日蓮正宗のススメ

万民一同に南無妙法蓮華経と唱え奉らば吹く風枝をならさず雨壤を砕かず

キリスト教の懺悔と仏法の懺悔滅罪

【定業すら能く能く懺悔すれば必ず消滅す。何に況んや不定業をや。】
 キリスト教の懺悔と仏法の懺悔滅罪


 《平成三十年四月二十八日 支部総会の砌》
 みなさん、第28回慈本寺支部総会、誠におめでとうございます。
 本日は快晴の中、総会が開催でき大変嬉しく思う次第です。
 また、先程は会計報告のS・Mさん、監査のS・Kさん・貴重な体験発表をして下さいました、T・Kさん・K・Fさん、さらには、日頃の折伏活動の様子を寸劇で披露して下さった有志の皆さん、誠にありがとうございました。
 この寸劇は、自発的に企画され、皆さんに披露するに至りました。お聞きの通り、皆さんとても上手で、寸劇で終わるのは勿体ないくらいです。来年は、演劇でも良いのではと拝見していて思いました。
 本日お集まりの皆さんが、それぞれ心に留めて、今後の信心の資糧(かて)にしていただきたいと思う次第です。

 さて、今回は総会にあたり、初心の方へも日蓮正宗の教えを分かりやすくお伝えするために
キリスト教の懺悔と仏教の懺悔滅罪』
と題してお話をします。

 

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顔を隠して懺悔の後身。怖いわ!

【はじめに】  
 一般に懺悔とは、自分の犯した罪や過ちを悔い改め、神仏や他人に赦(ゆ)しを乞う行為をいいます。今回は、特にキリスト教日蓮大聖人様の仏法で説かれる懺悔について述べることにいたします。


キリスト教における懺悔】
 キリスト教に於ける、懺悔とは「神の意志」に反したことを、「告白」という形で聖職者に告げたり、あるいは、直接神に祈るなどの方法をもって罪の赦しを請うことを言います。つまり、自分は罪深い存在であることを認め表明し、神の意志に忠実に従うという契約を再確認することが懺悔の意味といえます。また、この懺悔によって罪は赦されるとされます。
  キリスト教では、特に「人類は本来罪深い存在なのだ」と、「罪の意識」を徹底して強調します。そしてこの呪縛から、容易に抜け出せなくなってしまうのです。このことは、長い年月の中で、宗教の名のもとに無意識の内に植え付けられてきたものですので、意識の深層の部分に浸透していると言えます。 キリスト教における懺悔とは、端的に言えば「神の意志」への服従を表明することといえます。神は全てを創造し、支配し、更に思いのままに破壊することもできる絶対的な存在であり、一方人間は、神によって創造されたものであり、神の意志に忠実に服従する時はじめて罪から解放される存在であり、「神の意志」に反する時には厳しい裁きを受けなければならない存在といえます。ここには、神と人間との絶対的な差別が存します。

 

【仏教一般における罪】  
 一方、仏教における罪は、業の考え方に基づいています。仏教では、各人の生命が過去・現在・未来の三世にわたって続いていると説いています。現在の業の原因をその人自身の過去の行いに求めます。
 仏教に於ける罪とは、過去世における身口意の三業によってなされた悪い行いのことを言います。なぜ悪い行いをしてしまうかと言えば、それは煩悩が原因であるとします。
 貪瞋痴等の煩悩が元となって正しい道に迷い、悪い行いを積み重ねることが原因となって、現在に苦を受けるというのが仏教の因果応報の教えです。
 ここでは、全ての原因も結果も自分自身の行為が基本となっているという点で、キリスト教で説く罪の因果と大きな相異があります。
 端的にいえば、キリスト教では自己の現在の運命を定めた責任を神に転嫁(てんか)しているといえます。仏教では、自己に対する責任を、神といった他者に転ずるのでなく、全面的に自己にあるとする点で、因果の道理にかなっていると言えます。キリスト教では、自分の罪をイエス・キリストが贖(あがな)って死んだといいますが、これでは最終的な罪に対する責任を自分で負わなくてもよいことになり、自己の行いに対する責任という点で因果の道理にかなっていません。


【大聖人の仏法における罪】  
 仏法では、人間をはじめとした全ての存在に本来仏界という仏が悟られた生命の実相の根本と同じ生命を備えていると説きます。私達の不幸の根本原因である煩悩は、この仏界の生命を覆い隠しているものだといえます。丁度、鏡につく曇りに例えられます。  
 仏界とは全ての存在が生命に内在している、清浄にして一切の煩悩に染まらない生命といえます。人間の生命には本来この仏界がそなわっているのですが、このことを仏法では「理」(理論という意味)といいます。しかし、この生命の実相を実際に悟り、また、この仏界を実際に体現する方法(修行)を示される仏様がいなければ、仏界は具わってはいても、実際の用きとしては、ないことになります。理論上存在するということと、実際に私達が生活の上に体験できるかどうかとういうことは別のことです。宗教上の救済と言うことから言うならば、後者の方が私たちにとってはより重要な問題です。
 キリスト教では、神やキリストが過去に何を修行し、いかなる道理によって何を悟り、神または救世主となったのかまったく不明であるのに対して、仏教は教主釈尊の因行と果徳を明らかに教示し、五十年の説法を通して法界の真理と人間生命の実相をあらゆる点から完璧に説き尽くしています。
 釈尊が成仏した根本の一法とは、久遠元初に我が身がそのまま法界の真理の当体なりと悟られた自受用報身如來という仏様の教えであり、この久遠元初の仏様が末法日蓮大聖人として出現されたのです。
 更に、大聖人様はご自身の悟りの当体として、大御本尊を顕わされました。  仏界の生命とは言い換えれば、人間の究極的な尊厳といえます。自己の尊厳は仏界の生命にあるといえます。この仏界の生命は全ての存在に平等に具わっているものですが、仏界の存在に気付かずにいれば、煩悩が仏界の生命を覆い隠し自己の尊厳を傷つけることになってしまいます。仏界の生命の当体は大聖人様が顕わされた御本尊様ですので、御本尊を誹謗すること、ならびに直接誹謗はしなくとも信じないことも、最終的には自己の尊厳を傷つけることになってしまうのです。
 大聖人様の仏法では、今世に於ける様々な不幸の根本原因は過去世からの謗法の罪によると説いています。
 自分は御本尊を誹謗した覚えはないと言っても、仏法の三世の生命から言えば、過去世における煩悩に汚染された自己の行為は、意識しなくとも自己の生命に悪業を積み重ねたことになります。つまり、自己の尊厳に傷を付けていたことになります。この意味から、仏法で説く罪は全て自己に責任があり、自分の三世にわたる行為にたいする責任を自分が負うという点で、まことに一貫しています。

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大石寺五重塔と満月

【大聖人の仏法における懺悔滅罪】
 大聖人様は『当体義抄』に
「正直に方便を捨て但法華経を信じ、南無妙法蓮華経と唱ふる人は、煩悩・業・苦の三道、法身・般若・解脱の三徳と転じて、」(御書694頁) と、
三大秘法の御本尊を受持し、正直な心で南無妙法蓮華経と唱える人は、
・不幸の根源である悪心(煩悩)が、そのまま仏のような清浄な生命(法身)に転ずる
・悪い行為(業)は、正しい判断力を備え、仏のような智慧(般若)に転ずる
・苦しみや悩み悲しみは、希望にみちた自在の境界(解脱)に転ずる
とお示しです。
 根本の一法である三大秘法総在の御本尊を受持し信行に励むとき一切の謗法の罪障が消滅するのです。これが大聖人様の仏法における懺悔滅罪です。  更に大聖人様は、
「業に二あり。一には定業、二には不定業。定業すら能く能く懺悔すれば必ず消滅す。何に況んや不定業をや。」(『可延定業御書』 御書760頁)
と、過去世の悪業の報いとして、今世で必ず受けなければならない苦悩であっても、御本尊に能く能く懺悔するならば必ず消滅すると仰せです。更に、
「涅槃経に転重軽受と申す法門あり。先業の重き今生につきずして、未来に地獄の苦を受くべきが、今生にかゝる重苦に値ひ候へば、地獄の苦しみぱっときへて、死に候へば人・天・三乗・一乗の益をうる事の候。」(『転重軽受法門』 御書480頁)

と、御本尊を受持し信行に励むことにより、過去の罪業を長く重く受けるべきところを転じ軽く受けることが出来ると御指南遊ばされています。
 ここに仏法の因果の理法の一貫性が端的にあらわされています。自分の過去の行為の責任を自分の責任(仏道修行…信力・行力)によって転換することを教え、同時に本来重く受けるところを軽く受けることができるという御本尊に具わる仏力・法力による救済が示されています。
 また、
「過去の謗法の罪の滅せんとて邪見の父母にせめられさせ給ふ。又法華経の行者をあだむ国主にあへり。経文明々たり、経文赫々たり。我が身は過去に謗法の者なりける事疑ひ給ふことなかれ。」(『兄弟抄』 御書981頁)

 とお示しのように、今世で遭遇する様々な信仰上の障害は、過去世の謗法罪障を消滅している過程であることを確信すべきなのです。この困難に対する心構えとして大聖人様は、
「凡夫の仏になる又かくのごとし。必ず三障四魔と申す障りいできたれば、賢者はよろこび、愚者は退くこれなり。」(『兵衛志殿御返事』 御書1184頁)
とご教示です。

 

【むすび】
 私達は、様々な困難や障害に怯(ひる)むことなく、日々の唱題・折伏によって罪障消滅がなされていることを確信し信行に励むことが大切です。
 更に、大聖人様の御当体たる大御本尊様を純真に拝し、血脈付法の御法主日如上人猊下の御指南のもと、唱題と折伏にいよいよ邁進し、折伏誓願を達成していこうではありませんか。 

平成三十年五月度 御報恩御講拝読御書

     諸 法 実 相 抄   文永十年五月十七日 五十二歳

 一閻浮提第一の御本尊を信じさせ給へ。あひ(相)かま(構)へて、あひ(相)かま(構)へて、信心つよく候ふて三仏の守護をかうむ(蒙)らせ給ふべし。行学の二道をはげみ候べし。行学た(絶)へなば仏法はあるべからず。我もいたし人をも教化候へ。行学は信心よりをこるべく候。力あらば一文一句なりともかたらせ給ふべし。
  
   (御書六六七㌻一八行目~六六八㌻三行目)

 

 

 

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