日蓮正宗のススメ

人生談義と時事放談

PVアクセスランキング にほんブログ村 日蓮正宗のススメ - にほんブログ村

1181夜:天皇陛下の御誕生日に、本化国王に思いを致す。

f:id:ekikyorongo:20220220140651p:plain

即位の礼、当日に大石寺上空に出現した鳳凰

鳳凰の泣き声は、「聖天子誕生」だという。
春秋時代の『詩経』『春秋左氏伝』『論語』などでは「聖天子の出現を待ってこの世に現れる」といわれる瑞獣(瑞鳥)のひとつとされる。

見識を持たない人は、中国古典の引用を「外道」と馬鹿にしますが、外道と言い外典と言うも一往再往の見方があります。


www.youtube.com

孔子が此の土に賢聖なし、西方に仏図という者あり、此聖人なりといゐて、外典を仏法の初門となせしこれなり。礼楽等を教へて、内典わたらば戒定慧をしりやすからせんがため、王臣を教へて尊卑をさだめ、父母を教へて孝の高きことをしらしめ、師匠を教へて帰依をしらしむ。妙楽大師云はく「仏教の流化実に茲に頼る。礼楽前に駆せて真道後に啓く」等云云。天台云はく「金光明経に云はく、一切世間所有の善論皆此の経に因る。(開目抄524㌻)

大聖人様の御一生も、論語の有名な一説に順じて節目を迎えられているのです。自受用報身如来様ですから、偶然ということはありますまい。

論語の第2章「為政第二」の第4

子曰く、吾十有五にして学に志す。三十にして立つ。四十にして惑はず。五十にして天命を知る。六十にして耳順ふ。七十にして心の欲する所に従ひて矩(のり)を踰えず(こえず) 。

孔子先生はおっしゃいました。「私は十五歳のときに学問を志し始めました。三十歳にして独り立ちをし、四十歳で迷うことがなくなりました。五十歳のときに天命を理解し、六十歳のときに人の意見を素直に聞けるようになりました。七十歳の時にやっと自分の思うままに行動をしても人の道を踏み外すことがなくなりました。」と。


www.youtube.com

破良観御書「幼少の時より学文に心をかけし上、大虚空蔵菩薩の御宝前に願を立て、日本第一の智者となし給え。十二のとしよりこの願を立つ」とありますので、孔子より志学は早いようです。出家して、「是生房蓮長」の名を与えられたのが15歳くらい。

1253年(建長5年)4月28日の朝、日の出に向かい「南無妙法蓮華経」と題目を唱え出されます(立教開宗)。この日の正午には清澄寺持仏堂で初説法を行い、お名前を日蓮と改められました。30歳ころ。而立ですね。

1261年(弘長元年)5月12日、幕府によって伊豆国伊東(現在の静岡県伊東市)へ配流(伊豆法難)。40歳ころ。不惑

1271年(文永8年) 7月 極楽寺良観の祈雨対決の敗北を指摘。9月 良観・念阿弥陀仏等が連名で幕府に日蓮を訴える。平頼綱により幕府や諸宗を批判したとして捕らえられ、腰越龍ノ口刑場(現在の神奈川県藤沢市片瀬、龍口寺)にて処刑されかけるが、処刑を免れる。50歳ころ。「五十にして天命を知る」の知命。仏法上では発迹顕本です。仏が仮の姿を払(はら)い、本来の境界を顕すことを発迹顕本(ほっしゃくけんぽん)と言います。法華経の行者として振る舞われた大聖人は竜ノ口法難の時に、内証(ないしょう、内心の悟り)において御本仏の境界を開かれました。

1282年(弘安5年)61歳で御入滅。耳順・不踰矩は仏様ですから、生来お持ちだったと思われます。

さて、本日は天皇陛下様の御誕生日です。

f:id:ekikyorongo:20220220152617p:plain

天皇陛下万歳


www.youtube.com

季康子(きこうし)、政を孔子に問いて曰わく、如(も)し無道を殺して、以て有道を就(な)さば、何如、と。孔子対(こた)て曰わく、子 政を為すに、焉(いずく)んぞ殺(さつ)を用いん。子 善を欲すれば、民 善なり。君子の徳は風なり、小人の徳は草なり。草 之に風を上(くわ)うれば、必らず偃(ふ)す、と。(「顔淵第十二」19)

  (解説)

季康殿が政治について孔子にこう質問した。「もし無道な連中はみな殺しにししまって、世の中の正しい規律を完成するというのは、どうだろうか」と。孔子は答えた。「貴台は、為政者でありますならば、どうして殺すなどいたしますのか。貴台が良き生き方をと願われますならば、人々もそうなります。為政者の品位は風のようなもの、民衆の品位は草のようなものです。草は風が吹きますれば、草は必ず靡(なび)いて仆(たお)れます」と。(論語 加地伸行

現代の政治イデオロギーは複雑怪奇です。
天皇陛下も現行憲法では、国民統合の象徴です。
よく分かりません(笑)。
私は国主であり、本化国王輩出の血統であると信じています。
三種の神器に草薙の剣があります。
日本神話において、スサノオ出雲国ヤマタノオロチ(八岐大蛇)を退治した時に、大蛇の体内(尾)から見つかった神剣であるとのこと。
大王の威徳を象徴している剣です。
草薙は、「君子の徳は風なり、小人の徳は草なり」を隠喩しているのでしょう。
別名を天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)とも呼ばれます。


www.youtube.com

日興が云はく、此の御筆の御本尊は是一閻浮提に未だ流布せず、正像末に未だ弘通せざる本尊なり。然れば則ち日興門徒の所持の輩に於ては、左右無く子孫等にも譲り弟子等にも付嘱すべからず。同一所に安置し奉り、六人一同に守護し奉るべし。是偏に広宣流布の時、本化国王御尋ね有らん期まで深く敬重し奉るべし。(富士一跡門徒存知事1872㌻)

一、本門寺を建つべき在所の事。
彼の天台・伝教は在生に之を用ひらるゝの間、直ちに寺塔を立てたまふ、所謂大唐の天台山、本朝の比叡山是なり。而るに此の本門寺に於ては、先師何れの国何れの所とも之を定め置かれず。爰に日興云はく、凡そ勝地を撰んで伽藍を建立するは仏法の通例なり。然れば駿河富士山は是日本第一の名山なり、最も此の砌に於て本門寺を建立すべき由奏聞し畢んぬ。仍って広宣流布の時至り国王此の法門を用ひらるゝの時は、必ず富士山に立てらるべきなり。
一、王城の事。
右王城に於ては殊に勝地を撰ぶべきなり。就中仏法と王法と本源体一なり。居処随って相離るべからざるか。仍って南都の七大寺・北京の比叡山、先蹤之同じ後代改まらず。然れば駿河国富士山は広博の地なり。一には扶桑国なり、二には四神相応の勝地なり。尤も本門寺と王城と一所なるべき由、且つは往古の佳例なり、且つは日蓮大聖の本願を祈る所なり云云。(富士一跡門徒存知事1873㌻)

富士一跡門徒存知事は、大聖人様の御書ではありません。
日興上人様の御遺命です。
しかし、大聖人様の御遺命と拝するのが、末の世の弟子・檀那の勤めであると思うのです。

現在の皇室の状況を観れば、皇嗣の数は風前の灯火。
二名のみ。
仏法と王法と本源体一であることを考えれば、亡国の危機は目に見えて明らかです。

大聖人様の出自は不明な点が多く、私が支持している土御門帝御落胤説が正しければ、現皇室の係累は土御門帝の御子、後嵯峨天皇ですので大聖人様のお兄様の血筋が、天皇家の血筋と言うことになり、日興上人様の御言葉の真意が分かるのです。
しかし、大聖人様の使命の上から、お父様については詳しく語られておられません。
ひとつ思い至ることがありましたのは、阿仏房の信心深さです。阿仏房は北面の武士として、土御門帝の弟君、順徳天皇随行して佐渡に渡った人。
流人の大聖人様に信伏随従したのは、当時の殺伐とした状況と皇室の事情に精通されていたからではないからだろうかと。
一目見て「あっ」となった可能性がここからうかがわれるのです。

また、大聖人様の師匠、道善房も北面の武士。大聖人様が出家の身と成り、保護された経緯を推測することも可能ではないでしょうか。

どうか、今上陛下が日蓮正宗に帰依されますよう。
心から御祈念申し上げます。

陛下が日蓮正宗の信徒となった暁には、勅使が勅使門をくぐられ客殿に諮問されます。
その後のことは、猊下様の御指南により進むでしょうが、その時代に立ち会いたいというのが、凡夫最上の願いですね。

皇室の祭祀がどうなるか?
世間は騒ぐのか?

事相は予測できません。
広宣流布の時、疾く至らんことを願って。


www.youtube.com