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1188夜:因果の理法に思いを馳せる~法華講員仲間の苦悩について~

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苦悩を救えるのは、自分の信仰姿勢のみ

因果の理法という言葉を聞いたことはありますか?

平成17年12月1日発行 高照山 第216号

引用元:高照山

「因果の理法について」
高 橋 成 永

 皆様お早うございます。ただ今、御住職様より命を受け、少々話をさせていただく次第でございます。
  世間におきまして、「となりの芝は青く見える」との言葉がありますが、皆様方も「なぜ自分ばかりが外れ籤を引いてしまうのか」と、周りの人と見比べて、そのように感じたことが一度はおありになったかと思います。
  仏法においては、因果の理法ということが説かれております。つまり、どんな物事にも原因と結果が存在するということであります。世間にも「善因善果」「悪因悪果」というような言葉もありますように、良いことをすれば必ず良い結果が得られ、また悪いことをしてしまえば、それに見合った悪い結果を生んでしまうということであります。
  大聖人様も、『開目抄』という御書において、
  「過去の因を知らんと欲せば、其の現在の果を見よ。未来の果を知らんと欲せば、其の現在の因を見よ」(御書571㌻)と、『心地観経』というお経文を引かれて仰せのように、現在の自分の姿、また現在の自分に対して起こっていることは、全て過去の自分の行いによって生じた悪い結果であり、同時に現在の自分の姿や、振る舞いがそのまま自分の未来における結果に結びつているということであります。よく今を努力しない人、ほんの一瞬でも大事にしようとしない人は、未来永劫進歩しないと言われる理由は、ここにあります。
  ですから、「善因善果」という言葉の、善果すなわち良い結果をこの先に得るためには、今善い因を積まなくてはならないのであります。
  今、善い因を積まずに、逆に悪い因を積んでしまうようであれば、悪い結果を未来において受けてしまうのは当然のことであります。
  では、その善い因を積むには現時点において自分は今後どのようにしたら良いのか。そこに大聖人様の正しい仏法が存するのであります。
  大聖人様は『聖愚問答抄』という御書において、
  「只南無妙法蓮華経とだにも唱へ奉らば滅せぬ罪や有るべき、来たらぬ福や有るべき。真実なり甚深なり、是を信受すべし」(御書406㌻)と仰せになっておられますように、ただ南無妙法蓮華経と唱題することによって、過去・現在の罪障消滅がなされ、更には福徳をも積むことが出来る、と仰せになっておられるのであります。その福徳はどうなるかと言えば、現在から未来へとつながっていき、必ずや自分にとって善い結果が生ずるのであります。
  現在の自分の宿業を打ち破る方法はただ一つであります。それは、言うまでもなく三大秘法の仏法を信じて実践していくしかないのであります。逆に御題目も唱えず、勤行もせずにいたならば、何の良い結果も生ずることなく、いつまでたっても進歩が無いどころか、今までの徳をも使い果たしてしまい、ついには不幸な姿となるという結果を生じてしまうのであります。
  今現在、三宝破壊の行為を平気で行い、必死に正法を誹謗し、広宣流布を妨げようとしている集団がありますが、これらの集団には罰として必ず不幸な結果が生じてくるのであります。もともと仏様は罰を与えるために御出現なされたわけではありませんが、親が子を叱るように、先輩が後輩を叱咤するように、その人のためを思われて厳しくなさるのであります。悪い行いをすれば、それが原因となって罰という悪結果を生むのであります。まさに仏法におけるところの因果の道理であります。
  しかし、そのような人達や、またこの正法に縁の無い人達を救うのは我々日蓮正宗の僧俗にしか出来ないことであり、またそれが我々の使命でもあり、私達が現在において善い因を積むことでもあるのであります。
  隣人の庭は本当に青い芝なのでしょうか。この日蓮正宗の御本尊を信じ、お題目を唱えない、唱えられない人が、そのようなはずはありません。
  大聖人様は『上野殿御消息』に、
  「劣れる者に慈悲あれとは、我より劣りたらん人をば我が子の如く思ひて一切あはれみ慈悲あるべし」(御書922㌻)と仰せになっております。
  やはり、自分が唯一最高の大聖人様の仏法に巡り会え、信心することができ、幸福への道を知ることが出来たならば、今度はそれを他の人にも教え弘めることが大切であり、その人を救おうとすることは必ず功徳となって自分に備わってくるのであります。
  自分が幸福な境涯になることも、また反対に不幸になることも、自分の信心次第なのであり、その行いが必ず結果として自分に現れてくるのであります.これも因果の道理であります。
  ですから、すべての人が現在の自分の振る舞いで、未来の結果が左右されるのであります。今日という一日を一生懸命生きていけば、その結果は歴然として現れてくるのであります。
  本当の意味で自分はもちろん、隣人の芝も共に青々としていれば、いわゆる『如説修行抄』の、
  「万民一同に南無妙法蓮華経と唱へ奉らば、吹く風枝をならさず、雨土くれをくだかず、代はぎのうの世となりて、今生には不祥の災難を払ひて長生の術を得、人法共に不老不死の理顕はれん時を各々御らんぜよ、現世安穏の証文疑ひ有るべからざる者なり」(御書671㌻)という御文のような境涯になるのではないでしょうか。
  このことを今一度肝に銘じ、今日より一層の信心修行に精進してまいることを共々に御本尊様にお誓い申し上げ、私の話に代えさせていただきます。本日の御参詣まことに御苦労様でした。(平成17年11月13日 早朝勤行会において)

2020年7月7日 / 最終更新日時 : 2020年7月9日 Hiraoka
引用元:三世(さんぜ)の因果(いんが)について | 日蓮正宗 妙眞寺若葉会ホームページ

三世(さんぜ)の因果(いんが)について
 およそ、世の中の物事で、原因なくして結果が生じたり、原因はあるのに結果が生じない、などということは何ひとつありません。
 私達の人生における苦・楽や幸・不幸も、また偶然によるものではなく、何がしかの原因が招いた結果であるはずです。
 仏法では、私達の人生の幸・不幸が、三世(過去・現在・未来)にわたる因果の理法によって定まることを説き明かしております。
 たとえば、『心地観経』という経典には、「過去の因を知らんと欲せば、其の現在の果を見よ。未来の果を知らんと欲せば、其の現在の因を見よ」とあり、また中国の賢人、天台大師は「今、我が疾苦は皆、過去に由る。今生の修福は、報・将来に在り」と説いています。
 すなわち、自分自身の過去からの善悪さまざまな行いの集積が、宿業(善業と悪業とがある)となって生命に刻みつけられ、それが現在の人生に苦・楽や幸・不幸という果報をもたらしている。そして、また現在に作っている原因は、新たな宿業として生命に刻まれ、必ず将来にその果報が現われる、というのであります。
 この因果の理からすれば、生まれついての病や貧富の差などは、今生に生を受ける以前、すなわち過去世において原因が作られており、また、今生で果報を受け終わらなかった宿業は、死後、未末世へと持ち越すことになります。仏法では、そうした三世にわたる生命の因果と流転の相を、「十二因縁」という法門として次のように説いています。
  一、無明…我々の生命が元々もっている煩悩のこと
  二、行… その煩悩によって過去世で作った、善悪それぞれの宿業のこと
  三、識… 過去世の業により、現在の母親を定めて、その胎内に宿る(受胎する)こと
  四、名色…名は心、色は身で、胎内で身心が発育しはじめた状態
  五、六入…身心に眼・耳・鼻・舌が具わって六根すべてが揃った状態
  六、触… 生まれたばかりで、分別がないまま物に触れて感ずるだけの状態のこと
  七、受… やや成長し、苦・楽などを識別して感受する状態のこと
  八、愛… さらに成長して、事物や異性に愛欲を感ずる段階のこと
  九、取… 成人して、事物に貪欲すること
  十、有… 愛や取などの現在の因により、未来世の果を定めること
 十一、生… 未来世に生を受けること
 十二、老死…未来世において、年老い、死ぬこと
 以上のうち、一と二は過去世の因、三から七までは現世の果で、八から十は現世の因、十一と十二は未来世における果を指しています。私達の生命は、このように十二の因縁が三世にわたって連鎖しながら、生と死を繰り返していくのであります。
 さて、こうした三世の因果を踏まえた上で、釈尊は、不幸の宿業を形成する原因について、爾前経(法華経が説かれる以前のお釈迦様の四十余年間の教え)で種々に説いていますが、法華経に至ってすべての不幸な宿業は、正法に背く行為(謗法)が根本の原因となって作られたものである、と明かしています。
 これについて日蓮大聖人様は、「高山に登る者は必ず下り、我人を軽しめば還って我が身人に軽易せられん。形状端厳をそしれば醜陋の報いを得。人の衣服飲食をうばへば必ず餓鬼となる。持戒尊貴を笑へば貧賎の家に生ず。正法の家をそしれば邪見の家に生ず。善戒を笑へば国土の民となり王難に値ふ。是は、常の因果の定まれる法なり。日蓮は此の因果にはあらず。法華経の行者を過去に軽易せし故に(中略)此の八種の大難に値へるなり」(御書五八二㌻)と説かれています。
 つまり、高い山に登った者が必ず山を下らねばならぬのと同様に、たとえば過去に自分が人を軽易(バカに)したから今度は他人から自分がバカにされる等々、悪い行為が因となって必ず悪い結果が生ずるという世間においては当然の因果関係をまず仰せられ、さらに「日蓮は此の因果にはあらず」として、このような因果はまだまだ浅い因果であり、じつは、かくのごとき不幸の悪因を招きだした根本の原因こそ、過去の謗法の罪業によるのである、と示されているのです。
 このことは、きわめて重要です。大聖人様は、「病の起こりを知らざらん人の病を治せば弥病は倍増すべし」(御書一〇六七㌻)と仰せですが、不幸の起こりを知らぬ者が、いかに不幸を取り除こうと努力しても、結局、何ひとつとして解決できなかったり、また一時は解決したかのように見えても、また他の悩み苦しみが起きてきて、不幸を免れることはできません。
 たとえば、病気になる原因についても、種々考えられましょう。しかし、それらの原因の奥に、さらにそれを招き起こした根本原因―正法誹謗の宿業―があったならば、いかに病院を訪ねまわっても、また、いかなる良薬を求めても、これを治療できない場合が多く、さらには病気の再発や他の苦しみが起こってくる場合すらあるのです。
 したがって、大切なことは、まず、不幸のよって来たる真の原因が、過去からの謗法罪障にあることを知り、その悪業を消滅させることであります。さすれば、そこに、あらゆる人生の苦悩と不幸を解決していくことができるのです。
 その具体的な方途としては、大聖人様が「人の、地に依りて倒れたる者の、返って地をおさへて起つが如し」(御書一三一六㌻)と仰せのように、過去に正法に背いた謗法の罪は、正法たる日蓮大聖人様がお認めになられた大御本尊様に信順することによってのみ消滅できうるのであります。
 幸いにして正法を受持できた私達は、三世の因果を知らずに不幸から抜け出せないでいる人々に対し、抜苦与楽(慈悲)の実践(折伏)をしてまいろうではありませんか。

先日、幼なじみの法華講員に久しぶりに会いました。
不思議な縁がある人で、彼女(仮名Mさん)が苦境に陥っているときに限って私に会うのだとか(笑)。
調子悪そうだったので、「元気?大丈夫?」って声をかけると、「大丈夫じゃない。今、遺書を書いてた。」との返答。
おいおい!
びっくりさせんなと思いつつも。
近況を尋ねてみました。

Mさんには、御本尊御不敬の過去があります。
赤ちゃんの時に御授戒をいただいた福子さんなんですが、人生いろいろなもので。
棄教と発心を繰り返す人生でした。
現在は精神科に通院しています。
Mさんとは、今から40年くらい前にお寺で出会いました。
僕が幼稚園くらいのこと。
生まれつき御本尊様を受持出来る境界なのにねえ。
なかなか娑婆世界の修行はつらいねえ。

そんな思いを抱いております。
ハナシを聴いていると、いつも思うことは、信心もあり修行もしていても、教学の研鑽が伴っていないと成長できないという、冷酷なまでの現実です。
彼女には教学がほとんどない。
彼女の母親ほどの盲信もない。
ようするに一生中途半端な信心で生きてきているのです。

だから、フラフラフラフラしているのです。
まさに、悪い方の火の信心。
遺書を書こうと思ったほどの、今回の彼女の愚痴は「法華講は冷たい」と。
「眠る間を惜しんで唱題行をしたのか?」って、知り合いの盲信おばさんに言われて、腹がたったのがきっかけ。
う~ん。
だよね。

さて、どうしたものか。
地獄界の彼女に、人の言葉を一々気にするななんて言っても無駄。
瞋りに支配されていますから。
苦悩の源泉は瞋りなんですよ。実は。

さらに、情けないことに、知り合いの創価民が生き生きと輝いて見えるのだとか。
創価民が声をかけてくれるのがうれしかったり。
いやいやいや。。。それはないわ。
そんなの脱講を画策されてるだけじゃんて。

兎にも角にも、罪障消滅の負荷がでかい。
押しつぶされそうなんですわ。

どうしたものか。
因果の理法を乗り越えるには、盲信法華講員の言っていることが正しくて、罪障を貫通するほどの唱題行しかないんです。
でも、愚痴まみれの彼女にそれを実践させるのは至難の業。
煩悩即菩提を学ぶには、四条金吾殿御返事を古い順に拝読するのがいいんだけども。
難しいわなぁ。

今は、創価は見せかけの修羅だから、絶対について行っちゃだめだよと言い含めて、時間をおいて説得を試みようと思っています。

Mさんは、宿業が重いのだろう。罪障も深いのだろう。
でも、僕の体験談を10年くらい前に宅御講で聴いてくれて、一念発起、信心を再起したんだ。

頑張れ!Mさん。