仏の悟りとは何か?
そう聞かれて、こうですと明晰判明に答えられる人はいるだろうか?
答えはこうだ。
此の釈の意は、至理は名無し、聖人理を観じて万物に名を付くる時、因果倶時・不思議の一法之有り。之を名づけて妙法蓮華と為す。此の妙法蓮華の一法に十界三千の諸法を具足して欠減無し。之を修行する者は仏因仏果同時に之を得るなり。聖人此の法を師と為して修行覚道したまへば、妙因妙果倶時に感得し給ふ。故に妙覚果満の如来と成り給ふなり。(当体義抄695㌻)
因果倶時とは何か?
原因と結果が同時に成立することを言う。
聖人此の法を師と為して修行覚道したまへば、妙因妙果倶時に感得し給ふ。
とはどういうことか?
日蓮一期弘法付嘱書 弘安五年九月 六一歳
日蓮一期の弘法、白蓮阿闍梨日興に之を付嘱す、本門弘通の大導師たるべきなり。国主此の法を立てらるれば、富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり。時を待つべきのみ。事の戒法と謂ふは是なり。就中我が門弟等此の状を守るべきなり。
弘安五年壬午九月 日 日蓮花押
血脈の次第 日蓮日興身延山付嘱書 弘安五年一〇月一三日 六一歳
釈尊五十年の説法、白蓮阿闍梨日興に相承す。身延山久遠寺の別当たるべきなり。背く在家出家共の輩は非法の衆たるべきなり。
弘安五年壬午十月十三日 武州 池上
日蓮花押
ということである。
末法本仏の仏法も、迹仏釈尊の仏法も倶に日興上人様に相承されているのである。
大聖人様は御本仏様である。
御本仏様の仏法から見れば正法時代、直達正観の修行である。
末法は即久遠元初であるが、御本仏誕生以前に迹仏の仏法が流布しているというパラドックス。
この矛盾は因果俱時により解消される。
過去から現在、現在から未来へ。
時間の矢を想定する我々には理解しがたい法理であるが、
過去と未来と現在とは三つなりと雖も、一念の心中の理なれば無分別なり。 (三世諸仏総勘文教相廃立1413㌻)
と仰せである。
存在=時間=心なのである。
しかし、我々凡夫の心は明晰判明さを求めてしまう。
この世界はそれ自体が人間の理性を超えるものであり、世界について言えることはそれだけだ。しかし、不条理なものとは、この理性を超えているということと、狂おしいまでの明晰さへの願望とが対立している状態のことであり、人間の奥底では明晰さを求める声が鳴り響いているのである。不条理は世界の一部であると同じくらい人間の一部でもあるのだ。シーシュポスの神話 (新潮文庫)
明晰判明さを求める衝動の根源は、理性と呼ばれる因果推察能力である。
人間は生まれもって因果推察能力を保持しているので、理性も本能の一部である。
しかし、理性は人間本能の根源ではない。
では、様々なものをカテゴライズし記憶する能力、知性が根源であろうか?
否である。
人間本能の根源は感性に由来する感情である。
そのことを解明したのが道徳感情論 (日経BPクラシックス)であり、人間の情動に根差した伝統を重んじ、死者たる祖先にまで責任を負うとしたのが、フランス革命についての省察 (光文社古典新訳文庫)であった。
要するに、感性は、外界の刺激に対してなんらかの印象を即、感じ取る直観的な心の働き。感性を補助するのが知性と理性。知性は物事を理解する力で教養とか知識、学力といったもの。そして理性は判断力で感情とか心情に動かされずに冷静に考え判断する力。感性は心の力、知性は脳の力、理性は心と脳の総合判断力。
感性は長い年月をかけて進化論的に発達している。
進化心理学では、我々の心が進化の過程で構築されてきたことを説明している。
アダムスミスは道徳感情論 (日経BPクラシックにおいて、自然の女神という語で進化のもたらした恩寵を表現している。
人は、机上の空論に憑りつかれやすい。
なぜなら、理性による思い付きは、同じような理性を持つ人類に共有されやすい。
特に、ユートピアをかたる理想主義は人を惹き付ける。
しかし、結果責任を負うことはない。
フランス革命・ナチスドイツの国家社会主義・共産主義革命の生んだ悲惨は、歴史的悲惨として爪痕を残すことになってしまった。
私たち日本人は、その伝統的翻訳文化のおかげで、外国文学を自国語で十分に堪能できる。
保守か革命か?
理性か感情か?
この二項対立に煩悶した天才たちの作品を読めば、 いかに生きるべきかを考えることができるようになるはずだ。
私のお勧めする書籍を耽読し、なぜ、保守でなければいけないかを理解してほしい。