経に云く所謂諸法如是相と申すは何事ぞ十如是の始の相如是が第一の大事にて候へば仏は世にいでさせ給う、智人は起をしる蛇みづから蛇をしるとはこれなり、衆流あつまりて大海となる微塵つもりて須弥山となれり、日蓮が法華経を信じ始めしは日本国には一渧・一微塵のごとし、法華経を二人・三人・十人・百千万億人・唱え伝うるほどならば妙覚の須弥山ともなり大涅槃の大海ともなるべし仏になる道は此れよりほかに又もとむる事なかれ。(撰時抄)
数年前、お世話になった僧侶から聞いた話。
御僧侶「ポリ銀さん、目があっただけで人を殺すってどういうことだか分かる?」
ポリ銀「いやぁ~よく分かりません。」
御僧侶「あれはね、人ってのは自分の罪障が目に浮かんでんだよ。だからね、相手がこっちの顔を見る時って、大抵目を見るからさ、その瞬間にバチっと罪障が因縁を結んじゃうのよ。相手の罪障とね。ヤクザが因縁を付けるっていうじゃん。あれはその通りなんだよ。だから、できるだけ人の目をのぞき込まないことだよ。」
話の経緯はよく覚えていないけど、確か職場の人間関係に悩んでいて相談したんじゃなかったっけかな。
怨憎会苦は根源的な苦脳だから、信心していても受けることはあるって教えてくれた。
いじめにしても人の好き嫌いにしても、その根本原因は理性では掴めない。
結局、宿業からくる罪障なんだね。
いじめる側もいじめられる側も、それぞれそういう罪障があるってことだ。
御僧侶 「絶対的な解決方法はないんだけど、相手を折伏するか相手のことを祈ることで変わることもあるよ。」
私はどうしたんだっけ?
あ、馬鹿だから戦闘態勢への決意を固めたんだっけ。
腹をくくって先輩に真っ向から喧嘩を売ってやりました。
殴り合いになりそうになって周りに止められたっけ。
それ以来、何にも言ってこなくなったね。
今もそいつとは口もきかないけど。
死ねって思ってる人間を折伏したり祈ったりできませんでしたわ。
でも、勉強にはなりました。
十如是の始の相如是が第一の大事
相如是?
天台大師智顗は「是の相も如なり、乃至、是の報も如なり」と「是の如きの相、乃至、是の如きの報」と「相も是に如し、乃至、報も是に如す」として、十如是を三種に読み、これを「空・仮・中」の三諦(さんたい)の義に配釈したので、これを三転読文(さんてんどくもん)といわれる。十如是 - Wikipedia
相も是に如しってことだろうけど、どういう意味なんだろうか?
nichirendaihonin.hatenablog.com
【なぜ十如是を三回読むのか?】
本宗においては勤行の時に方便品において十如是を三回読みます。
この時、我々は三回とも「如是相 如是性 如是体⋯⋯」と読みますが、天台大師は『法華玄義』という本の中で、三転読誦(さんてんどくじゅ)と申しまして、
一回目「如是相 如是性 如是体⋯⋯」
二回目「是相如 是性如 是体如⋯⋯」
三回目「相如是 性如是 体如是⋯⋯」
と読む、読誦の仕方を説きました。これは空仮中くうけちゅうの三諦さんたいの上からの読み方です。
一回目の「如是相」という読み方は、最後に相、性、体等が来ますので、ある事々物々の姿が中心になりますから仮諦読みになります。二回目の「是相如」という読み方は、如が最後に来ます。
如とは、不異(異ならず)を意味するので十界諸法の相互に区別があっても、その根底には一如平等にして異ならない「空」の理があることを表していますから空諦読みになります。三回目の「相如是」という読み方は、仮諦の「相」も空諦の「如」も「是ぜ」なりという意味になり、是は「これ」という意味とともに物事の筋道を正すという意味があります。一切を包含ほうがんする中道の意味を具え、中諦読みとなります。
一往、このような読み方があり、それぞれ仮諦、空諦、中諦を表すのです。先ほど示した『十如是事』にて大聖人様は
「十如是から、百界・千如・三千世間、さらには八万法蔵とも言われる多くの法門となるが、全ては三諦の法であり、三諦よりほかに法門は無い。」 (御書104頁・趣意)と説かれます。正宗でも三回繰り返して「十如是」を読誦するのは、空仮中の三諦に読むからです。
しかしながら、本宗では我々の生命の実相の上から妙法を現していきます。
我々の持って生まれたそのままの姿で、妙法の命を顕すのです。したがって、お経文をそのまま読む仮諦読みでいいのです。すなわち、我々の姿は仮の姿ではあるけれども、この仮の姿のままの凡夫の身に妙法の仏性、仏の当体を顕していくという意義なのです。
大聖人様は『当体義抄とうたいぎしょう』に、
「正直に方便を捨て但ただ法華経を信じ、南無妙法蓮華経と唱ふる人は、煩悩・業・苦の三道、法身・般若はんにゃ・解脱の三徳と転じて、三観さんがん・三諦即一心に顕はれ」(御書 694頁)
と仰せのとおり、只今説明してきた御法門は、妙法蓮華経の五字に納まっています。
更にその妙法蓮華経の五字は、私たちの一心に納められているのです。
よって、私たちは、ただ三大秘法の御本尊様を信じ、自行化他にわたるお題目を唱えることによってこそ、即身成仏が叶うのです。
中諦ってことかぁ。でも、中諦が難しいんだよね。中道の理解が基本かな。
それじゃぁ相とは何か。
相
そう
lakṣaṇa仏教用語。特徴,特質,様相,形相という意味。仏教では,体 (本体) ,用 (作用) ,相の3語が組みになって用いられるが,この場合の相は,見られるものの姿を意味する。 (→体・相・用 )
つまり、
十如是の始の相如是が第一の大事にて候へば仏は世にいでさせ給う
というのは、姿を顕すことが一番大事ってこと?
う~ん。
分かったような分からないような。
自分の如是相(自身の姿)には、過去の全てが含まれているってことか?
だから、宿業や現業から来る罪障が目に浮かぶと?
如是相の中でも眼相が一番ってことだね。
メンチ切るとか眼(がん)を付けるとか、あぶなっかしい言葉も、瞳が合うことから始まることを教えていますものね。