日蓮正宗のススメ

広宣流布の時は日本一同に南無妙法蓮華経と唱へん事は大地を的とするなるべし、ともかくも法華経に名をたて身をまかせ給うべし

これが運命とあきらめてはいけない

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【仏法の鏡は過去の業因を現ず】
 
これが運命とあきらめてはいけない

【三世の生命】
 私達は一生の中において、自分自身の努力や智慧では解決できない出来事に遭遇することがあります。例えば台風や地震などの自然現象による災害であったり、自らには過失のない事故であったりと、直接、自身に原因や責任が認められないことがあります。
 あるいは難病にかかったりすることもあります。さらには性別、人種、貧富の差、容姿の違いなど自己を越えた様々な差別があります。  
こうした差別の起こる原因について、いろいろな考え方がありますが、仏教以外の教えではおよそ次の三つに大別されます。  
 第一は、神が人間の運命を支配するという見解。キリスト教などでは、苦の原因を原罪に求め、個々の当面する苦難はすべて神の試練であるなどとしています。  
 第二は、人間の運命は偶然によって決まるという見解。  
 第三は、人間の一生は宿命的に永遠の過去からすでに決められているという見解です。  
 これらは仏教から見ると、いずれも浅薄で偏った考えです。
 仏教では、現実的な因果の理法に立脚して、差別および人生の苦楽や幸・不幸はすべて自らの「業」によって決まると説きます。
 日蓮大聖人は『佐渡御書』に  
「我人を軽しめば環かえって我が身人に軽易きょういせられん。形状端厳ぎょうじょうたんごんをそしれば醜陋しゅうるの報いを得。人の衣服飲食をうばへば必ず餓鬼となる。持戒尊貴そんきを笑へば貧賤ひんせんの家に生ず。正法の家をそしれば邪見の家に生ず。善戒を笑へば国土の民となり王難に値ふ。是は常の因果の定める法なり。」(御書528)
 と仰せられ、現在の自己の境遇は、過去世につくった業因の厳しい結果であると仰せられています。

 日蓮正宗の信心とは、現実の自分に向き合いながら、過去世・現在世・未来世と三世にわたっての、我が身・我が命の改革を果たしていくことに尽きると思います。
 信じがたいかも知れませんが、どんな人も、何度も何度も生死を繰り返して、現在の自分に到っているのです。そして、自分や家族にも未来があります。
 そして、過去、現在、未来と三世の中で何時が一番大切かといえば、やはり「今」が私たちにとって一番大切なのです。
 昨日までの自分というものは、もはや、どうすることも出来ません。しかしながら、今日から明日に向かっての未来は、自分の一念でいかようにも変えていけます。
 みなさんも、せっかくこの信心をしているわけですから、御本尊様を根本にして一日一日を大事に生きて欲しいのです。

 

【仏様の功徳は平等】
 皆さんの中には信心しているといっても、なかなか自分としては功徳が実感できない。信心の歓びや歓喜が湧いてこないと嘆いている人がいるかも知れません。
 しかし、大聖人様の功徳と、慈悲は総て平等に注がれています。
それでは功徳の違いは何かと言えば、いつも申しあげるように、それは自分の持って生れた境涯・宿業・信心の実践の違いによって生じるのです。
 原因は、全て自分の側にあるのだということを知って頂きたいと思います。

 

【仏法の鏡】
 大聖人様は『開目抄』に、
「仏法の鏡は過去の業因を現ず。」(御書572頁)
ということを教えておられます。
 世の中には、占いとか霊媒れいばいとか怪しい人達がたくさんいます。自分に特殊な能力があるように見せかけ、「あなたの過去世はナポレオンです」などと平気で言い切ります。
 また、「死んだおじいちゃんの霊があなたに憑いている」などと脅す場合もあります。
 しかし人の過去世というものは、私達の凡眼・凡智をもって知ることはできません。また未来のことも、我々凡夫は深くまた広く予証をするということも、過去・現在・未来を通達された仏様以外には不可能です。

 しかしながら、この仏法の鏡、大聖人様の教えを通して、我々の過去や未来を判ずるならば、自ずと現在の境涯を照らして、ある程度の過去の業因が写し出されて分かるのだと、大聖人様は説かれているのです。

 仏法の鏡は過去の業因を現世の我が身に写し出しているのです。過去の原因が今日の結果となり、今日の自分の振る舞いが原因となり未来の結果を招来する。過去・現在・未来は厳然としてつながっているのです。

 「過去の因を知らんと欲せば其の現在の果を見よ。未来の果を知らんと欲せば其の現在の因を見よ」(御書571頁)
という、大聖人様が『開目抄』に引かれる有名な経文の一節があります。

 

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【八つの難】
 そこで大聖人様は、更に『般泥垣経はつないおんきょう』というお経文を引かれて、例えば今世において自分が受ける八つの姿、大難というものは、親が悪い、社会が悪い、だれが悪いということではなく、自分の宿業なのだということを、我が身に照らして受け止めるように説かれているのです。

 その八つの姿というのは何かと申しますと、

①「軽易きょうい」
 周囲の人から軽蔑される、馬鹿にされる、嘲られる事を指します。
 自分自身は一生懸命やっているのに、人の信用を得ることができない。普通に振る舞っているつもりなのに、人から顰蹙ひんしゅくを買う。
 もし、そういう立場に自分が置かれているとするならば、それは、だれが悪いのでもない。自分の宿業だということをよく知らなければいけません。

②「形状醜陋ぎょうじょうしゅうる」
 自分の生まれつきの姿形が、人よりも劣っている。あるいは欠陥の多い人間として生まれてくる。
 たまに、「自分は、この世に生まれてくることを望んだわけではないのに、こんな自分に生んだ」と言って、親に突っかかる子供があります。
 そういうことも結局、それは親が悪いのではなくて、やっぱりその子の持っている過去の宿業というものが今世に出てきているのです。
 決して親を恨んではいけない。恨むなら自分の過去世の謗法ということに気付かなければならないということを、この『般泥垣経』に説かれているのであります。

③「衣服えふく足らず」
 着る物に不自由をする。あるいはまた恵まれない姿です。

④「飲食麁疎おんじきそそ」)
 食べ物に不自由する。恵まれない。あるいは一生懸命食べても身に付かない。またむしろ食べることによって更に病気を増してしまうという姿です。

⑤「財を求めるに利あらず」
 ちゃんと働いているのに、生活に困る。損ばかりしている。福徳がない人は、一生懸命やるのだけれども、常に壁にぶつかってしまいます。そういうことも過去の業因によるのです。

⑥「貧賎の家・邪見の家に生まれる」
 貧しい、虐しいたげられた家に生まれる。あるいはまた邪よこしまな争いの絶えない、そういう不幸な家庭に生まれるということも、過去の業因によるとされます。

⑦「王難に遭う」
 国家権力によって迫害を受けること。

⑧「余の人間の苦報あらん」
 そのほかの不慮ふりょの災いに遭う。また苦しみとか悩みが常に家族に付きまとって離れることがない状態。心安らかに生きられない一生を送ることを指します。

 これらは、社会やだれが悪いのでもないのです。だれを恨むこともできません。結局、その人の過去世の長い間の宿業が積み重なって、そういう境涯に生まれる自分なのだということを深く心に置かなければなりません

 

【宿業の転換】
 しかし、これら八つの姿は「生まれてくる前から決まっている運命だから」と諦あきらめる必要は全くありません。
 そして、ここで気がつかなければならないのは、こうした過去世の一切の罪障ざいしょうを、今世において、何をもってそれを脱却するかというと、結局、それは正法正師の正義以外には無いのです。
 邪宗の僧侶や神主に拝んでもらったり、祈祷をしてもらったり、あるいは御守りやお札をもらうことによって解決するのではありません。
 やはり一閻浮提いちえんぶだい第一の大聖人様の正法を持って、命の底から、お題目を唱えきって、日々の信心修行を通して、自分自身の命を改革する以外に、宿業の全てを打ち払う術はないのです。
 どんなに世界中の名医や思想家や哲学者や宗教家を尋ね歩いても解決は出来ません。
 日蓮正宗の教えを実践していけば、過去世の一切の罪障を、今世において必ず脱却していけるのです。
 日蓮大聖人の教えは宿命論・運命論的な諦めの教えではなく、大聖人御自身が身をもって教え下さった宿業転換の信心なのです。
佐渡御書』に 
「我今度の御勘気は世間の失一分もなし。偏に先業の重罪を今生に消して、後生の三悪道を脱れんずるなるべし」(御書580) 
 と、示同凡夫のお立場から、御自身は佐渡流罪の法難を受けられたことによって、重罪の宿業を消滅され、さらに未来を開かれたと御教示されています。 
 さらに、なぜ宿業転換がなされたのかについて、同抄に 
日蓮つよく法華経の敵を責むるによて一時に聚まり起こせるなり」(御書582)       
と、また同じく 
「人間の苦報現世に軽く受くるは斯れ護法の功徳力に由る故なり」(御書582)        
と御教示されています。
 つまり、私達末法の凡夫は過去世に正法に背く謗法を重ねて悪業を積んでいるのですから、その正法を受持し、そして正法を広めていくことが一番の宿業転換になるのです。

 例えば、宿業によって精神的にも肉体的に苦痛をともなう病気にかかった時、 貪瞋痴とんじんちの三毒をもつ末法衆生は迷いの世界から出られず、他者にその原因を求めようとします。   
 しかし、このような病気を患ったとしても、唯一の正法たる日蓮大聖人の仏法を信じ、南無妙法蓮華経と唱えれば不可思議の功徳が生じ、 
第一に、自己の内面を見つめ宿業を認識することができます。  
第二に、御本尊への信と真剣な唱題によって、必ず宿業は転換できるとの大確信が生まれ、人生を生き抜こうとの生命力が涌いてきます。 
第三に、未来にもっと地獄の苦しみを受けるところを現在に軽く受けているとの確信と、一生成仏するのであるとの希望が涌いてきます。 
第四に、自己の宿業を単に自己の問題として捉えるに止まらず、他の救済のためにあえてこの宿命を自分は引き受けたのであるという、大聖人様が『開目抄』で説かれる「願兼於業」の考えにまで至ります。すると、人の痛みや苦しみの分かる大慈悲の人となって、折伏にまい進出来るようになります。

 

 【仏法の鏡は過去の業因を現ず】


【終わりに】
 例え皆さんが、今の生活や境涯が、どういうものであったとしても、大聖人様の仏法がある限り、決して我が身を卑下する必要はありません。そういう過去の業因に泣くことはありません。なぜなら、六根清浄なる命へと改革し、一切を解決することができるからです。
 さらに、皆さんが日々実践される修行の功徳は無量であり、自分の両親をはじめ何代先の父母であろうと、一切の父母達を今日の自分の信心によって救い切っていけるということを、深く確信していただきたいと思います。

 平成三十一年三月度 御報恩御講拝読御書

妙一尼(みょういちあま)御前御消息建治元年五月 五十四歳
 
 法華経を信ずる人は冬のごとし、冬は必ず春となる。いまだ昔よりき(聞)かずみ(見)ず、冬の秋とかへれる事を。いまだきかず、法華経を信ずる人の凡(ぼん)夫(ぶ)となる事を。経文には「若有(にゃくう)聞法者(もんぽうしゃ)無(む)一(いち)不成仏(ふじょうぶつ)」ととかれて候。

     (御書八三二㌻一二行目~一四行目)

       住 職 小橋 道芳

 

一念三千法門

一念三千法門