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1090夜:教学試験はあった方がいい?必要ない?

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創価・顕正の時には受験しましたが・・・

sokadamedasi.blog27.fc2.com

創価ダメ出しさんの記事を読んで、また、城内啓一郎さんの記事も思い出して、教学試験ってそういや法華講にはないなぁと。。。

ameblo.jp

私の教学との出会いは、創価学会員時代の3級試験でした。
確か高校1年生のとき。
創価はぎりぎり破門前。
男子部の教学マニアの先輩が、喰いつく様にのめり込む私に、時間を超えて真剣に教導してくれました。かれこれ30年以上も昔のこと。
大学に進学した年に2級に合格。
もう、この時は1991年の夏でしたので、池田の反逆が表立ち、周囲は騒然となっていました。
翌年に、長年、国立戒壇放棄に疑念を抱き続けていた父の勧めで、顕正会に入会しそこでは3級まで試験をうけました。
しかし、創宗戦争に乗じた強勢拡大にのめり込む浅井センセーは、教学試験の休止を発表。
以後、2010年に宗門へ帰るまでは、教学の勉強はお留守の状態に。
法華講でも昔は教学試験があったようで、同じ支部のおばさんに「うちのお父さんは教学試験上級受かってるのよ」なんて、変なマウンティングをしかけられたことがありましたね。
(;´д`)トホホ。
以後、個人的に大日蓮出版の書籍をAmazonや、登山の折りの販売所で少しずつ購入し、今では膨大な量に達しております。
創価ダメ出しさんの記事にもありましたが、ひと口に教学と言っても幅が広いんですよね。教学には「宗学」と「宗史」があって、「宗学」にはまた「法門・法義」(化法)と「行体・行儀」(化義)があります。これらを全部ひっくるめて「教学」といいます。
分かりやすいのは、日蓮正宗聖典の目次です。
「経典要文之部」「聖典之部」「宗要書之部」「信行要文之部」で構成されており、さらに「聖典之部」は「御書」「相伝」「日興上人御教示」に、「宗要書之部」は「申状」「史伝書」「宗義書」「化儀書」に分類され編纂されています。
信徒の立場であれば、この一冊があれば一生かけて学ぶに足る、十二分な資料がぎっしりと詰まっているわけですよ。
ここからは、私の私見ですが、日蓮正宗の教学は格闘技に例えると総合格闘技なのですよ。まさに最強。相伝仏法ですので、御歴代上人様の研鑽の成果を余すところなく、縦横無尽に引用可能なわけです。
外道・他宗他門・異流儀・近代仏教学の連中は、削り取る式の薄氷を履むが如しのフィールドに立っているんです。
勝負は戦う前から決しているんです。
富永仲基の説に加上説というのがあり、大抵邪難の徒はこの論法を用いてきます。
後発の学説は必ず先発の学説よりもさかのぼって、より古い時代に起源を求めるという考え方にあり、その根底に「善」があること、これが即ち聖と俗とを区別する根本であるとする点にあります。ニーチェや比較思想学を先取りした考えですね。
仲基は、仏が淫するものは幻であるとし、仏の神秘的教えは行者が禅定・瞑想中に見た幻影にすぎず、釈迦の真意は世俗倫理を勧めることにあるとして、仏教を脱神秘化しました。
『出定後語』という著書名は、人間理性が宗教的な呪縛である定・夢幻から目覚めたという宣言、いわゆる近代を告げる声という意味で、ニーチェの「神は死んだ」級のインパクトを与えました。
仲基の出定以後、近世から現代に至るまで、日本の仏教者たちは伝統的な仏への信仰と仲基の出定を統合止揚すべく、全力を挙げることになるのです。
ニーチェVSキリスト教みたいなもんかな。
注目すべきは、その学説ではなく説いた人間がどうなったか?
正宗系界隈では常識ですよね。
いくら立派なことを言おうとも、多くの人が賛同しようとも、説いた人間の人格や生きざまがお粗末なものは用いないのが鉄則です。
富永もニーチェも短命で悲惨な人生で終わったのです。
ハイ、論破!
富永は35歳で夭折、ニーチェも45歳で発狂し55歳で狂死。
この現証が全てを物語っています。

日蓮は塔中相承の南無妙法蓮華経の七字を末法の時、日本国に弘通す。是豈時国相応の仏法に非ずや。末法に入って天真独朗の法を弘めて正行と為さん者は、必ず無間大城に墜ちんこと疑ひ無し。貴辺年来の権宗を捨てゝ日蓮が弟子と成り給ふ。真実、時国相応の智人なり。総じて予が弟子等は我が如く正理を修行し給へ。智者・学匠の身と為りても地獄に墜ちて何の詮か有るべき。所詮時々念々に南無妙法蓮華経と唱ふべし。(十八円満抄1519㌻)

創価も最近は相伝仏法否定で、法華講員相手だと御書のみを用いて論証せよなんて言います。
ニヤニヤしながら。
後加文はダメ。
人師・論師の説は用いません。
戒壇の大御本尊様を受持いたしません。
法華講なんてチョロイぜ!
そんなテイストで粋がっています。
そんなものまともに相手にしなくてよろしい。

詮ずるところ、上品の一闡提人になりぬれば、順次生に必ず無間獄に堕つべきゆへに現罰なし。例せば、夏の桀、殷の紂の世には天変なし。重科有って必ず世ほろぶべきゆへか。(開目抄㊤571㌻)

一闡提人(いっせんだいにん)というのは、別名「常没(じょうもつ)」といいます。
漫画ワンピースの悪魔の実の能力者みたいなもんです。
あいつらは、どんなに強くても海に落ちたら一巻の終わりです。
確実に沈むのです。
日蓮正宗を誹謗する輩は、そういった連中のさらにハイクラス悪人です。
かましいわ!
って一喝してやれば終わりです。

  1. 大聖人様は御本仏であること
  2. 血脈と相伝猊下様にしか伝わっていないこと
  3. 本尊は戒壇の大御本尊様しか存在しないこと

この3箇条さえ腹に据えておけばいいんです。
口喧嘩する必要もありません。
折伏行は法体の存在を知らない者に告知する修行です。
知っていて誹謗する輩に温情など必要ありません。
こちらを嘲笑する者は、笑わせておけばいい。
なぜか?
歴代上人様がすでに論破してしまっておられるからです。
それを学ぶのが教学の真髄です。
ただし、反省し戻ってくるものには教導の温かい手を差し伸べてあげましょう。
私のブログのタイトルは「日蓮正宗のススメ」です。
いわばブログの題目です。
これ以上のタイトルはないと思って名付けました。
あくまでも折伏であって、勧誘ではないからです。
日蓮正宗折伏は正論を押すのみ。
一に止まり、一を貫く。

  • 本門の戒壇に約せば、凡そ正とは一の止まる所なり。故に一止に从(したが)うなり。一は謂く、本門の本尊なり。これ則ち閻浮第一の本尊なるが故なり。本尊抄の文の如し。またこれ一大事の秘法なるが故なり。南条抄の文の如し。故に本尊を以て一と名づくる者なり。止しはこれ止(し)住(じゅう)の義なり。既にこれ本尊止住の処なり。豈(あ)に本門の戒壇に非ずや。(立正安国論愚記)
  • 此の時・地涌千界出現して本門の釈尊を脇士と為す一閻浮提(いちえんぶだい)第一の本尊・此の国に立つ可し。観心本尊抄
  • 教主釈尊の一大事の秘法を霊鷲山にして相伝日蓮が肉団の胸中に秘して隠し持てり。されば日蓮が胸の間は諸仏入定の処なり。舌の上は転法輪の所、喉(のんど)は誕生の処、口中は正覚の砌(みぎり)なるべし。かかる不思議なる法華経の行者の住処なれば・いかでか霊山浄土に劣るべき。法妙なるが故に人貴し、人貴きが故に所尊しと申すは是なり。(南条殿御返事)


教学試験などなくとも、各人それぞれが天界の果報に満足することなく、折伏の志を持って生きておれば、自然に学業は進むものだと思っております。
まずは、折伏したい人の信心成就を心に願うこと。
対象者が自分自身であってもいいと思います。
分からないこと、不思議に思うこと、自分に正直になってその解答を見つける努力をすることです。
御本尊様に題目を唱えながら、御住職様に質問して、得た答えを確認する。
必ず見つかったというのが、私の経験です。
最下に、私のオススメ書籍を学ぶべき順番に貼り付けておきます。
ぜひ、向学の志、御供養の志で御購入してみてください。

たゞし仏になり候事は、凡夫は志ざしと申す文字を心へて仏になり候なり。志ざしと申すはなに事ぞと、委細にかんがへて候へば、観心の法門なり。観心の法門と申すはなに事ぞとたづね候へば、 観心の法門と申すはなに事ぞとたづね候へば、ただ一つきて候衣を法華経にまいらせ候が、身のかわをわをはぐにて候ぞ。う(飢)へたるよ(世)に、これはな(離)しては、けう(今日)の命をつぐべき物もなきに、たゞひとつ候ごれう(御料)を仏にまいらせ候が、身命を仏にまいらせ候にて候ぞ。これは薬王のひぢ(臂)をやき、雪山童子の身を鬼にたびて候にもあいをと(劣)らぬ功徳にて候へば、聖人の御ためには事供(じく)やう(養)・凡夫のためには理くやう(供養)、止観の第七の観心の檀ばら(波羅)蜜と申す法門なり。(白米一俵御書・1544)

供養とは供給奉養 
「供養」とは「供給奉養(ぐきゅうほうよう)」の意味で、報恩のために仏法僧の三宝に対して財物などを供える行為をいいます。供施・供給、略して「供」などともいいます。まず供養については、邪宗での教団維持による資金や金儲けとの考えとは明らかに違うことを知る必要があります。供養とは異なり謗法の施に類するため混同しないように注意しましょう。ゆえに、御供養と御布施は違います。
宗祖日蓮大聖人は『白米一俵御書』に、「聖人の御ためには事供(じく)やう(養)、凡夫のためには理くやう(供養)」(御書1545)と仰せのように、聖人の「事供養」と凡夫の「理供養」があります。事供養は過去に仏の恩を報ずるために自らの臂を焼いた薬王菩薩や、法を求めて自らの命を鬼に捧げた雪山童子の不惜身命の振る舞いを実践することができなければ不可能なことであります。末法の私たち凡夫は、「無量劫よりこのかた、をやこ(親子)のため、所領のために、命をすてたる事は大地微塵よりもをほし。法華経のゆへにはいまだ一度もすてず。」(御書1056)との習気が邪魔するために、到底できないことです。
ところが、理供養は聖人と同様に命自体ではなく、それを失えば生活の維持が困難である金銭と衣や食を仏に供養する「こころざし(志)」により、成仏の功徳を積むことができるのであります。
私たちは、御本尊を信じ奉り、真心の御供養を心掛け、さらに折伏に精進していくことこそ真の供養と心得ることが大事であります。

事供養
「事供養」とは、先に述べたように、過去の聖者が壮絶な覚悟のもと、実際に身を投じて法を求め、仏を供養することをいいます。本宗の歴史を振り返れば、小松原(千葉県鴨川市)の法難の砌、大聖人をお守りするために命を落とした鏡忍房や工藤吉隆、また卑劣な弾圧に屈せず身命を堵して題目を唱え続けた熱原三烈士など、数々の法難を乗り越えて赤誠の信心を貫いた法華講衆による身軽法重の振る舞いが、この事供養に当たります。
理供養
一方「信教の自由」が保障される今日、私たちが自身の命を仏に捧げる代わりに、三宝尊に供養することを「理供養」といいます。この理供養は、さらに「法供養」と「財供養」に分けることができます。

法供養
「法供養」とは、仏の所説に従って法を弘め、人々を教化することです。現代の私たちにあてはめれば、大聖人の御金言のままに、幾多の障害を乗り越えて折伏に励むこと、つまり現下ではコロナウィルスの疫禍を乗り越えて御命題達成を目指す折伏をいいます。また限られた時間をやり繰りして寺院に参詣したり、会合等に参加して仏法の功徳を語り、歓喜の心を多くの人に伝えていくことも法供養になります。
財供養
これに対して「財供養」とは、食物や衣類・香華・資材などを総本山や所属寺院の御本尊にお供えすることをいい、これによって日蓮正宗の正しい法灯が護られ、正法が興隆し、令法久住との遠い未来にわたって多くの人々が大御本尊の御利益に浴していくことができるのです。
伊豆や佐渡配流の折には、船守弥三郎や阿仏房たちが身の危険を顧みず食物などを大聖人に奉り、献身的に給仕に励みました。また、南条家では、幕府の弾圧によって経済的に逼迫したなかにあっても、大聖人への御供養に尽くしました。このほか多くの信徒たちが、末法の御本仏である大聖人に対して真心の御供養を続け、外護の任を全うしていったのです。
大聖人は『新池御書』に、「度々の御供養は、法華経並びに釈迦尊の御恩を報じ給ふに成るべく候。弥はげませ給ふべし、懈ることなかれ」(御書1457)とされ、仏祖三宝尊の広大な御恩に報いていくためにも、真心の御供養が大事であることを教えられています。私たちは、大聖人の使いとして折伏する法供養に精進すると共に、仏祖三宝尊への真心の財供養に励んでいくことが、成仏のための大切な修行となることを忘れてはなりません。

供養について諸経論に種々説かれています。

二種供養
『十住毘婆沙論』等に説かれている供養で、ここでは香華・飲食などの財物を供養する利供養と、教説のごとく修行して衆生を利益する法供養が説かれています。
三種供養
『十地経』等に説かれている供養で、香華・飲食を捧げる利供養、讃歎恭敬する恭敬供養、そして仏法を行ずる行供養が説かれています。
四事供養
『増一阿含経』に説かれている供養で、飲食・衣服・臥具・湯薬の四つをいいます。
十種供養
法華経』の『法師品』(法華経319)に説かれている供養で、華・香・瓔珞・抹香・塗香・焼香・繪蓋・幢幡・衣服・伎楽等の十種の供養をいいます。

この他にも種々説かれていますが、天台大師は『法華文句』(法華文句記会本中491)で、礼拝の身業供養、称讃の口業供養、相好を想念する意業供養の三業供養を説いています。身口意の三業にわたるバランスのとれた供養が大切であります。
さらに『摩訶止観』では、「布施行に事と理の布施が具わる(中略)事とは慳貪の物を破してよく財物を布施する財施、理とは慳貪の心を破してよく法を布施する法施である」(摩訶止観弘決会本下150取意)というように、「事・理の供養」を説いています。特に「貪るは餓鬼」(御書647)である慳貪の心を破していくためには、事の財施と理の法施についての供養であります。
この天台大師の事理の供養を受け、さらに末法の御本仏としての御境界より示されたのが、先の「聖人の事供養」に対する「凡夫の理供養」であり、私たちが心がけるべき御供養の根本精神になります。
その根本精神をもとに日頃の信行において御供養を志すことが大事であります。大聖人は『国府尼御前御書』に、「『若し毀謗せん者は頭七分に破れ、若し供養せん者は福十号に過ぎん』等云云。釈の心は、末代の法華経の行者を供養するは、十号具足しまします如来を供養したてまつるにも其の功徳すぎたり。又濁世に法華経の行者のあらんを留難をなさん人々は頭七分にわ(破)るべしと」(御書739)
と御教示になりました。
御本尊を拝しますと左方の讃文に「有供養者福過十号(供養すること有らん者は福十号に過ぐ)」と認められていますが、末法の正しい三宝に供養するならば、仏様が具えるとされる十種の徳よりも大きな功徳を積むことができるとの御示しです。
各家庭におけるお仏壇の荘厳等、御本尊へのお給仕は、すべてが仏道修行であり御本尊への供養となります。
法主日如上人猊下は、先ほどの『国府尼御前御書』の御文を御講義される中で、「なぜお釈迦様を供養するより、末法法華経の行者である日蓮大聖人様を供養する功徳のほうが勝れているか、それは大聖人様が久遠元初の仏様すなわち末法の御本仏であられるからなのです。今日、我々が大聖人様に供養し奉る信行を立てることこそ、一番尊いことになるのであります」(功徳要文273)
と御教示せられました。
日蓮大聖人が末法の御本仏であらせられるとの確信のもと日々の勤行・唱題・お給仕等に励むとき、その積み重ねによって信心も深まり御報恩謝徳のための御供養の大切さが自ずと身についていくことになります。
総本山第二十六世日寛上人は『報恩抄文段』に、「問う、報恩の要術、其の意は如何。答う、不惜身命を名づけて要術と為す。謂わく、身命を惜しまず邪法を退治し、正法を弘通する、即ち一切の恩として報ぜざること莫きが故なり」(御書文段384)
と、最も大切な御報恩謝徳とは不惜身命の折伏行であることを御教示せられています。供養をこころざすことが正法伝持と広宣流布の願業成就への道であることを心に留め精進してまいりましょう。
宗祖日蓮大聖人『新池御書』に曰く、
「皆人の此の経を信じ始むる時は信心有る様に見え候が、中程は信心もよは(弱)く、僧をも恭敬(くぎょう)せず、供養をもなさず、自慢して悪見をなす。これ恐るべし、恐るべし。始めより終はりまで弥信心をいたすべし。さなくして後悔やあらんずらん。譬へば鎌倉より京へは十二日の道なり。それを十一日余り歩(あゆ)みをはこびて、今一日に成りて歩みをさしをきては、何として都の月をば詠(なが)め候べき。」(御書1457) 

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  7. 日蓮正宗要義 改訂版
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  11. 百六箇種脱對見拜述記
  12. 日寛上人御書文段
  13. 三大秘法義
  14. 新編妙法蓮華經并開結
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