日蓮正宗のススメ

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当体義抄文段を拝読する 6

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当体義抄文段 十七  当(まさ)に知るべし、迹門は華の如く、本門は蓮の如く、文底は種子の如きなり。例えば種子の中に華・菓を具するが如きなり。

 


一 問う如来ざい

 此の下は次に如来在世の証得の人を明かす、亦二。初めにえらび、次に「故に知んぬ本門寿量のせつ顕れて」の下はを顕す。

 初めの非を簡ぶ、亦三。初めにならべて標し、次に「開三」の下は別して釈し、三に「ぜんを迹化の衆とは」の下は結。  

一 開三顕一のじょうだいの蓮華等

  此の下は別して釈す、亦二。初めに権迹ごんしゃくの菩提に約し、次に「爾前迹門の当分とうぶんに」の下は、権迹の教主に約するなり。

  初めの文、亦二。初めに道理を立て、次に「天台」の下は文証もんしょうを引く。

  初めの道理を立つるに、亦三。初めにまさしく明かし、次に「問う何を以て」の下は文を引き、三に「爾前迹門の菩薩」の下はふくしゃす。  

一 迹門開三顕一の蓮華はぜんに之を説かずと云うなり、いかいわんんやかいごんけんのん

  問う、けいうんの一・四十八に云く「開三顕一の理を妙法と名づけたれば、迹門の妙法と云う。開近顕遠の理を妙法と名づけたれば本門の妙法と云う。の体は、本迹共に全く別の妙法に非ず。ただ実相の正体の一返いっぺんの南無妙法蓮華経なり」云云。かん

  答う、此等の僻見びゃっけんは所破に足らざるなり。若し別の妙法に非ずんば、何ぞ開三顕一・開近顕遠と云うや。何ぞ「いかいわんや」と云うや。

十章抄に云く「一念三千の出処しゅっしょは略開三の十如実相なれども義分は本門に限る」等云云。

立正観抄に云く「唯仏ゆいぶつぶつ乃能ないのうじんとは迹門の界如かいにょ三千の法門をば迹門の仏が当分きょうの辺を説けるなり、本地難思の境智の妙法は迹仏しゃくぶつ等のりょに及ばず」等云云。実相の名同みょうどう義異、妙法の名同義異は、別に之を書くが如し。故に今は之を略す。  

一 ほんなんきょう冥合みょうごうほん無作むさの当体蓮華等

  即ち是れ文底秘沈の妙法、我等がたんに行ずる所の妙法なり。迹門は開三顕一の妙法、もんの妙法、熟益の妙法なり。本門は開近顕遠の妙法、義の妙法、脱益だっちゃくの妙法なり。文底は本地なんの境智の妙法、意の妙法、下種の妙法なり。まさに知るべし、迹門は華の如く、本門は蓮の如く、文底もんていは種子の如きなり云云。

  「本地難思」等とは、総勘文抄に云く「釈迦如来・五百塵点劫の当初そのかみ・凡夫にて御坐おわせし時、我が身は地水火風空なりとしろしめして即座にさとりを開き給いき」云云。

  下の文に云く「地水火風空とは即ち妙法蓮華経なり」云云。五百塵点劫の当初そのかみなり、故に本地と云う。ろしめとは是れ能証の智なり。「我が身」等とは所証の境なり。故に「境智」と云う。我が身すなわち地水火風・妙法蓮華とは、即ち是れほん無作の当体蓮華なり。くの如く境智冥合して、本有無作の当体蓮華を証得する故に「即座かい」と云うなり。

  当に知るべし「凡夫」とは即ち名字即、是れみょうなり。「知」の一字は能証の智、即ち是れ智妙なり。しんたいの故に、また是れ信心なり。信心は是れ唱題の始めなるが故に、始めを挙げて後をせっす。故にぎょう妙をぬるなり。

  故に知んぬ、我が身は地水火風空の妙法蓮華経しろしめして、南無妙法蓮華経と唱えたもうなり。即ち是れ行妙なり。「我が身」等は是れきょう妙なり。是の境智行位は即ち是れほんにんみょうなり。「即座開悟」は即ち是れ本果妙なり。是れ即ちしゅの本因・本果なり。譬えば蓮の種子の中にを具するが如きなり。

  当に知るべし、さきには一念の心法に約して境妙を明かし、今は本有の五大に約して境妙を明かすなり。しんに即してしき、色に即して心なり。人法体一の本尊これを思え。

当体義抄文段 十八  爾前迹門乃至真実の断惑は寿量の一品を聞きし時なり

 


一 具足ぐそくの道を聞かんとほっ。(注:この御文、御書全集に拝せず、平成新編に拝す)

  爾前の円の菩薩、今経にきたって始めて因果具足の道を聞かんと欲す。故に知んぬ、爾前の円の菩薩は迹門の蓮華を知らざるなり。故に此の文は、最もまさ此処ここに在るべし。さき之を引き入れたるは伝写のあやまりなり。  

一 ぜん迹門しゃくもんの菩薩は乃至当分の断惑だんなくにしてせつの断惑に非ず。

  是の下はふくしゃ、亦三。初めに理難を遮し、次に「然れば」の文は文難を遮し、三に「故に爾前」の下は反詰はんきつ

  問う、当分・せつの相はかん

  答う、爾前にも一分いちぶん断惑証理の義分ありと雖も、の経には下種を明かさず。故に「当分の断惑にして跨節の断惑に非ず」と云うなり。迹門には大通だいつう下種を明かす、故に跨節の断惑証理なり。しかりと雖も未だおん下種を明かさず。故に本門に対するの時は、当分の断惑にして跨節の断惑に非ざるなり。本門においては久遠下種を明かす、故に跨節の断惑なり。

  宗祖云くいましゅじゅくだつを論ぜずかえってだんに同じ」云云。又云く「種を知らざるの脱なれば、超高ちょうこう道鏡の如し」(取意)等云云。之を思い合すべし。

  にっちょう・日講は当分・跨節の意を知らず。「迹門にして未だ断惑証理を極めざる辺を当分と云うなり」等と云う。所破に足らざる僻見びゃっけんなり。彼、なお権実相対の当分・跨節を知らず。いわんや本迹相対をや。いかに况や種脱相対をや。つぶさには三重秘伝抄の如し。  

一 故に爾前迹門乃至真実しんじつの断惑は寿量の一品を聞きし時なり

  此の文は三に反詰はんきつするなり。是れ本門の真実の断惑を以て爾前・迹門の当分の断惑を結する故なり。  

一 天台大師・涌出ゆじゅつほん文。

  下に文証を引く、亦二。初めにまさしく引き、次に「然るを当世」の下は他を破す、亦二。初めに略して破し、次に「文のごときは」の下は広く破す。  

一 爾前迹門の当分にみょうがくの位有りといえども等

  此の下は権迹ごんしゃくの教主に約するなり。 

一 爾前の衆としゃっの衆とは等

  此の下はえらぶ中の第三、結文なり。  

一 故に知ぬ本門寿量のせつ顕れての後は等

  此の下は第二にを顕す、亦三。初めに正しく明かし、次に「伝教」の下は証を引き、三に「女人」の下は結。

 追って本門寿量の真仏しんぶつの事。

 種脱の両仏、今はなに仏を指すや。答う云云。

当体義抄文段 終章  寛師、宗祖御誕生の第五百年に相当るの日、講じ畢(おわ)んぬ。我らは今、八百年なり。

 


一 問う末法今時こんじ等文。

 此の下は三に末法今時の証得の人を明かす、亦二。初めに正しく明かし、次に「問う南岳なんがく」の下は、正像未弘みぐを以て末法流布を顕す。

 初めの正しく明かすに、亦二。初めにえらび、「然るに」の下はを顕す。

 初めの非を簡ぶに、亦三。初めに正しく簡び、次に「仏説いて」の下は証を引き、三に「日蓮」の下はしゃくじょう  

一 しかるに日蓮が一門等文。

 此の下はを顕す。

「邪法・邪師」等とは、内外・大小・権実・本迹等、重々にあいんで之を論ずべし。亦まさに宗教の五に約して、末法今時のじゃしょうを判ずべし云云。「当体蓮華を証得して」等とは、是れ本門の本尊に当り、「じょう寂光じゃっこうの当体の妙理を顕す」等とは、是れ本門の戒壇に当るなり。

 当に知るべし、我等、本門の本尊、本有無作の当体蓮華を証得して、我が身そく本門寿量の当体の蓮華仏と顕れ、所住の処はそく戒壇の寂光当体の妙理を顕さんことは、本門内証の寿量品・本因ほんにんみょうの教主の金言を信じて本門寿量の肝心かんじん・南無妙法蓮華経と唱うる故なり云云。是れ本門の題目に当るなり。  

一 本門寿量の教主の金言等文。

 「教主」と言うは、すなわち是れ内証の寿量品・本因妙の教主・蓮祖大聖人の御事なり。

問う、今「本門寿量の教主」とは、まさに是れ在世の本門寿量の教主なるべし。何ぞ末法の蓮祖を「本門寿量の教主」と名づくべけんや。

 答う、吾が蓮祖大聖人は久遠がんじょの自受用報身、即ち是れ末法下種の主師親、後の五百歳に出現し、始めて之をせんしたもう。あに本因妙の教主に非ずや。いわん儒者じゅしゃは三皇・五帝を以て教主と為す。故に補註ふちゅう十二・十四に云く「儒者すなわち三皇・五帝を以て教主と為す乃至此のふんでんを以て天下を化す。ちゅうもうよりしもは、ただ是れ儒教を伝うるの人なり。なお教主に非ず、況や其の余をや」云云。

 真言宗無畏むいを以て教主と為す。故に、宋高僧伝の第三・無畏伝に云く「開元の始め、玄宗げんそう、夢に真僧と相まみゆ。丹青たんせいぎょして之を写す。ここに至るに及んで夢と符号す。みかど悦びない道場どうじょうを飾って尊びて教主と為す」等云云。釈書の第一・十紙も之に同じ。

 華厳宗なお浄源法師を以て中興の教主と名づく。統紀の第三十・十一紙に云云。

 天台宗には智者大師を以て正しく教主と為す。故に止観第一初に云く「止観の明静みょうじょうなること、前代に未だ聞かず。智者、大隋だいずいの開皇十四年、いちようす」等云云。の一上八に云く「止観の二字は正しく聞体もんたいを示し、明静の二字は体徳をたんずるなり。前代未聞とは能聞のうもんの人を明かし、智者の二字は即ち是れ教主なり。大隋等とは説教の時なり」文。しかれば則ち宗々の祖師を以て教主と名づくること、即ち是れ古例あり。汝、何ぞ之をあやしむや。

問う、久遠元初の自受用身とは即ち是れ釈尊の御事なり。何ぞ蓮祖の御事ならんや。蓮祖は是れ本化ぽんげ上行菩薩なり。何ぞ久遠元初の自受用身と云わんや。

 答う、是れ当流独歩の相承そうじょうにして、他流の未だかつて知らざる所なり云云。しばらたいの相承に例して、仰いで之を信ずべし。  

 いわく、天台大師は薬王菩薩の再誕とは、ただ是れ一往の義なり。実には釈尊と一体なり。故に伝法護国論に云く「天台大師、道は諸宗にうるおい、名は三国にふるう。竜智、天竺に在ってさんじて云く、しんたんの小釈迦、広く法華経を開いて、一念に三千を具ししょう皆成仏すと」云云。等海口伝の三・九に云く「異朝の人師は、天台をば小釈迦と云う。釈尊の智海、竜樹のじん、天台の内観ないがん、三祖一体なり。此の時は、天台と釈尊と、一体にして不同無し」已上。  

又、伝教大師は天台の後身とは、亦是れ一往なり。実には是れ釈尊と一体なり。書註二・十四に山川さんせんえんを引いて云く「釈迦、大教を伝うるの師たり、大千界をるに、葦原あしわら中国なかつくには此れ霊地なり。たちまひとりおきな有り乃至の時の叟とはしらひげのかみなり。爾の時の釈迦は伝教これなり。故に薬師を以て中堂の本尊と為す。此れは是れ寿量の大薬師を表す。しかも像法の転時、薬師仏と号す」等云云。台家なおしかなり、いわんまた当流のじんをや。何ぞ之を疑うべけんや。

「金言」と云うは、釈尊の本尊は法華経なり。蓮祖の法華経は本尊なり。の意、知るべし。



                             当体義抄文段おわんぬ。 

    

亨保きょうほうかのとうし歳二月十六日  日寛 華押

  宗祖誕生の第五百年にあい当るの日、講じ畢んぬ。 


当体義抄文段 目次

 

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日寛上人御書文段

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