日蓮正宗のススメ

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1196夜:日有上人・化儀鈔[日達上人略解]⑤

富士山五合目までの静岡県道3ルート、順次冬季封鎖へ - 富士山経済新聞日有上人・化儀鈔[日達上人略解]⑤

【081】
一、霊供を備うるには、仏供二つ、日蓮聖人より代々の御霊供を備えて今日の亡者の霊供に備うるなり、皆大儀なれば日蓮聖人の御台計り備え申して、余の代々をば御さんば計り備え申して、さて其の日の亡者の霊供を備うべし代々上人の御台をしたてぬは略義なり云云、又亡者俗人なんどならば其の霊供をば少し下く備うべし云云。

仏供とは御本尊に備えるもので、ここでは黄銅器(常には金茶碗と呼ぶ)で御飯を備える。その黄銅器を二個供える故に仏供二つと云う。大儀とはここで骨折りとか煩雑の義。さんばとは、一つの金碗に御飯とお菜を一所に入れること。
大聖人並びに二祖三祖と御講の時、その他歴代の御命日や信徒の法要等にて御霊膳を献ずる時には、まず御本尊様に仏供を備え左に宗祖大聖人右に二祖日興上人、その次に日目上人の御霊膳を備え、続いて歴代の御霊膳を備え、そして回向すべき亡者の霊膳を備えるのでありますが、余り煩雑になりますから、大聖人よリ三祖までの御霊膳を備え、あとの歴代は散飯ばかり備え申し、そして当の亡者の霊膳を備えてよろしいのです。歴代の御霊膳を備えないのは略義であります。
(注、信徒の家においては、仏供と大聖人の御霊膳と当の亡者の霊膳だけでよろしい)また、亡者が俗人の場合ならば、その霊膳は一段下げて備うべきであります。

【082】
一、茶湯有るべからず、唐土の法なるが故に霊供の時も後に酒を供すべし云云、此の世界の風俗は酒を以て志を顕わす故に仏法の志をも酒を以て顕わすべしと云う意なり云云。

茶湯とは抹茶煎茶のこと。この世界とは、ここでは日本のこと。仏様に抹茶や煎茶を供えてはいけません。中国の儀式でありますから。
(注、禅宗に於ては中国式そのままであるからお茶を仏前に供える)たとえば、御霊膳を備えた時も、御飯のお給仕の後に酒を献ずるのであります。日本の風俗習慣として、酒を出して喜怒哀楽の志を顕わしますので、我が宗に於ても、供養の志を以て顕わすのです。

【083】
一、俗の亡者乃至出家たりとも余の常の出家の霊供の飯をば出家に与ふべからず、俗の亡者は位い出家に劣なるが故なり、高祖已来代々の御霊供を給わらん事は子細に能わず云云。

余の常の出家とは世の普通の僧との義。普通信徒の亡者の霊膳に使用した御飯或は余の普通の僧の亡者の霊膳に使用した御飯を僧に食べさせてはいけません。信徒の亡者は僧の位よりも下ですから、しかし、大聖人より歴代の法主上人の御霊膳に使用したものは僧に食べさして差支えありません。

【084】
一、門徒の僧俗の謗法を見隠し、聞き隠すべからず、与同罪遁れ難き故なり内々教訓して用いずんぱ師範に披露をすべきなり云云。

本条は第五十七条と全く同義である。宗内の僧や信徒の内で同輩の謗法を見ながら、これを隠したり、また人から聞いても、これを隠しておくことは与同罪となるでありますから。そういう場合は本人に内々誠告し、もし聞き入れなければ本人の師匠に申し告げるべきであります。

【085】
一、親類縁者一向に一人も無き他宗他門の僧俗近所に於て自然と死去の事有らば念比に訪ろうべし、死去の後は謗法の執情有るべからざる故なり、若し一人も縁者有って見次がば自ら其の所に謗法の執情を次ぐ故に然るべからず云云。

念比とは懇の意。見次ぐとは亡き後を継ぐこと。親類も縁者もない独り者で、それが他宗で僧俗に関わらず近所に住んでおって、自然に(老衰などで)死亡したならばこちらから行って懇ろに弔い回向してやりなさい。死人には後に謗法の執情が残らないからであります。
しかし、もし一人でも縁者があって死人の後を継くならば、その縁者の謗法がありますから、行って回向してはいけません。

【086】
一、他宗他門等の人死せば知人ならば訪ふべし、但し他宗他門の本尊神座に向って題目を唱へ経を読まず、死去の亡者に向って之を読むべし、惣じて法界の衆生の死去の由を、聞き受けて之れを訪ろうべし云云。

他宗の人が死亡した時、もしその人が知人であるならば弔うべきであります。但し他宗謗法の本尊や位牌に向って、読経唱題してはいけません、直接に死んだ人に向って読経唱題するのであります。惣じて世の中の人々が死んだと聞いたならぱ一往は弔うべきであるとの慈悲の心構えは持つべきであります。

【087】
一、継い禅、念仏の寺、道場の内なりとも法華宗の檀那施主等が之れ有らば仏事を受くべきなり云云。

本宗の信徒が他宗の寺を借りて、葬儀、法要を行うことがあれば、行って葬儀や法要を執行すべきであります。ただしその場合は本宗の本尊を掛けて行うのであります。

【088】
一、縦い昨日まで法華宗の家なりとも孝子施主が無くんば仏事を受くべからず、但取骨までは訪ろうぺし云云。

孝子とは法統相続する子供をいう。取骨とは、火葬して骨上げのこと。本宗の信徒が死亡して、その後継ぎ、法統を相続する子供がなく、後の人が謗法なれば、葬儀をなし骨上げまでは本宗でしてその後は法要の依頼に応じてはいけません。後の人に謗法の執情があるから。

【089】
一、法華宗の法師は他宗他門の人に交わる時は我が人体の分程と振舞ふべし、解怠すべからず、又卑劣すべからず、俗姓程になるべし、我が法華宗の中にては貴賎上下を云わず仏法の信者なるが故に卑劣すべからず云云。但し檀那に依り不肖の身たりと雖も上座に居する事有り云云。

懈怠は失礼の義、俗姓程なりとは出生の身分の程に行うの意。本宗の僧が何かの理由で、他宗の人と交際する時は、自分の身分相応に振舞うべきで、余り失礼になってもいけないし、また卑屈になってもいけません。
身分相応とは出生の身分の程に従えば良いのです。しかし、本宗内においては、同じく正宗の信者でありますから、貴賎上下を論じないので身分が低い出生でも、決して卑屈になってはいけません。そして下賎の出生であっても信徒の上座にいる場合もあります。
(注、日興上人の遺戒置文に「若輩たりといえども高位の檀那より末座に置くべからざる事」とあり、時代によって幾分緩和しておるものであります)

【090】
一、本寺に於て小師を持ちたる僧をば小師に届けて仏の使なんどにも、檀方へも遣わし其の外の行体をも仰せ付けらるるなり云云。

末寺の弟子が本山に在勤した場合、本山では、その師匠の方に届けて置いて、本山の公の使いとして檀方へ遣わしたり、その他、修行のための諸役にも任命されます。

【091】
一、本寺へ登山の諸国門徒僧衆は三日の間は仏の客人たる間賞翫之れ有り云云。

賞翫とはここでは大切にもてなすこと。本山へ登山参拝の地方の信徒、並びに僧たちは、三日問は大聖人へお詣りの客として大切にもてなしなさい。
(注、今日では僧が本山の大坊へ在勤の時に限り、この習慣があるが、一般の参拝には、交通の便利になった現在は行われない。もっとも大正四、五年ごろまで、この習慣があった)

【092】
一、釈迦の末法なる故に在世正像の摂受の行は爾るべからず、一向折伏の行なるべし、世、嶮なるが故なり云云。仍て刀杖を帯するなり、之れを難ずべからず云云。

現在は釈尊仏法の末法でありますから釈尊在世や滅後の正法像法時代の法華経の摂受の行ではだめで、ただ一途に法華折伏の行でなければなりません。すなわち世の中は末世濁悪、謗法深重の時代であるからであります。剣を身に持っても差支えありません。
(注、日有上人の時代は足利時代で戦乱絶えず、身命の危険があったからで現在は刀剣等は持つことは出来ませんが、本山での大儀式における法主上人の出仕の列には太刀を太刀持ちに持たす慣例として遺っている)

【093】
一、法華宗折伏修行の時なる故に、断酒、定斎、夏に入るなんどといい、又断食なんどと、云う事有るべからず云云。

定斎とは、日を定めて戒律を堅く守り精進すること、本宗においては現在は折伏修行の時でありますから、禁酒とか、精進日とか、安居に入って学問の期間だとか、断食するとかの消極的摂受の行ではだめで、どこまでも身体を健康に保って積極的折伏の行でなくてはなりません。

【094】
一、法華宗は大乗の宗にて信心無二なる時は即身成仏なるが故に戒の持破をも云わず、又有智無智をも云わず、信志無二なる時は即身成仏なり、只し出家の本意なるが故に何にも持戒清浄ならん事は然るべし、但し破戒無智にして己上すべからず云云。

己上すべからずとは、階級の上の位置にあってはいけないの意。本宗は大乗の宗旨であって宗祖所顕の御本尊に向って南無妙法蓮華経と余念なく信心して即身成仏するのでありますから、別に戒律を持っているとか持っておらないとか、或は智慧のあるとか無いとかは論じません。
身口意三業に南無妙法蓮華経と信ずる所に即身成仏があるのであります。但し出家修行の僧としては持戒清浄であることが本意でありますから、できるだけそうありたいものです。もし、破戒無智の身であるならば、上位に在ることは遠慮すべきであります。
(注、涅槃経に「戒に緩なるを緩となさず、乗に緩なるを緩となす」とあるが如く戒の持破は論ぜず、ただ信力によって成仏するのであります)

【095】
一、法華宗は他宗の仏事作善をば合力せざるが功徳なり、其の故はかたきの太刀、刀をばとぎて出すべきか、敵のようがいをこしらえて無用なるが如し、仍て他宗の仏事の合力を為すべからず云云。但し、公事なんどの義は別の子細なり云云。

合力とは援助のこと。公事とは、政府が公に営む仕事に対しての割当のこと。本宗は他宗の法要には援助しない方が功徳があるのであります。なぜならば、敵に対して敵の刀を研いで渡すことはいらないし、敵軍の要害を作ってやる事などはすべきでありません。それ故、他宗の法要の援助をすべきではありません。ただし、公の仕事に対しての割当には応じなけれぱなリません。

【096】
一、他宗の親兄弟の中に病災等に付いて祈祷を成すべき子細あらば我が信ずる正法の法華宗の出家を以って、我が所にて祈祷せば尤も仰せに随うべし、既に兄弟が正法の檀那なるが故に彼の仰せに子細なしと云云。

本宗の信徒が、自分の親や兄弟が他宗であって病気や災難にかかリ祈祷してもらうことになって、自分の信ずる正法の本宗の僧を自分の家に招待して祈祷して頂きたいと申し出たならば、その望みに応じなさい。もともとその人は本宗の信徒でありますから、その人の申し出に応じて差支えがないのであります。

【097】
一、他宗の親、師匠の仏事を其の子、其の弟子、信者にて成さば子細有るべからず。

親や師匠が他宗であっても、その子やその弟子が本宗の信徒であるならば追善法要をなしてやって差支えないのであります。

【098】
一、末寺の事は我が建立なるが故に付弟を我と定めて此の由を本寺へ披露せらるる計りなり云云。

末寺の内で、自分が建立した寺は、後住は自分で定めて、本山へ届け出れば、それでよろしいのであります。

【099】
一、日興上人の時、八幡の社壇を重須に建立あり、内には本尊を懸けらる。是れは本門寺の朽木書と云々、今の義にあらず、天下一同に法華経信仰の時は当宗の鎮守は八幡にて在すべし云云、大隅八幡宮の石の文に昔は霊山に在りて法華経を説き、今は王宮の中に有りて大菩薩と現すと八幡の御自筆有り、釈迦仏の垂迹にて在すが故なり云云、所詮朽木書きとは手本と云う意なり。

朽木書きとは絵画の下書のこと、手本の意。二祖日興上人の時に重須(北山)に八幡の社(垂迹堂、今はなし)を建て、その中に本尊を懸けられたのであります。これは将来本門寺を建立した時の手本という意で現在の意義をもっているのではありません。広宣流布の暁には当家の守護神は八幡であると云う意であります。
(第七十六条の意を一層明確にせられている)大隅国の八幡の石文に、「昔は霊山に在りて法華経を説き今は王宮の中に有て大菩薩と現ず」と八幡の御自筆があります。(注、宗祖の時代にはあったと御書に在り)そのわけは、八幡は釈迦仏の垂迹でありますからつまる所、朽木書きとは手本と云う意であります。
(注、本門寺とは将来広宣流布した時に、本門寺と命名するのであって現在の北山の本門寺は、その意味の寺名でなく日興上滅後になって公称したにすぎないのであります)

【100】
一、他宗の仏事善根の座へ法華宗の出家、世事の所用にて行く時、彼の仏事の時点心を備うには食すべきなり、既に請せず。又ロサイにも行かざる故に態とも用意して翫なすべき客人なれば備うるなり、又受くるも世事なり、されば同座なれども経をも読まず布施をも引かざるなり、又法華宗の仏事作善の所へも禅宗念仏宗の出家の請せず、又ロサイの義もなくして、世事の用にて風渡、来らるるには、有りあえたる時、点心を備うるなり、是れ又謗法の人を供養するにはならざるなり、世間の仁義なり云云。

点心とは茶菓子、餅を供応すること、時には簡単なる辨当等を供するともいう。
ロサイは六斎念仏のなまった語らしく考えられます。ここでは法要の逮夜の念仏講あるいは題目講の意であります。他宗の人が、その家で法事を行なっている時、当宗の僧(信徒でも)が、それとは知らずに用事があって行った時、法事だからといってお茶や菓子等を出した場合には、特別に招待されたのでもなくまた念仏講などにも出席したわけでもないので、普通世間の客人として、茶菓子等を用意して、もてなすべき客人でありますから、それを出すので、食べてよいのです。
食べることは世間態のことであります。それ故、もし、その席に他宗の僧がおっても一緒にお経を読むわけでもなくまた、お布施を受けるわけでもありません。同様に、当家の人の法事の席へ禅宗念仏宗等の僧が招待したわけでもなく、また題目講に出るためでもなく普通世間の用事で、ひょっと来たならば、有り合わせの茶菓子等を出すべきであります。このことは人を供養したことにはなりません。世間的の交際にすぎないのであります。