1016夜:創価ダメ出しさんに学ぶ御講拝読御書
創価ダメ出しさん、いつもありがとうございます。
今月も仕事で御講に参詣できませんでしたので、創価ダメ出しさんのブログから勉強させていただきます。
御講拝読御書研鑽(2021年4月・開目抄)
大願を立てん日本国の位をゆづらむ、法華経をすてて観経等について後生をごせよ、父母の頚を刎ん念仏申さずば、なんどの種種の大難出来すとも智者に我義やぶられずば用いじとなり、其の外の大難風の前の塵なるべし、我日本の柱とならむ我日本の眼目とならむ我日本の大船とならむ等とちかいし願やぶるべからず。
今月の御講拝読御書は「開目抄(下)」でした。開目抄については以前「題号だけの御書講義」という記事を書きました。
題号だけの御書講義①(開目抄)
では、今回の拝読範囲の研鑽をしていきたいと思います。まず【大願を立てん】とありますが、大聖人の立てた大願の内容とは◆御義口伝に云く大願とは法華弘通なり(御義口伝巻上)と言われているように顕正会のいうような「国立戒壇の建立」などはなく「法華弘通」です。これが大聖人の大願ですから当然大聖人の御遺命も「国立戒壇」ではなく「法華弘通」です。何故かと言えば「法華弘通」こそが一切衆生成仏の方法だからです。そして具合的に何を弘通するかといえば「本尊」です。本文で【我日本の柱とならむ我日本の眼目とならむ我日本の大船とならむ等とちかいし願やぶるべからず】とありますが、この部分は「柱=主徳」「眼目=師徳」「大船=親徳」と大聖人が主師親三徳具備のご本仏であられることを明かしていて、この「主師親三徳」とは、◇三徳有縁を本尊と為すべし(末法相応抄下)と日寛上人のご指南にあるように、大聖人の色心二法であり「本尊」なのです。ここでいう「有縁」とは末法の衆生に「縁がある」という意味です。この辺については「六巻抄」の学習の時にまた詳しく書きますが、大聖人の色心二法の本尊とは戒壇大御本尊ですから、この戒壇大御本尊に備わる仏力・法力即三徳の功徳を弘通することが大聖人の大願であり御遺命であり我等門下の使命であり誓願です。そして「法華弘通(折伏)」の上で大切な心構えを【智者に我義やぶられずば用いじとなり】と言われています。もとより大聖人の法門法義が他者に破られることはありません。それは700年来の宗門の歴史を見ても明らかです。それを確信することが破邪顕正の折伏を行う上でのキモです。折伏・対論で反論できないことも有るかもしれませんが、それは自身の勉強不足だけの話であり決して大聖人仏法の法門法義が不完全なわけではないのです。その時に自分が反論できなくても学べば必ず邪義を破折することができますから自信をもって破邪顕正の折伏を実践していくことが大切です。さて今回は、【法華経をすてて観経等について後生をごせよ、父母の頚を刎ん念仏申さずば、なんどの種種の大難出来すとも】の部分を深堀りしたいと思います。今回拝読部分の直前に◆善に付け悪につけ法華経をすつるは地獄の業なるべしと書かれていますが、当該部分を日寛上人は文段の中で◇「『日本国の位を譲らむ』とたばかるは善につけてなり。『父母の頸をはねん』とおどすは悪につけてなり。是れ世間の極善・極悪を挙ぐるなり」と解説されています。「謀り」と「脅し」とはまさに創価や顕正などが会員に対して行う常套手段ですね。「この信心(創価の信心)をすれば必ず幸福になる」とたばかり、「創価を辞めたら地獄に落ちる」と脅すわけです。それはさて置き私が今まで見て来たり自分を振り返る時に思うのは信心が停滞してしまう原因は「善悪」二つのパターンがあって二つのタイプの人がいます。自分の願いが叶ったり悩みが解決したり又仕事や遊びが充実して楽しくなると信心が疎かになってしまう「善につけて信心が停滞するタイプ」と悩みがたくさんあって毎日が苦しくなったり精神的に弱ってしまうと「信心なんてしている場合じゃない」といって信心が疎かになる「悪につけて信心が停滞するタイプ」です。私はどちらかというと「善につけて停滞するタイプ」かもしれません。だから日々の苦悩がなくならないのかな?なんて思います(涙目)どんな時でも信心を根本にすることが大切ですよね。苦悩の最中でも大聖人を信じ歯噛みしながら題目を唱え、功徳に溢れていたら報恩感謝の心で題目を唱える。◆苦をば苦とさとり楽をば楽とひらき苦楽ともに思い合せて南無妙法蓮華経とうちとなへゐさせ給へこれあに自受法楽にあらずや(四条金吾殿御返事)これが信心というものなんだと今更ながらに思います。またいかなる理由があろうとも末法の主師親三徳の当体である戒壇大御本尊を捨てれば地獄の業を積みます。仮に創価本尊でも功徳が出たとしても戒壇大御本尊を捨てれば地獄行きの業を積むわけです。創価本尊で功徳が出るから大御本尊は必要ないなどいうロジックは間違っているし通用しない。それが大聖人の御妙判なのです。ともあれ我等大聖人門下は楽しくても苦しくても自行化他の唱題を重ね大聖人の大願を受け継いでいくのが大切で、そこに即身成仏・一生成仏があるのです。私もそのことにようやく気が付きつつあるところまではきました。なので最近では「飲む前に夕勤行」ができるようになりました(笑)
今月の御講拝読御書は「開目抄(下)」でした。開目抄については以前「題号だけの御書講義」という記事を書きました。
題号だけの御書講義①(開目抄)
では、今回の拝読範囲の研鑽をしていきたいと思います。まず【大願を立てん】とありますが、大聖人の立てた大願の内容とは◆御義口伝に云く大願とは法華弘通なり(御義口伝巻上)と言われているように顕正会のいうような「国立戒壇の建立」などはなく「法華弘通」です。これが大聖人の大願ですから当然大聖人の御遺命も「国立戒壇」ではなく「法華弘通」です。何故かと言えば「法華弘通」こそが一切衆生成仏の方法だからです。そして具合的に何を弘通するかといえば「本尊」です。本文で【我日本の柱とならむ我日本の眼目とならむ我日本の大船とならむ等とちかいし願やぶるべからず】とありますが、この部分は「柱=主徳」「眼目=師徳」「大船=親徳」と大聖人が主師親三徳具備のご本仏であられることを明かしていて、この「主師親三徳」とは、◇三徳有縁を本尊と為すべし(末法相応抄下)と日寛上人のご指南にあるように、大聖人の色心二法であり「本尊」なのです。ここでいう「有縁」とは末法の衆生に「縁がある」という意味です。この辺については「六巻抄」の学習の時にまた詳しく書きますが、大聖人の色心二法の本尊とは戒壇大御本尊ですから、この戒壇大御本尊に備わる仏力・法力即三徳の功徳を弘通することが大聖人の大願であり御遺命であり我等門下の使命であり誓願です。そして「法華弘通(折伏)」の上で大切な心構えを【智者に我義やぶられずば用いじとなり】と言われています。もとより大聖人の法門法義が他者に破られることはありません。それは700年来の宗門の歴史を見ても明らかです。それを確信することが破邪顕正の折伏を行う上でのキモです。折伏・対論で反論できないことも有るかもしれませんが、それは自身の勉強不足だけの話であり決して大聖人仏法の法門法義が不完全なわけではないのです。その時に自分が反論できなくても学べば必ず邪義を破折することができますから自信をもって破邪顕正の折伏を実践していくことが大切です。さて今回は、【法華経をすてて観経等について後生をごせよ、父母の頚を刎ん念仏申さずば、なんどの種種の大難出来すとも】の部分を深堀りしたいと思います。今回拝読部分の直前に◆善に付け悪につけ法華経をすつるは地獄の業なるべしと書かれていますが、当該部分を日寛上人は文段の中で◇「『日本国の位を譲らむ』とたばかるは善につけてなり。『父母の頸をはねん』とおどすは悪につけてなり。是れ世間の極善・極悪を挙ぐるなり」と解説されています。「謀り」と「脅し」とはまさに創価や顕正などが会員に対して行う常套手段ですね。「この信心(創価の信心)をすれば必ず幸福になる」とたばかり、「創価を辞めたら地獄に落ちる」と脅すわけです。それはさて置き私が今まで見て来たり自分を振り返る時に思うのは信心が停滞してしまう原因は「善悪」二つのパターンがあって二つのタイプの人がいます。自分の願いが叶ったり悩みが解決したり又仕事や遊びが充実して楽しくなると信心が疎かになってしまう「善につけて信心が停滞するタイプ」と悩みがたくさんあって毎日が苦しくなったり精神的に弱ってしまうと「信心なんてしている場合じゃない」といって信心が疎かになる「悪につけて信心が停滞するタイプ」です。私はどちらかというと「善につけて停滞するタイプ」かもしれません。だから日々の苦悩がなくならないのかな?なんて思います(涙目)どんな時でも信心を根本にすることが大切ですよね。苦悩の最中でも大聖人を信じ歯噛みしながら題目を唱え、功徳に溢れていたら報恩感謝の心で題目を唱える。◆苦をば苦とさとり楽をば楽とひらき苦楽ともに思い合せて南無妙法蓮華経とうちとなへゐさせ給へこれあに自受法楽にあらずや(四条金吾殿御返事)これが信心というものなんだと今更ながらに思います。またいかなる理由があろうとも末法の主師親三徳の当体である戒壇大御本尊を捨てれば地獄の業を積みます。仮に創価本尊でも功徳が出たとしても戒壇大御本尊を捨てれば地獄行きの業を積むわけです。創価本尊で功徳が出るから大御本尊は必要ないなどいうロジックは間違っているし通用しない。それが大聖人の御妙判なのです。ともあれ我等大聖人門下は楽しくても苦しくても自行化他の唱題を重ね大聖人の大願を受け継いでいくのが大切で、そこに即身成仏・一生成仏があるのです。私もそのことにようやく気が付きつつあるところまではきました。なので最近では「飲む前に夕勤行」ができるようになりました(笑)
題号だけの御書講義①(開目抄)の記事もアップさせてもらいますね。
題号だけの御書講義①(開目抄)
今月の創価の座談会御書の「開目抄」ですが、前回「創価教じゃない御書講義」では書きれなかった部分があるので改めて「開目抄」について話したいと思います。といっても本文全体だとかなりの量になってしまいますので「題号だけ」の御書講義にします。大聖人の御書には題号の中に法門が隠されている御書が多々ありますが「開目抄」もそのうちの一書です。まず日寛上人は文段で、
◇開目抄と題することは、盲目を開く義なり乃至一切衆生をして盲目を開かしむるの相を明かす、故に開目抄と名づくるなり。
とご指南されています。「一切衆生の盲目を開く書」というのが「開目抄」の題号の読み方です。そして【盲目】とは文段には
◇盲目とは四人を出でず。一には外典の人、二には爾前の人、三には迹門の人、四には脱益の人なり
の四種類の人を挙げています。外典の人とは、「外道の三徳」に執着して「内道(仏法)」の三徳を見ない。(内外相対)池田師匠に執着する学会員などはさながらコレですね。以降は同じで爾前の三徳に執して法華の三徳をみない。(大小・権実相対)法華迹門の三徳に執して本門の三徳を見ない(本迹相対)そして4番目は法華文上即ち釈迦仏法の三徳に執して文底の三徳である日蓮大聖人を見ない。これらの人達を「盲目の人」といいます。この中でも4番目の文底の三徳である日蓮大聖人即人本尊を示すことが「開目抄」の意です。次に【開】ですが文段では
◇「開」とは即ち二意を含む。一には所除、二には所見なり。
と「開」の字に二義があるとご指南されています。「所除」とは「執着」を取り除くことで「破邪」にあたります。「所見」とは正しい三徳を見せる(示す)ことで「顕正」です。従って「所除と所見」の破邪顕正の二つが揃ってこそ完璧な「開目」になるのです。「目を開ける」だけでは片手落ちで「目を開けたら正しいものを見る」という事です。我々の信心の即していえば入信し御本尊を安置しただけでは「所除」です。御本尊に日々の勤行唱題をして初めて「所見」になりますし、また親しく戒壇大御本尊にお目通りすることも重要な「所見」になります。またこれらの「自行」は大きく言えば全て「所除」であり、化他行たる「折伏」をすることが「所見」となります。自行に置いては「勤行唱題」の実践があって「開目」であり、さらに「自行」と「折伏(化他行)」の実践が「開目抄」を身で読むということです。さて「開」とはまた「開会」という意味のあります。この「開」には「能開」と「所開」があります。「能開」とは目を開かせる側で「所開」とは目を開いてもらう側の事です。この「能開」をする人が文底の三徳である日蓮大聖人です。「報恩抄」で
◆日蓮が慈悲曠大ならば南無妙法蓮華経は万年の外未来までもながるべし、日本国の一切衆生の盲目をひらける功徳あり、無間地獄の道をふさぎぬ
と仰せのように【日本国の一切衆生の盲目をひらける功徳あり】とは「開目」のことで、これは「師徳」です。そしてこの師徳によって【無間地獄の道をふさぎぬ】ですからこれが「主徳」で【日蓮が慈悲曠大ならば】とは「親徳」で三徳具備のご本仏である大聖人が「能開の教主」であるということです。「開目抄」の題号はこの「報恩抄」の御妙判と投影して読めば大聖人がご本仏であり人本尊であることがよくわかると思います。別しては大聖人が能開でありますが、総じていえば血脈相承の歴代上人は能開で正宗僧俗は所開、法主上人とご僧侶方が能開とすれば我々信徒は所開となります。これが「能所」の違いでありこの節目を違えないのが仏法です。これを創価は「僧俗差別」などと呼んでいますがこれは差別ではなく「能所」の区別なのです。創価民はそれが全く理解でないのです。だから僧俗の違いも分からないし御本尊の区別もつかないつかない。何でも「みな平等」「みな変わりない」と「平等」を主張していれば正しいと思っている。全て最初から「平等」ならば本尊も師匠も不要なのです。そんな創価民・顕正民と対すれば、折伏・弘教に励む法華講衆は「能開」であり、「盲目の学会員」「盲目の顕正会」は「所開」となります。何も見えていない創価民や顕正民の盲目を取り除き正しく三徳具備のご本仏の体である戒壇大御本尊を見せることが根本の「能開の教主」(能化)である日蓮大聖人の仏法を正しく信仰することになります。先ほども書きましたが、自行である勤行唱題をし化他行である折伏弘教をすることが我々大聖人門下の本当に意味での「開目」です。まだ色々と書きたいことはありますが、あとは各自で個人研鑽しましょう。御書を読むのも「所見」ですから。
◇開目抄と題することは、盲目を開く義なり乃至一切衆生をして盲目を開かしむるの相を明かす、故に開目抄と名づくるなり。
とご指南されています。「一切衆生の盲目を開く書」というのが「開目抄」の題号の読み方です。そして【盲目】とは文段には
◇盲目とは四人を出でず。一には外典の人、二には爾前の人、三には迹門の人、四には脱益の人なり
の四種類の人を挙げています。外典の人とは、「外道の三徳」に執着して「内道(仏法)」の三徳を見ない。(内外相対)池田師匠に執着する学会員などはさながらコレですね。以降は同じで爾前の三徳に執して法華の三徳をみない。(大小・権実相対)法華迹門の三徳に執して本門の三徳を見ない(本迹相対)そして4番目は法華文上即ち釈迦仏法の三徳に執して文底の三徳である日蓮大聖人を見ない。これらの人達を「盲目の人」といいます。この中でも4番目の文底の三徳である日蓮大聖人即人本尊を示すことが「開目抄」の意です。次に【開】ですが文段では
◇「開」とは即ち二意を含む。一には所除、二には所見なり。
と「開」の字に二義があるとご指南されています。「所除」とは「執着」を取り除くことで「破邪」にあたります。「所見」とは正しい三徳を見せる(示す)ことで「顕正」です。従って「所除と所見」の破邪顕正の二つが揃ってこそ完璧な「開目」になるのです。「目を開ける」だけでは片手落ちで「目を開けたら正しいものを見る」という事です。我々の信心の即していえば入信し御本尊を安置しただけでは「所除」です。御本尊に日々の勤行唱題をして初めて「所見」になりますし、また親しく戒壇大御本尊にお目通りすることも重要な「所見」になります。またこれらの「自行」は大きく言えば全て「所除」であり、化他行たる「折伏」をすることが「所見」となります。自行に置いては「勤行唱題」の実践があって「開目」であり、さらに「自行」と「折伏(化他行)」の実践が「開目抄」を身で読むということです。さて「開」とはまた「開会」という意味のあります。この「開」には「能開」と「所開」があります。「能開」とは目を開かせる側で「所開」とは目を開いてもらう側の事です。この「能開」をする人が文底の三徳である日蓮大聖人です。「報恩抄」で
◆日蓮が慈悲曠大ならば南無妙法蓮華経は万年の外未来までもながるべし、日本国の一切衆生の盲目をひらける功徳あり、無間地獄の道をふさぎぬ
と仰せのように【日本国の一切衆生の盲目をひらける功徳あり】とは「開目」のことで、これは「師徳」です。そしてこの師徳によって【無間地獄の道をふさぎぬ】ですからこれが「主徳」で【日蓮が慈悲曠大ならば】とは「親徳」で三徳具備のご本仏である大聖人が「能開の教主」であるということです。「開目抄」の題号はこの「報恩抄」の御妙判と投影して読めば大聖人がご本仏であり人本尊であることがよくわかると思います。別しては大聖人が能開でありますが、総じていえば血脈相承の歴代上人は能開で正宗僧俗は所開、法主上人とご僧侶方が能開とすれば我々信徒は所開となります。これが「能所」の違いでありこの節目を違えないのが仏法です。これを創価は「僧俗差別」などと呼んでいますがこれは差別ではなく「能所」の区別なのです。創価民はそれが全く理解でないのです。だから僧俗の違いも分からないし御本尊の区別もつかないつかない。何でも「みな平等」「みな変わりない」と「平等」を主張していれば正しいと思っている。全て最初から「平等」ならば本尊も師匠も不要なのです。そんな創価民・顕正民と対すれば、折伏・弘教に励む法華講衆は「能開」であり、「盲目の学会員」「盲目の顕正会」は「所開」となります。何も見えていない創価民や顕正民の盲目を取り除き正しく三徳具備のご本仏の体である戒壇大御本尊を見せることが根本の「能開の教主」(能化)である日蓮大聖人の仏法を正しく信仰することになります。先ほども書きましたが、自行である勤行唱題をし化他行である折伏弘教をすることが我々大聖人門下の本当に意味での「開目」です。まだ色々と書きたいことはありますが、あとは各自で個人研鑽しましょう。御書を読むのも「所見」ですから。
御書を読むというのは、信徒の修行としては最重要事項です。
でも、勝手読みは謗法のもと。
創価ダメ出しさんは、日寛上人様の六巻抄と御書文段を背景として会通してくださいますので、安心して読むことができます。
他門や異流儀が日寛上人様を目の敵としているのは、耳が痛いからでしょうね。
私事ですが、待望の日蓮正宗聖典が本日届きます。
座右の書として、一生かけて学んでいく所存です。