日蓮正宗のススメ

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不可知論≒無神論的実存主義≒不条理主義を支持する私∧日蓮正宗信徒の私

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少年よ!大志を抱くな!

仏法は不可知論か?

妙法蓮華経方便品第二』

[真読]

諸仏智慧。甚深無量。其智慧門。難解難入。一切声聞。辟支仏。所不能知。所以者何。仏曾親近。百千万億。無数諸仏。尽行諸仏。無量道法。勇猛精進。名称普聞。成就甚深。未曾有法。随宜所説。意趣解難。

[訓読]

諸仏の智慧は甚深無量なり。其の智慧の門は難解難入なり。一切の声聞・辟支仏の知ること能わざる所なり。所以は何ん、仏曾て百千万億無数の諸仏に親近し、尽くして諸仏の無量の道法を行じ、勇猛精進して、名称普く聞えたまえり。甚深未曾有の法を成就して、宜しきに随って説きたもう所意趣解り難し。

[真読]

舎利弗。不須復説。所以者何。仏所成就。第一希有。難解之法。唯仏与仏。乃能究尽。諸法実相。

所謂諸法。如是相。如是性。如是体。如是力。如是作。如是因。如是縁。如是果。如是報。如是本末究竟等。

[訓読]

止みなん、舎利弗、復説くべからず。所以は何ん、仏の成就したまえる所は、第一希有難解の法なり。唯仏と仏と乃し能く諸法の実相を究尽したまえり。

所謂諸法の如是相・如是性・如是体・如是力・如是作・如是因・如是縁・如是果・如是報・如是本末究竟等なり。

朝夕の勤行で読経している方便品には、諸仏の智慧も諸法の実相もともに、凡夫には知り得ないと説かれています。仏法とは不可知論であるということなのでしょうか?

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「不可知論」とは人知を超えたものは扱わない立場

「不可知論」は本来、哲学用語です。哲学では、ものごとは経験や現象という人が認知できるものと、その背後にある超経験的なものや本質的なものとに区別され、後者の存在は認識できないもしくは存在そのものが不確実であるとしています。

ものごとの本質や実在の根拠のようなものは、人間が自分の感覚や経験で認識できるものではありません。つまり「不可知論」では、人知を超越する問題は扱わないとする立場をとっているのです。

扱わないということは、肯定や否定という立場を取らないということのほか、そのような問題の存在そのものを認めないということも含まれます。

「不可知論」はまな板に乗せないという立場

「不可知」をそのまま読めば「知ることができない」という意味ですが、この場合の「知」は、単なる知識としての「知」ではなく実体験のほか、計測や証明することができるものを指しています。つまり、「不可知論」は人間が認識できないものについて、論議のまな板に乗せないという考え方です。

「不可知論」は英語で「agnosticism」

「不可知論」は、英語だと「agnosticism」という言葉が対応します。「不可知論者」を意味する「agnostic」に、「主義・主張・学説」を表す接尾辞「-ism」がついた言葉です。

「agnostic」は、霊的なものに関する知識があることを指す「gnostic」に否定の意味を加える接頭辞「a-」がついたもので、「be agnostic on ~」というように「~については分かりかねる」という使い方もされています。

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なぜ?と問い続けようとする、理性の衝動を押さえきれないのが人間です。

あなたは、十無記(毒矢の譬え)に納得できますか?

日蓮正宗信徒並びに創価学会員・顕正会員は、「毒矢の譬え」を知っている人も多いかと思います。

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毒矢の譬え

翻訳者は不詳で東晋録にある。
このように聞いた。
ある時、世尊は、舎衛城の祇園精舎におられた。
その時、尊者である摩羅鳩摩羅(まらくまら)は、独り坐禅をしながら思った。
「世尊は、邪見を棄て除いたと言われたが、次のことをお説きにならない。
この世界は永遠に続くものだろうか、それとも永遠ではないのか?
世界は際限があるか?ないのか?
生命と肉体とは同じか?異なるのか?
生命は死後も存在するのか?しないのか?
物は存在するのか?しないのか?
命に終りがあるということはないのだろうか?
これらの答えがわからないので、我慢ができないし楽でない。
世尊が、これらのことについて答えてくれるのであれば修行を続けるが、そうでなければここを去ろう」
こう考えると、摩羅鳩摩羅は、坐禅を止め世尊の所に行って、世尊の足に礼し、退いて壁の一面に坐った。

摩羅鳩摩羅は、次のように言った。
「世尊、わたしは、静かなところで坐禅しながらこう考えました。
世尊は、『邪見を棄てた、邪見を除いた』と仰せですが、この世界が永遠かそうでないのかなどについてお説きになりません。もしご存知ならば『知っている』と、もしご存知でないならば『知ることができない』を仰ってください」
世尊は、次のように言われた。
「摩羅鳩摩羅よ。わたしが『この世界が永遠かどうかについて述べれば、わたしに従って修行できるか』と尋ねたことがあるか?」
「いいえ、ありません」
「摩羅鳩摩羅よ、以前に、お前は『世尊が、この世界が永遠かどうかについて言われれば、修行を続ける』と言ったことがあるか?」
「いいえ、ありません」
「摩羅鳩摩羅よ。わたしは、本よりお前に向って説かず、お前も、本よりわたしに向って尋ねない。お前は、愚か者である。訳もなく、人を罵っておるのだ」
このように言われ、摩羅鳩摩羅は、世尊から叱られて言葉もなく冷や汗を流した。
その時、世尊は、摩羅鳩摩羅から目を離されて、諸ろの比丘に言った。
「ある愚か者が、『わたしは、世尊に従って修行せずに、先に世尊に、この世界が永遠かどうかと述べさせようと思った。その愚か者は、自らが、このようなことをしている間に、命が終ってしまうことを知らないのだ」
世尊は、譬え話をされた。
それはちょうど、ある者が毒矢に当たった時のようである。
毒矢に当たったことを知った彼の親属は、この者を哀れんで急いで医師を探し求めた。
ところが、この者は別のことを考えていた。
「まず先に、この毒矢を射た人のことを、知らなくてはならない。
その人は、姓は何で、名前は何で、容姿はどうか?
背は高いのか、低いのか、中ぐらいか?
肌の色は、黒いのか、白いのか?
王族の姓なのか?
婆羅門の姓なのか?
居士の姓なのか?
工師の姓なのか?
東方の人か、南方か、西方か、北方か?
誰が、毒矢でわたしを射たのだ?
これらがわかるまで毒矢を抜いてはならない。

次に、その弓について知らなければならない。
薩羅(さら)の木でできているのか?
多羅(たら)の木でできているのか?
翅羅鴦掘梨(しらおうくつり)の木でできているのか?
これらがわかるまで毒矢を抜いてはならない。

次に、その弓に巻いた筋について知らなければならない。
牛の筋か?
羊の筋か?
氂牛(りご:チベット産の牛、ヤク)の筋か?
これらがわかるまで毒矢を抜いてはならない。

次に、その弓の弓束(ゆづか:弓を持つ所)について知らなければならない。
白い骨でできているのか?
黒い漆でできているのか?
赤い漆でできているのか?
これらがわかるまで毒矢を抜いてはならない。

次にに、その弓の弦について知らなければならない。
牛の筋でできているのか?
羊の筋でできているのか?
氂牛の筋でできているのか?
これらがわかるまで毒矢を抜いてはならない。

次に、その矢について知らなければならない。
舎羅(しゃら)の木でできているのか?
竹でできているのか?
羅蛾梨(らがり)の木でできているのか?
これらがわかるまで毒矢を抜いてはならない。

次に、その矢に巻いた筋について知らなければならない。
牛の筋でできているのか?
羊の筋でできているのか?
氂牛の筋でできているのか?
これらがわかるまで毒矢を抜いてはならない。

次に、その矢の毛羽について知らなければならない。
孔雀の羽でできているのか?
鶬鶴(そうかく:鶴の類)の羽でできているのか?
鷲の羽でできているのか?
何の鳥の羽で作ったのだ?
これらがわかるまで毒矢を抜いてはならない。

次に、その鏃(やじり)について知らなければならない。
婆蹉(ばしゃ)か?
婆羅(ばら)か?
那羅(なら)か?
伽羅鞞(からひ)か? これらがわかるまで毒矢を抜いてはならない。

次に、その鉄師(刀鍛冶)について知らなければならない。
姓は何か、名前は何か、容姿はどうか?
背は高いのか、低いのか、中ぐらいか?
肌の色は黒いのか、白いのか?
東方の人か、南方か、西方か、北方か?
これらがわかるまで毒矢を抜いてはならない。

この者は、そのようなことをしている間に、毒が体中に回って死んでしまうことがわからないのだ」
「これと同じように、ある愚か者が、『わたしは、世尊からこの世界が永遠かどうかを聞くまで修行しないぞ』と思うならば、そのようなことをしている間に、自分の命が終ってしまうことを知らないのである」
世界が永遠だと知ることで、あるいは永遠でないと知ることで、修行が続けられるのではない。世界が永遠であろうとなかろうと、人は生まれては老い、死んでいき、憂慼(うせき:憂うこと)・啼哭(たいこく:泣くこと)・楽しまないのである。
このような大苦陰(四苦八苦の五蘊盛苦:旧訳では五陰盛苦で物質界と精神界に執着する苦しみ)は習気(じっけ:本来身についていること)である。
「この世界は永遠である」と言うことはできないのである。
なぜ、言うことができないのかと言うと、
義(正しい意味)でもなく、法(正しい教え)でもなく、梵行(正しい修行)でもなく、神通(不思議な力)を成すこともなく、仏と等しい道に至ることもなく、涅槃(理想の境地)と至ることもないからである。
わたしは、苦しみとその原因、原因の消滅とそのための道という四つの真理(四聖諦)を説くのである。(「苦集滅道」)
わたしが、説かないことは説かれるべきでないと了解し、説くことは説かれるべきだと知るべきである」
仏が、このように説かれると諸ろの比丘たちは、世尊のお説きになったことを聞いて、歓喜して楽しんだ。
佛説箭喩経(ぶっせつせんゆきょう)

【解説】
■佛説箭喩経は、大正新脩大藏經で阿含部に属していて、「東晋録」に編纂されているが、訳者は不明である。同種のものが、他にも中阿含経巻第60「箭喩経」にある。
■無記(むき)について
 経典の中で、釈尊が問いに対して、回答や言及を避けたことで、経典に回答内容を記していないので、漢語で「無記」と表現されている。主として、「世界の存続期間や有限性」「生命と身体の関係」「如来の死後について」といった仏道修行に直接関係が無く役に立たない内容についての問いに対して、こうした態度が採られている。
 この経典においても、苦しみから涅槃に至るための仏道修行に関わりの無い「世界の永続性や無辺性に関する内容」について無関心であり、否定的でもある。

上記の話で「ふむふむ」「そうだそうだ」ってなった方は、それでいいと思うのです。

先に出てきた不可知論と十無記は、非常によく似た考え方をするのだということが、お分かりいただけたかと思います。要するに、人間が認識できないものについて、論議のまな板に乗せないという考え方です。

「ペスト」の圧倒的読後感に衝き動かされた私 

ペスト (新潮文庫)

ペスト (新潮文庫)

  • 作者:カミュ
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 1969/10/30
  • メディア: ペーパーバック
 

カミュの作品では「異邦人」が圧倒的に有名で、高い評価と人気を博していますが、私は「ペスト」をイチオシしたいと思います。最近、再読し始めて読了しました。最後の方は、ページをめくる手を止めることが出来ずに、夜更かししてしまいました。

読後感も凄まじく、感無量、茫然自失といった感がしました。小説としてこれ以上の作品に出会ったことがありません。

途中、小難しい記述がありますが、読み飛ばしながらでもいいので、最後まで読んでみて欲しいですね。文学の可能性を感じ、哲学の限界を感じさせられた一冊です。

哲学は理性に忠実に世界を記述しようとする試みです。最後は必ず挫折します。迷いから迷いへ。結論や答えはありません。

文学は読者の感性に働きかけます。ハッピーエンドであれ、バッドエンドであれ、読後感は残るわけです。

「ペスト」は不条理(不幸や幸福が"糾える縄の如く"押し寄せてくる人生)を飲み込み、前に向いて生きようとする主人公の姿に感動させられました。自分もまた実存主義不条理主義者でありたいと思ったのです。

そして、これからも多くの文学作品に、生きている限り出会っていきたいと思わされました。

表題に「∧」記号を用いた訳

「∧」記号は「且つ」記号です。「~でありながら、且つ、~である」という意味の論理記号です。

「不可知論≒無神論実存主義不条理主義を支持する私」は「日蓮正宗信徒の私」と矛盾しないという意味であり、宣言であります。

人知を超越する問題は、人間理性にとって認識不可能な事柄であると思います。

しかし、また同時に縁覚の心も存在していますので、どうしても探究心が湧き起ってくるのです。

世界的な論理哲学者のヴィトゲンシュタインも、前期と後期で正反対の考えを表明しています。

語り得るものについては明瞭に語られなければならない。語り得ぬものについては沈黙せねばならない。

言語の限界に対するこの突進が倫理学である。

 ヴィトゲンシュタインの哲学的結論には、倫理学は成立しえない言語の限界の向こう側にあるものとされています。倫理を語る事は、少なくともヴィトゲンシュタイン哲学ではありえません。それでも語ろうとする人間の「壁に逆らって走る」絶望的な試みには「敬意を払う」と語っています。

甚深無量の諸仏の智慧は、その門に入ることすらできません。

しかし、自分の人生を生きている以上、不条理なこの世界の不条理さに挑み続けたいと思っています。観念論ではなく、実存主義という哲学をツールとして。 

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存在論: なぜ無ではなく世界が存在するのか

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