当体蓮華を証するや。
答う、天台云く「此の妙法蓮華経とは本地甚深の奧蔵なり」等。妙楽云く「迹中に説くと雖も、功を推するに在ること有り。故に本地と云う」云云。若し爾らば、本果所証を以て本地所証の当体の蓮華と名づくるや。
答う、本果に証すと雖も、「功を推するに在ること有り」の故に、久遠名字の所証を以て、本地所証の当体の蓮華と名づくるなり。
宗祖云く「妙法蓮華経の五字は経文に非ず、其の義に非ず、唯一部の意なるのみ」等云云。当に知るべし、今日迹中の題目は文の妙法蓮華なり。本果の所証は義の妙法蓮華なり。久遠名字の妙法は意の妙法蓮華なり。今、文の妙法蓮華を引いて意の妙法蓮華を証するなり。亦復当に知るべし、今日迹中の題名は久遠名字の妙法の朽木書なり。是の故に、引いて証文とするなり。
問う、既に「一部の意」と云う。豈本迹あらんや。
答う、今日迹中の妙法は是れ迹、本果所証の妙法は是れ本なり。本果所証は仍迹なり。久遠名字の所証は本なり。豈本迹勝劣分明に非ずや。
問う、本迹決疑上十六に云く「本迹二門の妙法蓮華経は但一偏なり。処々の御釈に『二十八品の肝心の妙法蓮華経』と判じ給うは是れなり。故に妙法蓮華経と云うは、即ち本迹一致の法体なり」云云。此の義は如何。
答う、此れは是れ名同義異を知らざる故なり。且く当抄所引の大強精進経の「衆生と如来と同共一法身にして清浄妙無比なるを妙法蓮華経と称す」等云云。日澄、若し此の文を見れば、応に権迹一致と云うべきのみ。彼等、尚迹中に迷えり。況や種脱の本迹に於てをや云云。
一 問う、何を以て品品の題目は当体蓮華なりと云う事を知ることを得るや文。
是の下は違文を会す、亦三。初めに合説の意を以て譬喩の辺を会し、次に「但当体・譬喩」の下は法譬体一を明かす云云。
一 但当体・譬喩等文。
此の下は合説の義を明かす、亦三。初めに標、次に「所謂法華論」の下は釈、三に「此等の論文」の下は結。
一 妙法蓮華とは二種の義有り文。
一義に云く、華開の義は、直ちに当体の義に約す。出水の義は、譬喩を兼ぬる故に合説の義と為すと云云。一義に云く、出水・華開の標文は譬喩を兼ぬ。自余の釈相は、当体に約する故に合説の意なりと云云。
意に云く諸の衆生、法華経に於て信を生ずること能わざるが故に、如来の清浄妙法身を開示したまう時諸の衆生、能く信心を生じて妙因を開発す。妙因開発は即ち当体蓮華の義なり云云。
一 此等の論文等文。
是の下は三に文を結するなり。法譬体一の下を見るべし。