日蓮正宗のススメ

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日蓮正宗の信仰に「不条理」は存在するのか?

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永遠に岩を運び上げる"シーシュポス"

ja.wikipedia.org 

シーシュポスの神話 (新潮文庫)

シーシュポスの神話 (新潮文庫)

  • 作者:カミュ
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 1969/07/17
  • メディア: 文庫
 

不条理とは、理不尽のことではありません。

理不尽は、他人(組織・国)から受ける道理に合わない無茶苦茶な仕打ちのことです。

不条理は実存主義の用語です。

人生に何の意義も見出せない、絶望的状況を表します。

特に、フランスの作家カミュの不条理の哲学によって知られています。


哲学における「不条理」は、「世界に意味を見出そうとする人間の努力は、最終的には失敗せざるを得ない」といったことを主張しています。

そのような意味は少なくとも、人間にとっては存在していないからです。


不条理主義者の哲学では、「不条理」は人による世界の意味の追究と、世界の明らかな意味のなさの不調和によって生じるとされています。だったら、意味を持たない世界で意味を探す必要がある、人はこのジレンマを解決する3つの方法を持っているそうです。


その3つの方法というのが、

自殺:一つの簡単な方法として人生を終わらす

盲信:不条理を超えた何か、触れられず実験的に存在が証明されていないものを信じる(これをするには理性を失くす必要がある)

不条理を受け入れる:不条理を受け入れて生きる

となります。

明晰を求める理性 ← 不条理性 → 理性で説明できない世界

人生を生きる意味とは何か? ← 不条理性 → 理性的に納得できる回答は見つけ得ない。

日蓮正宗の信仰で「不条理」は消えるのか?

日蓮正宗の信仰を学べば、世界の大哲学者たちが頭を悩ませた、「不条理」そのものが存在しないことに気付きます。

「世界」が本有常住であることを知れば、不条理などどこにもないことがわかります。

本有常住とは中道と言い換えてもよろしいかと。日淳上人様の御指南を拝してみたいと思います。

空仮中の三諦 法界の真実相 (法華経の重大義である諸法実相・中庸理念の基本)    

                   総本山第65世 日淳上人御述
 仏教に於ては迷悟・因果・主客の関係に於て種々の教えが説かれてをって、此の立場から或は現象の世界、或は実在の世界、或は認識の世界、或は主観につき、或は客観の世界と全般にわたって解明されておりますが、その教えの根底であり、中枢となってをりますのは、諸法実相の教えであります。此れは仏の悟りの世界の真実相であるからであります。
 諸法実相といへば、その教えは法華経にをいて究竟(くきょう)して説かれてをるのでありまして、その他の経にはそれに入る予備的な教えか、実相の一部を説かれてをるのであります。
 諸法というは、諸は一切の法を一言に抑へて申すのであります。万法とも申してをります。法といふのは如何なるものでも、そのものを全体的に抑へていふ言葉であります。
 今日、「法と」いひますと「法則」といふやうに用ひられてをりますが、仏教で法といふは、法則ばかりでなく「一切のものを通じてそのものの全体」を申すのであります。それで此の法を分別して物質と精神、現象と実在、情と非情、流転と還滅(げんめつ)、過去と未来などと分けるのであります。しかしその様に分けたからといって、それは一応の分別でありまして、そのまま実相ではないのであります。 

 全体はその分別以前のもの、若(もし)くは分別を総括したところにあるのであります。それを実相といふのであります。
 扨て空仮中の三諦(さんたい)でありますが、此れは諸法の実相を説いた教えであります。諸法は上の如く種々分別せられますが、法自体には空仮中の性徳があって種々に変転するのであります。
 三諦の諦といふは、審諦すなわち「つまびらか」とか「あきらか」といふ義であり、また諦観といへば十分に実相を見ることであります。仏の悟りの世界に於ける「あきらかな真実の理」を諦といふのであります。空仮中は諸法に本来法爾に具足する天然の性徳であります。此れを三諦といふのであります。
 先づ仮諦から申しますと、仮とは一切の諸法は仮に因縁によって和合してをるものでありますから、之れを「仮」といふのであります。即ち仮和合のことであります。空諦とは凡夫は此の仮和合の諸法を実有なりと考へてをりますが、実際には仮和合のものであるから空といふのであります。此の空であり乍(なが)ら、仮和合といふことを具へてをります。そのところを「中」と申すのであります。此の空仮中を如何に理解するかといふことはなかなか難しい問題で、経に於ても其後の人師に於ても、此れを正当に理解せしむべく力を注いでをられるのであります。 

 空仮中の三諦に於て「円融の三諦」といふのが、至極の教えであります。円は円満で「偏」に対する言葉で、欠けることのなく、かたよってもゐない全体といふことであります。融は「とらかる」でありまして、全体のそのままがとらかつてゐることであります。
 凡そ仏教に於ては此の円融の三諦を説くのを目的としてをりますが、俄(にわか)には理解することが困難でありますので、その前提とし析空観(しゃっくうかん)や体空観を説き、また真俗の二諦や隔歴(きゃくれき)の三諦を説かれたのでありまして、それが法華経以外の経教であります。 

 最初、一切のものは実有である、不変常住であるといふ考へ方を破するために、「析空(しゃっくう)」を説いて一切のものを分析してみれば、何一つとしてそのものの実体は無いと教へられたのであります。即ち我空法有で、人は常住不変のものではなく、法だけが常住であると説くのであります。 

 次に「体空(たいくう)」といふは、我法の二空を説き、法体も諸法は全体そのまま「空」であると説かれるのであります。而(しか)して次に諸法は空でもなく、有でもない、その二辺をはなれた中間にあるといって、即ち但中(たんちゅう)の理を説かれてをるのであります。此れを隔歴(きゃくれき)の三諦といって、空と仮と中と格別にして融即(ゆうそく)してをらず、中は空と仮と、別に立てられてをるのであります。
 かくて最後に円融の三諦でありますが、此れは、空・仮・中の三諦は各々、また三諦を具するとして相即を説くのであります。即ち三即一、一即三といひ、不縦、不横といって縦や横に並ぶのではないといふのであります。若し空といへば一切がそのまま空、仮といへば一切がそのまま仮、中といへば一切がそのまま中であるといふのであります。それを即空、即仮、即中と申すのであります。今此れを図にすれば、次の如くであります。 

 此の円融の三諦は、正しく領解することもまた説き表はすことも難しいのでありまして、故に此れを非有、非空、亦有、亦空とか、また百非といって有に非ず、空に非ず、非有に非ず、非空に非ずとして百の非をつけても言ひ表はせないなどといひ、空に非ず仮に非ず、中に非ず即空、即仮、即中などと申し、不可思議境といふのであります。
 かように思議することは難しく諦理として会得も容易ではないので一心三観といふことがいはれています。此れは慧文の唱へたところであります。我々が自分の心を観ずると有るかと思へば無く、無いかと思へば有る、無に非ず、有に非ず、しかも有であり無である。これを観ずれば実相を領解することができるといふのであります。
 この一心三観を更に大成したのが天台大師の一念三千であります。しかして此が理観であるのに対し、事観を立ち、直ちにその境に衆生をして達せしめられるのが日蓮大聖人の三大秘法であります。 

               (昭和29年6月 大白蓮華誌)

難しいですけど、何回も読み込んでいくと、段々分かってくると思います。

参考までに、八不中道を。直接、龍樹(りゅうじゅ)の言葉を引用してみますね。

滅することなく生ずることなく(不生不滅)、(死後)断滅することなく永遠ではなく(不断不常)、同じではなく異なることなく(不一不異)、来るのでもなく去るのでもなく(不来不去)、戯論が寂滅する、吉祥なる、縁起を説いた正覚者(ブッダ)に対し、最高の説法者として、わたしは敬礼する。(『中論頒』帰敬偈)

不生不滅(ふしょうふめつ)、不断不常(ふだんふじょう)、不一不異(ふいつふい)、不来不去(ふらいふこ)、と八つの項目を否定して「中なる道」(=弁証法)を行くので、八不中道(はっぷちゅうどう)と言うのですね。

空は「全体としては有る。が、全体の内部は時々刻々と変化している」ということ。

そして、「全体」とはすなわち、宗教的に言えば、一者としての根本仏(根本神)であり、真理(最高のイデア)そのものである、ということです。

多次元世界をも含めた、文字通りの「全体」です。

一切は、その「全体」の内部にあるということ。

その、「全体=一者=真理」が内部矛盾を包含しながら、さまざまに変転変化をしている。そして、変転変化の過程で、真理自体が生成発展していく、ということです。

そして、その内部矛盾→生成発展の原理・構造が弁証法ということです。

また、弁証法は仏教的には「中道」と言い換えることもできます。

不生不滅(ふしょうふめつ)
一者は「在りて有るもの」であるから、最初から在る(有る)。ゆえに、生じたこともなければ、滅することもない。

不断不常(ふだんふじょう)
一者は、その内部において、常に変転変化していく。ゆえに、断ずるということでもなく、常なるものでもない。

不一不異(ふいつふい)
一者は、一者自体が変化の過程にあるので、同一の有り様をしているわけではない。ゆえに、一とも言えず、それでいて、(一という観点で統一されているので、)異なるとも言えない。

不来不去(ふらいふこ)
一者は、全体であるがゆえに「時間」をも包含している。ゆえに、来ることもなければ去るということもない。

このように、四つの二重否定(計、八つ)によって、より高次の”本質”を抽出→総合して、最高のイデアを浮かび上がらせていくわけです。

なぜ、否定論法を使うかというと、肯定論法では、「〜である」と静的なものになってしまって、動的な一者を表現できないからです。肯定した瞬間に、「〜である」と静的になってしまいますよね。

一方、否定は「〜ではなく…」と、それ自体に、運動を含みます。動的、ダイナミクスですね。

このダイナミクスこそが空を理解するポイントなんです。

お分かりでしょうか?

・・・どうしたって難しいですよね。

ただ、難しくはあるけれども、知的に把握することは可能です。

これをさらに、どれだけ実践と瞑想のなかで腑に落とせるか。それが「悟り」なんです。

三学を思い出してみましょう。戒・定・慧(かい・じょう・え)の順番でしたね。智慧の発生の順序です。
戒→実践
定→瞑想
慧→智慧(「空」の理解)
ということです。

悟りとは、空を理解すること。そして、空を理解することを、般若の智慧と言い換えることができると思います。

真なるものは全体である。しかし全体とは、ただ自己展開を通じて己れを完成する実在のことにほかならない。
(『精神現象学ヘーゲル

  • テーゼ:苦の本質的部分…おのれに厳しくある(智慧の前提)
  • アンチテーゼ:楽の本質部分…喜び・優しさも大事にする(慈悲の前提)
  • ジンテーゼ:中道の悟り…智慧の獲得と慈悲の発揮

弁証法とは簡単に言うと、対立概念を高次元からとらえなおすことです。

  • コップを上から見ると円形。(正)
  • 横から見ると長方形。(反)
  • 立体という視点で見ると、円筒形(合)

それで、最後に"一念三千"について。

 

一念三千  いちねんさんぜん

 

一念三千とは、一念の心に三千の諸法を具足することをいいます。

この法理は、天台大師が法華経『方便品第二』に示されている十如実相(じゅうにょじっそう)の文をもとにして『摩訶止観(まかしかん)』で体系化して説いたものです。

一念三千の構成を挙げると、刹那(せつな)の一念に十の法界があり、その十界各々に十界がそなわって、百界となり、さらに十如是(じゅうにょぜ)がそなわって千如是となり、千如是に三世間がそなわり三千世間となります。

 

十界

十界とは、十法界ともいい、地獄(じごく)・餓鬼(がき)・畜生・修羅(しゅら)・人間・天上・声聞(しょうもん)・縁覚(えんがく)・菩薩・仏の十種類の境界(きょうがい)をいいます。ここでいう境界とは、他と異なるある領域の状態をいいます。

1)地獄界=瞋(いかり)と苦悩(くのう)の境界。

2)餓鬼界=飢渇(けかち)と貧欲(とんよく)から起こる満たされな

い境界。

3)畜生界=理性を欠き、癡(おろ)かにして本能的欲求によって

行動する境界。

4)修羅界=常に他に勝ることを思い、怒りへつらう境界。

5)人間界=人界ともいい、穏やかで落ち着いた境界。

6)天上界=天界ともいい、永続性のない快楽の境界。

7)声聞界=仏の法を聞き、煩悩(ぼんのう)を断尽(だんじん)して

小乗の悟りを得る境界。

8)縁覚界=独覚(どっかく)ともいい、理を観じ自然現象を縁とし

て小乗の悟りを得る境界。

9)菩薩界=自らの悟りを求めるとともに、衆生を救済しようとす

る境界。

10)仏 界=一切諸法の真実の相に通達(つうだつ)した尊極無

上(そんごくむじょう)の大慈悲の境界。

 

この十界に、それぞれ十界がそなわって百界となり、これによって今まで成仏できないとされてきた声聞・縁覚の二乗はもとより、十界すべての衆生に仏界がそなわることが明かされたのです。

 

十如是(じゅうにょぜ)

 

法華経『方便品第二』に、

「唯(ただ)仏と仏とのみ、乃(いま)し能(よ)く諸法の実相を究尽(くじん)したまえり。所謂(いわゆる)諸法の如是相(そう)、如是性(しょう)、如是体(たい)、如是力(りき)、如是作(さ)、如是因(いん)、如是縁(えん)、如是果(か)、如是報(ほう)、如是本末究竟等(ほんまっくきょうとう)なり」(開結89)

とあります。これは十界それぞれの境界における具体的な生命活動として、十の働きがあるということです。

 1)如是相=外面に現れた姿。

 2)如是性=内面の性質。

 3)如是体=事物の実体。

 4)如是力=事物に内在している力。

 5)如是作=事物に内在する力が、他に向かって作用を及ぼす

こと。

 6)如是因=果を招く内因。

 7)如是縁=因によって果を招くときに働く外界の助縁。

 8)如是果=因と縁との和合により生ずる結果。

 9)如是報=果によって受けるところの報い。

 10)如是本末究竟等=はじめの「相」を本(もと)とし、終わりの「報」を末(まつ)として、この九如是が常に究竟し、一体となって等しい状態であること。

 

三世間

 

 世間とは差別の義をいい、これに五陰(ごおん)・衆生・国土の三種があります。

1)五陰世間=五陰とは色(しき)・受(じゅ)・想(そう)・行(ぎょう)・識(しき)の五つをいい、色とは身体及び物質、受とは感受作用、想とは心に浮かぶ表象(ひょうしょう)作用、行とは意志あるいは欲求、識とは認識作用のこと。すなわち、色心の二法の差別相をいう。

2)衆生世間=五陰によって形成された衆生の生命に十界の差別があること。すなわち正報(しょうほう→生を営む主体)の差別相をいう。

3)国土世間=十界の衆生の住所に、それぞれの差別があること。すなわち依報(えほう→正報の依りどころとなる国土・環境)の差別相をいう。

 これら十界・十如是・三世間によって構成される一念三千は、迹門・本門・文底(もんてい)の立て分けがあります。

 

迹門の一念三千

 

 迹門の一念三千は、『方便品第二』に説かれた「諸法実相」の文により、凡夫(ぼんぶ)の己心(こしん)にそなわる三千の妙理を明かされたものであり、十界互具(ごぐ)の理を観ずるので「理の一念三千」といいます。

 この理の一念三千を説く仏は始成正覚(しじょうしょうがく)の仏であり、本門の仏に対すれば、いまだ真実の仏ではありません。したがって日蓮大聖人は、迹門に説かれる一念三千は有名無実(うみょうむじつ)であり、熟益(じゅくやく)の教法と判ぜられています。

 

本門の一念三千

 

 本門の一念三千は、『如来寿量品第十六』に至って久遠実成(くおんじつじょう)が説かれ、釈尊の本因(ほんにん)・本果・本国土に約して事実のうえで仏の三世常住(さんぜじょうじゅう)が明かされたので、「事の一念三千」といいます。

 これによって釈尊在世の衆生は仏の常住の化導を聴聞(ちょうもん)して、仏の永遠の生命と自らの生命とが同体であることを覚知(かくち)することができました。これを大聖人は釈尊仏法の極理(ごくり)とし、脱益(だっちゃく)の教法と決判(けっぱん)されています。

 

文底の一念三千

 

 文底の一念三千とは、大聖人が、

 「一念三千の法門は但(ただ)法華経の本門寿量品の文(もん)の底にしづめたり」(開目抄526)

と仰せられるように、寿量品の文底に秘沈(ひちん)された法門であり、久遠元初の御本仏が即座開悟(そくざかいご)された南無妙法蓮華経のことをいいます。この南無妙法蓮華経は、御本仏として末法に出現された日蓮大聖人が所有されている文底独一本門(どくいちほんもん)・人法一箇(にんぽういっか)の事の一念三千の実体です。

 この文底・事の一念三千を大聖人は、

 「一念三千の法門をふりすすぎたてたるは大曼荼羅(だいまんだら)なり」(草木成仏口決523)

と仰せのように、末法衆生を済度するため究竟の法体として本門戒壇(かいだん)の大御本尊を建立されました。この大御本尊こそ日蓮大聖人の御当体であり、末法衆生は、この大御本尊を信じ奉り南無妙法蓮華経と唱えるとき、仏界即九界・九界即仏界、境智冥合(きょうちみょうごう)して即身成仏することができるのです。

 したがって前の本迹二門の一念三千は、日蓮大聖人の文底・事の一念三千に対すれば、ともに文上・理の一念三千となります。

カミュドストエフスキーユゴーの作品を読むと、不条理に見える世界で呻吟する主人公たちに出会います。

でも、仏法を日蓮正宗で学べば、その一段深い真理に到達できるのです。

世界文学の読み方が変わってきます。

 

異邦人 (新潮文庫)

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  • 作者:カミュ
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 1963/07/02
  • メディア: 文庫
 
ペスト (新潮文庫)

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  • 作者:カミュ
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 1969/10/30
  • メディア: ペーパーバック
 
転落・追放と王国 (新潮文庫)

転落・追放と王国 (新潮文庫)

  • 作者:カミュ
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2003/04/23
  • メディア: 文庫
 

 

 

精神現象学 上 (ちくま学芸文庫)

精神現象学 上 (ちくま学芸文庫)

 
精神現象学 下 (ちくま学芸文庫)

精神現象学 下 (ちくま学芸文庫)

 

 

 

カラマーゾフの兄弟〈上〉 (新潮文庫)

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カラマーゾフの兄弟〈中〉 (新潮文庫)

カラマーゾフの兄弟〈中〉 (新潮文庫)

 
カラマーゾフの兄弟〈下〉 (新潮文庫)

カラマーゾフの兄弟〈下〉 (新潮文庫)