日蓮正宗のススメ

法華講員の千夜一夜随想録

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守文の徒(しゅもんのと)

 

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まずは、この門をくぐりなされ
日蓮正宗要義 改訂版

日蓮正宗要義 改訂版

  • 発売日: 1999/12/19
  • メディア: 単行本
 

日蓮正宗要義 改訂版には110㌻から、本門戒壇について説明がなされている。

初版が1978年(昭和53年)で、変更点は一か所のみ、日蓮正宗信徒の数についてのみだそうだ。

弘安五年の三大秘法抄に至って、初めて

戒壇とは、王法仏法に冥じ、仏法王法に合して、王臣一同に本門の三秘密の法を持ちて、有徳王・覚徳比丘の其の乃往を末法濁悪の未来に移さん時、勅宣並びに御教書を申し下して、霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立すべき者か。時を待つべきのみ。事の戒法と申すは是なり。三国並びに一閻浮提の人懺悔滅罪の戒法のみならず、大梵天王・帝釈等の来下して踏み給ふべき戒壇なり。 (三大秘法稟承事1595㌻)」

日本国の広宣流布の時に建立すべき戒壇について述べられたのである。(日蓮正宗要義 改訂版110㌻)

と、明解に広宣流布の定義が書かれている。

書名の要義であるが、聞きなれない言葉である。

辞書には、大切な意味。「経典の要義」とあり、例文として ・・・の書にして尊信の一大要義を欠くときは、たとえこれを教うるも、いた・・・ 福沢諭吉 読倫理教科書が、挙げられている。

私は宗旨の要(かなめ)と受けとめて読んだ。

私は、大聖人様が広宣流布という時、総じては全世界を指され、別しては日本を指され御指南されているように拝している。「一丈のほりをこへぬもの十丈二十丈のほりを越ゆべきか。」の御金言にもその精神はうかがわれる。

また、昔からの御信徒さんや、高齢の御僧侶から拝聴した、日蓮正宗僧俗に言い伝えられた伝承などを聴いても、さもありなんとの確信を深めるばかりだ。

執拗に我々のような伝統を大切にする人間に対し、守文の徒という蔑称が投げかけられる昨今ではあるけれども、私は争論を起こすつもりはない。

寛容の精神とは、自らの信念や信仰を保持しながらも、他者の異論の存在を認めることだからだ。

かゝる時刻に日蓮仏勅を蒙りて此の土に生まれけるこそ時の不祥なれども、法王の宣旨背きがたければ経文に任せて権実二教のいくさを起こし、忍辱の鎧を著て妙教の剣をひっさげ、一部八巻の肝心妙法五字のはたを指し上げて、未顕真実の弓をはり、正直捨権の箭をはげて、大白牛車に打ち乗って権門をかっぱと破り、かしこへをしかけこゝへをしよせ、念仏・真言・禅・律等の八宗・十宗の敵人をせむるに、或はにげ、或はひきしりぞき、或は生け取りにせられし者は我が弟子となる。域はせめ返し、せめをとしすれども、敵は多勢なり、法王の一人は無勢なり、今に至るまで軍やむ事なし。法華折伏破権門理の金言なれば、終に権教権門の輩を一人もなくせめをとして法王の家人となし、天下万民諸乗一仏乗と成りて妙法独りはむ昌せん時、万民一同に南無妙法蓮華経と唱へ奉らば、吹く風枝をならさず、雨土くれをくだかず、代はぎのうの世となりて、今生には不祥の災難を払ひて長生の術を得、人法共に不老不死の理顕はれん時を各々御らんぜよ、現世安穏の証文疑ひ有るべからざる者なり。(如説修行抄670㌻)

今、日蓮は賢人にもあらず、まして聖人はおもひもよらず。天下第一の僻人にて候が、但経文計りにはあひて候やうなれば、大難来たり候へば、父母のいきかへらせ給ひて候よりも、にくきものゝことにあふよりもうれしく候なり。愚者にて而も仏に聖人とおもはれまいらせて候はん事こそ、うれしき事にて候へ。智者たる上、二百五十戒かたくたもちて、万人には諸天の帝釈をうやまふよりもうやまはれて、釈迦仏、法華経に不思議なり提婆がごとしとおもはれまいらせなば、人目はよきやうなれども後生はおそろしおそろし。
  さるにては、殿は法華経の行者ににさせ給へりとうけ給はれば、もってのほかに人のしたしきも、うときも、日蓮房を信じてはよもまどいなん、上の御気色もあしくなりなんと、かたうどなるやうにて御けうくむ候なれば、賢人までも人のたばかりはをそろしき事なれば、一定法華経すて給ひなん。なかなか色みへてありせばよかりなん。大魔のつきたる者どもは、一人をけうくんしをとしつれば、それをひっかけにして多くの人をせめをとすなり。日蓮が弟子にせう房と申し、のと房といゐ、なごえの尼なんど申せし物どもは、よくふかく、心をくびゃうに、愚痴にして而も智者となのりしやつばらなりしかば、事のをこりし時、たよりをえておほくの人をおとせしなり。殿もせめをとされさせ給ふならば、するがにせうせう信ずるやうなる者も、又、信ぜんとおもふらん人々も、皆法華経をすつべし。さればこの甲斐国にも少々信ぜんと申す人々候へども、おぼろげならでは入れまいらせ候はぬにて候。なかなかしき人の信ずるやうにてなめりて候へば、人の信心をもやぶりて候なり。
  たゞをかせ給へ。梵天・帝釈等の御計らひとして、日本国一時に信ずる事あるべし。爾の時我も本より信じたり我も本より信じたりと申す人こそ、をゝくをはせずらんめとおぼえ候。(上野殿御返事1123㌻)

いかにも今度信心をいたして法華経の行者にてとをり、日蓮が一門となりとをし給ふべし。日蓮と同意ならば地涌の菩薩たらんか。地涌の菩薩にさだまりなば釈尊久遠の弟子たる事あに疑はんや。経に云はく「我久遠より来是等の衆を教化す」とは是なり。末法にして妙法蓮華経の五字を弘めん者は男女はきらふべからず、皆地涌の菩薩の出現に非ずんば唱へがたき題目なり。日蓮一人はじめは南無妙法蓮華経と唱へしが、二人三人百人と次第に唱へつたふるなり。未来も又しかるべし。是あに地涌の義に非ずや。剰へ広宣流布の時は日本一同に南無妙法蓮華経と唱へん事は大地を的とするなるべし。ともかくも法華経に名をたて身をまかせ給ふべし。釈迦仏・多宝仏・十方の諸仏菩薩、虚空にして二仏うなづき合ひ、定めさせ給ひしは別の事には非ず。唯ひとへに末法の令法久住の故なり。既に多宝仏は半座を分かちて釈迦如来に奉り給ひし時、妙法蓮華経の旛をさし顕はし、釈迦・多宝の二仏大将としてさだめ給ひし事あにいつはりなるべきや。併ら我等衆生を仏になさんとの御談合なり。 日蓮は其の座には住し候はねども、経文を見候に少しもくもりなし。又其の座にもやありけん、凡夫なれば過去をしらず、現在は見へて法華経の行者なり、又未来は決定として当詣道場なるべし。過去をも是を以て推するに虚空会にもやありつらん、三世各別あるべからず。此くの如く思ひつヾけて候へば流人なれども喜悦はかりなし。うれしきにもなみだ、つらきにもなみだなり。涙は善悪に通ずるものなり。彼の千人の阿羅漢、仏の事を思ひいでて涙をながし、ながしながら文殊師利菩薩は妙法蓮華経と唱へさせ給へば、千人の阿羅漢の中の阿難尊者はなきながら如是我聞と答へ給ふ。余の九百九十九人はなく涙を硯の水として、又如是我聞の上に妙法蓮華経とかきつけしなり。今日蓮もかくの如し。かヽる身となるも妙法蓮華経の五字七字を弘むる故なり。釈迦仏・多宝仏、未来日本国の一切衆生のためにとヾめをき給ふ処の妙法蓮華経なりと、かくの如く我も聞きし故ぞかし。現在の大難を思ひつヾくるにもなみだ、未来の成仏を思ひて喜ぶにもなみだせきあへず、鳥と虫とはなけどもなみだをちず、日蓮はなかねどもなみだひまなし。此のなみだ世間の事には非ず、但偏に法華経の故なり。若ししからば甘露の涙とも云ひつべし。涅槃経には父母・兄弟・妻子・眷属にわかれて流すところのなみだは四大海の水よりもをヽしといへども、仏法のためには一滴をもこぼさずと見えたり。法華経の行者となる事は過去の宿習なり、同じ草木なれども仏とつくらるヽは宿縁なるべし、仏なりとも権仏となるは又宿業なるべし。(諸法実相抄667㌻)

長文の引用になりましたが、じっくりとお読みいただき、相互に参照しつつ御本仏の御心を拝したまえ。