日蓮正宗のススメ

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1187夜:自由自在の境界になりたかったら、ストイックな信仰者になろう

 プロ野球北海道日本ハムファイターズに新監督に就任した新庄剛志氏は、監督就任以降、自分自身のことを「ビッグボス」と言ってみたり、選手達にユーモア溢れる数々の言葉をかけており、良い意味で世間の注目を集め、反響を呼んでおります。その言葉一つ一つには、プロ野球選手として一時代を築き、活躍の場をアメリカのメジャーリーグに移しても、ここぞと言う時に活躍した選手として、非常に意味深く基本に則った言葉であるそうです。

引用元:自由自在の境界になりたかったら、ストイックな信仰者になろう | 日蓮正宗 妙眞寺若葉会ホームページ

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新庄監督のボディはストイックの賜物

 とくに最近、新庄氏の「自由人になりたかったら、日々ストイックになれ」という言葉が気になり、今まで「ストイック」という言葉はよく耳にしたものの、あまりよくその意味をしらなかったものですから、今回インターネットでその言葉の意味を調べたところ、Webilio辞書には、「ストイックとは、自身を厳しく律し、禁欲的に己を持する、という意味のこと。わかりやすくいうと、さまざまな欲求に左右されず、自分で定めた基準を厳守して行動する、という意味である」とあります。

 私たちの信心姿勢において、こうした様々な分野で活躍され、世間で大きな注目を浴びるような方々について、尊敬すべきところは大いに尊敬し、この信仰に役立つようなことがあれば積極的に取り入れ、役立てるよう心掛けて行くことも大事なことであります。しかし、ただ一つ残念なことは、生者必滅、浮き世の理(ことわり)において、いかに世間で注目を集めるような立派な方でも、それが成仏得道に通じていかないことであります。

 つまりお釈迦様在世の時代、舎利弗・目連等の声聞・縁覚の二乗が自己の解脱開悟(げだつかいご)を得ることのみに執着して、他人を教化する化他の念にかけるため、お釈迦様より成仏を許されてこなかったものの、やがて法華経のお説法を聴聞して法華経を信受することによって、慈悲の一念溢れるお釈迦様真実本懐の教えと御意を悟ることによって、初めて成仏を許されたのであります。

 以上のように、いかに世間で脚光を浴びたるような地位や名声、そして大きな財産を築いたとしても、それがいざ臨終を迎えた時に何の用にもならず、ただ偏に成仏得道の正法の信行実践による功徳利益のみが、唯一無二の即身成仏の境界を得る行業であるという仏教の厳しさを物語っております。

 もちろん、スポーツ界での地位や名声を得た方、現役で活躍している選手や、芸能界をはじめ各種業界において活躍される方々のなかにも、日蓮正宗の御信徒である方も少なからずおられ、たまに総本山で見かけたという方もいると思います。そうした方々には、是非とも不可思議偉大なる自行化他に亘る信心の力をもって、更なる御活躍を願うところであります。

 さて、私たちは三毒煩悩を具えつつ、その用きが盛んになることによって三悪道に堕さないよう、煩悩即菩提の行業をもって信心に励んでいると思います。特に、貪・瞋・痴の三毒は、大聖人様が『観心本尊抄』に「瞋るは地獄、貧るは餓鬼、癡かは畜生」と御教示のように、むやみに怒り、瞋りの炎を燃やしたり、自分の欲するものに執着して貪る心が強くなったり、人として倫理道徳より外れた心を起こし、その心が所作振る舞い、発言行動に表れるようであると、正に三悪道に境界に転落してしまい、せっかく仏道を行じていても、功徳利益を積むどころか逆に悪業罪障を積むことになってしまいます。ましてや、世間の大半の方々はこの道理を知らずに、自ら不幸を招くような日常生活を送っていると言っても過言ではありません。

 ですから、お釈迦様が二乗の成仏を許さなかったように、慈悲の心溢れ、菩提心をもってあらゆる人々を教化する、折伏していくことがいかに大事なことであるか、自ずと折伏成就できるような境界になることが私たちが欲する境界の極みであり、ただ自らの幸福、所願成就、成仏ばかりを願う自行に執した信心修行は、大聖人様の信心とは到底言えないのであります。

 更に私たちの正しい信行の実践を阻む要因として、五欲が挙げられます。五欲とは、①色欲②声欲③香欲④味欲⑤触欲の五つであり、いわゆる身体の感覚器官である眼・耳・鼻・舌・身の五根によって、その対境となる色・声・香・味・触の五境を貪り、享楽を得ようとして起こす五つの欲望をいいます。

 ①色欲とは、眼根によって色彩や形状、異性の姿形等に執着する欲望。②声欲とは、耳根によって音声などを求める欲望。③香欲とは、鼻根によって芳香を求める欲望。④味欲とは、舌根によって飲食、美味を求める欲望。⑤身欲とは、身根によって、人や物に触れたいとする欲望を意味します。その他、「財欲」、「名誉欲」、「睡眠欲」なども仏教に説かれており、こうした五根によってあらゆるものを欲し、満たす欲望に執着することは、正に「五欲に著(じゃく)す」ことになり、五欲に著せば「悪道の境界に堕ちる」ことになります。

 何も、五欲を起こすこと自体は、私たちの煩悩より欲することでありますから、決して全てが悪いのではなく、要するに、我を忘れてこうした五欲に執着して人倫の道を踏み外したり、正法における功徳利益を求める志、仏さまへの供養の志、先祖供養の志、破邪顕正折伏の志等、信心の心が疎かになることが非常に恐いのであります。

 当然、私たちの一生で全く欲望を起こさないことは不可能でありますし、あくまでも私たちが欲するべきは、法華経如来寿量品第十六の自我偈の経文にあります、「一心欲見仏 不自惜身命(一心に仏を見たてまつらんと欲して自らの身命を惜しまず)」の精神をもって、自行化他に亘る強盛なる信心の日々を送るなかで、「少欲知足」という意識のもと、世間の様々な遊楽に少々興じつつ、世俗のなかからも色々と学ぶべき事も見えてくると思いますので、決して否定は致しません。要は、日ごろから行ずるべきことを行い、しかるべき境界に成りえれば、自我に執着することなく五欲に著することなく、本来私たちが歩むべき道を、御本尊様から指し示して頂くことができると思います。

 正に大聖人様が「たまたま人間に来たる時は、名聞名利の風はげしく、仏道修行の灯は消えやすし。無益の事には財宝をつくすにおしからず。仏法僧にすこしの供養をなすには是をものうく思ふ事、これたゞごとにあらず、地獄の使ひのきをふものなり。寸善尺魔と申すは是なり」、また「皆人の此の経を信じ始むる時は信心有る様に見え候が、中程は信心もよはく、僧をも恭敬せず、供養をもなさず、自慢して悪見をなす。これ恐るべし、恐るべし」との御教示を固く肝に銘じて頂くことが肝要であります。

 ですから、決して五欲に著して三悪道に堕ちないよう、大聖人様の御教示を拝して、重々己の日常生活を日々省みることが肝要であります。それこそ、冒頭に挙げました「ストイック」な信仰姿勢、すなわち「様々な欲求に左右されず、我見に堕した信仰姿勢に気を付け、御本尊さまから功徳利益を頂けるように、あらゆることへの執着を破し、自分自身でしっかりと日常生活における基準を定めて厳守し、信行の実践に励むこと」が鍵となります。

 特に世間の遊楽を興じることにはそれなりに金銭を使用することになります。ですから、まずは御本尊様への御供養や先祖供養等、やるべきことをやった上で、特に未成年のお子様を持たれる親御様にとっては、色々と悩ましいところもあるかと存じますが、あくまでも私たちは自分自身を厳しく律して一家和楽異体同心して信仰に励むことこそ、そこに自由自在な境界、何事にも恐れや堕落に陥ることなく、御本尊様からの御仏智を以てあらゆる物事を達観して、分別することが出来うる境界になることが肝要であります。

 また、大聖人様は「然るに在家の御身は、但余念なく南無妙法蓮華経と御唱へありて、僧をも供養し給ふが肝心にて候なり。それも経文の如くならば随力演説も有るべきか。世の中ものうからん時も今生の苦さへかなしし。況してや来世の苦をやと思し食しても南無妙法蓮華経と唱へ、悦ばしからん時も今生の悦びは夢の中の夢、霊山浄土の悦びこそ実の悦ひなれと思し食し合はせて又南無妙法蓮華経と唱へ、退転なく修行して最後臨終の時を待って御覧ぜよ」という御教示の境界を目指して精進することに意味があります。

 つまり、御本尊様からの功徳利益に浴し、有意義且つ歓喜あふれ、法悦にひたる生活をお送り頂き、長いようで短い人生において、己の罪障消滅宿業打開に努め、様々な諸難困難を乗り越えつつ、最期臨終を迎えた時、仏さまより霊山浄土へと誘(いざな)って頂けるような崇高な境界を求めて、日々信行の実践に励んで頂きたいと願って止みません。どうか、皆様には謙虚、正直にして、正法正義の道を踏み違えること無きよう、「ストイックな信仰を心掛け、自由自在な境界になれるよう」に、更なる信行増進と、広布大願に向かって慈悲の一念を持って、末法唯一無二の正法正義を受持信行している誇りと責務を抱き、御精進の誠を尽くして頂きたく存じます。

ちなみに、法華講員、落合博満さんの御意見はコチラ↓

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妙真寺までの交通案内
東京都目黒区緑が丘1丁目20-4

東急東横線/大井町線「自由が丘」駅より徒歩10分ほど
東急大井町線「緑ヶ丘」駅より徒歩7分ほど

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