当体義抄文段 五 当抄を釈するに、大いに分ちて二と為す。初めに所証の法を明かし、次には能証の人を明かす。 |
一 入文判釈の下。
今、当抄を釈するに、大いに分ちて二と為す。
初めに所証の法を明かし、次に「問う劫初」の下は能証の人を明かす。
初めの所証の法を明かす、亦三。初めに法体に約し、次に「問う一切衆生皆悉く」の下は信受に約し、三に「問う天台」の下は、解釈を引いて本有無作の蓮華を明かすなり。
一 問う妙法蓮華経とは其の体何物ぞや。
是の問の元意は、即ち是れ文底秘沈の事の一念三千の本尊、妙法蓮華経を問うなり。之を答うるに、是れ容易に非ず。故に浅きより深きに至って次第に之を明かすなり云云。
当体義抄文段 六 「諸法」は即ち是れ染浄の二法、「実相」は即ち是れ真如の妙理なり。 |
一 十界の依正即ち妙法蓮華の当体なり文。
初めに法体に約す、亦二。初め十界の事相に約して当体蓮華を明かし、次に「問う一切衆生」の下に所以を釈するなり。
「十界の依正」とは即ち三千の諸法なり。三千の中に生・陰二千を正と為し、国土一千を依に属するが故なり。是の故に文の意は、十界三千の諸法即妙法蓮華の当体なり、故に我等衆生も妙法の全体なること勿論なり。四箇の引証、皆此の意なり。是れ則ち十界三千の事相に約して当体蓮華を明かすなり。
是の下は十界三千の事法即妙法の当体なる所以を釈するなり。
問の意に云く、我等衆生の当体即妙法の全体ならば、九界の業因・業果も皆是れ妙法の体なりや。若し爾らば、其の謂は如何と問うなり。
故に答の下に体一相異・相異体一に約して其の所以を釈するなり。
文を分かちて二と為す。初めに正釈、次に「大円覚」の下は引証。
正釈、亦二。初めに釈、次に「是くの如く」の下は結。
初めの釈、亦二。初めに法、次に「譬えば水精の(乃至)如し」の下は譬。
初めの法、亦二。初めに体一相異、次に「此の迷悟」の下は相異体一なり云云。
一 法性の妙理に染浄の二法有り等文。
是の下は体一相違なり。文意に云く、法性の妙理は是れ一なりと雖も、染浄の二法薫じて迷悟の二法と成る。是の故に相異なり。「此の迷悟」の下は相異体一を明かすなり。故に「此の迷悟の二法、二なりと雖も然も法性真如の一理なり」と云うなり。
一 譬えば水精の(乃至)如し等文。
譬の文、亦二。初めに体一相異、次に「譬えば人夢に(乃至)如し」の下は相異体一なり。
初めの体一相異、亦二。初めに譬、次に合譬。初めの体一相異の譬とは、即ち水精の譬に分明なり。合譬の文も亦明らかなり。
一 悪縁に遇えば迷いと成り等文。
問う、前に「染法は薫じて迷いと成り」等と云うは如何。
答う、前には体薫に約し、今は用薫に約す。即ち是れ互顕なり。
一 悟は即ち法性なり等文。
問う、前に「悟は即ち仏界なり」等と云うは如何。
答う、生仏は是れ能迷・能証、無明・法性は所迷・所証なり。亦是れ互顕なり。
一 譬えば人夢に(乃至)如し文。
是の下は相異体一に譬うるなり。「種種の善悪の業」は是れ相異なり。「一心に見る所」は是れ体一なり。「一心は法性」の下は合譬の文なり。此の文に前後有りと雖も、其の意は相異体一なり。且く文勢に乗じて、先ず一心を真如に合するなり。是の例、諸文にも之多きなり。
一 是くの如く意得れば等文。
是の下は結文なり。
一 大円覚修多羅文。
是の下は第二に引証なり。
一 無始の幻・無明文。
一切衆生、生々の始め無し、故に無始と云う。無明に真実の性無きこと、幻師の種々の事を幻作するが如し。故に「幻・無明」と云うなり。大論の六・二。
一 大論九十五の夢の譬・天台一家の玉の譬文。
即ち前の両譬なり。大論九十五・三、止観六・七十六。
一 是の法は法位に住して等文。
「是の法」は無明、「法位」は法性、「常住」は体一なり。
「心」は是れ心体真如の妙理、「仏と及び衆生」は染浄の二法なり。
一 諸法実相文。
「諸法」は即ち是れ染浄の二法、「実相」は即ち是れ真如の妙理なり。
一 又能き釈には籤の六に云く等文。
指要抄の下十一。見合すべし。
「三身」は応に「三千」に作るべし。指要抄の意、可なり。
当体義抄文段 七 如来は是れ妙法の人、妙法は是れ如来の法。人法殊なりと雖も、其の体は是れ一なり |
是の下は次に信受に約するなり。
問う、前には法体に約し、今は信受に約す。其の不同は如何。
答う、前に法体に約せる意は、信と不信とを簡ばず、十界の依正を通じて妙法蓮華の当体とするなり。今、信受に約する意は、不信謗法の類を簡び捨て、但妙法信受の人を以て別して妙法の当体とするなり。故に其の義、大いに異なるなり。例せば台家に於て、法体に約する時は「若し理に拠って論ぜば法界に非ずと云うこと無し」等と釈し、観門に約する時は「取著の一念には三千を具せず」と釈するが如し。今亦復斯くの如し云々。止観第九・五十九、弘の九末三十四、異論決上三十等、往いて見よ。
一 当世の諸人之多しと雖も二人を出でず等文。
信受に約す、亦二。初めに略して非を簡び、是を顕す。次に「涅槃経」の下は広く非を簡び、是を顕すなり。而して「権教方便の念仏等を信ずる」等とは非を簡ぶなり。「実教の法華経を信ずる」等とは、是れ是を顕すなり。
此の下は広く非を簡び是を顕すなり。此に亦二。初めに文を引いて義を釈し、次に「此等の文の意を案ずるに」の下は、正しく非を簡び是を顕す。
初めの文を引いて義を釈するに、亦二。初めに文を引き、次に「南岳の釈の意」の下は義を釈す。
初めの文を引く、亦三。初めに涅槃経に云く、次に大強精進経、三に四安楽行なり。
涅槃経に「大乗」と説くは、即ち是れ法華経なり。法華経とは妙法蓮華なり。故に文意に云く、一切衆生、妙法蓮華を信ずる故に妙法蓮華の当体と名づくるなりと。故に知んぬ、妙法蓮華を信ぜざる人をば妙法蓮華の当体とは名づけざるなり。
一 大強精進経等。
南岳大師の安楽行儀の七紙に之を引きたもうなり。
問う、「妙法蓮華経」と称する意は如何。
答う、「衆生と如来」とは即ち是れ蓮華の二字なり。謂く、「衆生」は是れ因、「如来」は是れ果。「与」の一字は因果倶時を顕すなり。「同共一法身」とは即ち是れ法の一字なり。謂く、衆生、如来に同共すれば九界即仏界なり。如来、衆生に同共すれば仏界即九界なり。十界互具、百界千如は即ち是れ法の字なり。「清浄妙無比」とは即ち是れ妙の一字なり。此の五字は通じて能歎の辞なるが故なり。中に於て「清浄」の二字は、衆生と如来との蓮華を歎ず。「妙無比」の三字は、同共一法身の法の字を歎ずるなり。是の故に「妙法蓮華経」と称するなり。
一 南岳大師等。
四安楽行三紙の文なり。「一心に一字を学すれば」とは是れ因なり。「衆果普く備わる」とは是れ果なり。「一時に具足して」とは是れ倶時なり。「次第入に非ず」とは是れ非を簡ぶ。「必ず蓮華の一華に衆果を一時に具足するが如し」等とは是を顕すなり。下の文も之に准じて知るべし。
一 南岳の釈の意は等文。
此の下は次に義を釈するなり。是れを亦三と為す。初めに四安楽行の文を釈し、次に大強精進経の文を釈し、三に涅槃経の文を釈す。文無きは是れを略するなり。初めに四安楽行を釈するに、道理・文証之有り。学者之を見るべし。
問う、経文は人に約して「如来と同共」等と云う。今、何ぞ法に約して「法華経に同共して」等と云うや。
答う、如来は是れ妙法の人、妙法は是れ如来の法。人法殊なりと雖も、其の体は是れ一なり云云。