エセー Les Essais

文人思想家のブログ

PVアクセスランキング にほんブログ村 日蓮正宗のススメ - にほんブログ村

1080夜:一念三千の仏と申すは 法界の成仏と申す事にて候ぞ

f:id:ekikyorongo:20210605001500j:plain

毎日、少しずつ、仏法について学びましょう

初めに 
先日(令和元年九月八日付)、『南日本新聞』に、「ススキの穂」の写真が載っていました。この写真を見てすぐに連想・思い立ったのが、御本尊様のお題目の一つ一つの文字の先端部分が、長く延びている事です。

題目の文字はヒゲ文字では無い
このような、御本尊様の題目の文字の端が長く伸びた状態になっている……、この線に付けられた名前を「光明点」と言い、決して他宗他門で言っている様な「ヒゲ文字ではない」ということは、前回の『色心』誌上でもお話ししました。
また、これを表わすのに、日蓮正宗の僧侶の数珠に長い房が付けられている事も、説明した通りです。

僧侶の数珠になぜ長い房が? 
ところで、これを読んで下さったある僧侶から、「御本尊様のお題目の七字からは、一筋ずつの線しか延びていないよね。でも、数珠の房は、まるでススキの穂のように沢山垂れているじゃない?これ、どうしてなんだろう」と、ご質問を受けました。

薄明光線とは?
それは、この光明点は、一般的な気象現象としては「薄明光線」と呼ばれ、フリー百科事典『ウィキペディア』によれば、次の様に解説されています。
「薄明光線は、太陽が雲に隠れているとき、雲の切れ間あるいは端から光が漏れ、光線の柱が放射状に地上へ降り注いで見える現象の俗称。
通常とは逆に、雲の切れ目から 上空に向かって光が出ることもある。
おもに、地上から見た太陽の角度が低くなる早朝や夕方に見られる。
世界中の人々の間で美しい自然現象と認識されており、写真撮影における人気も高い。」
とあり、さらには、名称について、「薄明光線のほか、別名が多数ある。気象現象としては『薄明光線』、その他業種や地域環境によって様々な呼び名がある」として、その一番目に、日本古来の呼び方の『光芒』の名が挙げられています。

数珠の房は光芒
『光芒』の字を漢和辞典三省堂新漢和中辞典・長澤規矩也編)で引くと、 
「光が長くすじをひくこと。光の放射」
と出ています。
この「芒」とは、皆様ご存知のように、先に紹介した『南日本新聞』にも掲載されていた「秋のすすきの穂」のことですから、つまり「光芒」とは、「ススキの穂の形状のように、光が雲の隙間から地上や上空へ放射される姿」という、昔の日本人の感性から付けられた名前だったのです。
だから、次の写真の様に、数珠の房とススキの穂の形が、そっくりなのです。

妙法五字の光明に照らされて
つまり、御本尊様の光明点の意図するところが、妙法五字によって宇宙法界のすべて――十界の衆生は元より、山川草木に至るすべてのものが隈無く照らされて、皆本有の尊形となる姿を表現されているのを、これがそのまま、わが胸中の肉団におわすことを表わすのに、薄明光線が光芒と言われてきた事から、それになぞらえて、ススキの穂の姿をした房が、このように僧侶の掛ける数珠から垂れ下がっているのです。
光明点は、例えば雨上がりの時などに、厚く垂れ込めた雲と雲の切れ目から漏れた太陽の光線が、まだ雨でしっとりと濡れている木や草の葉っぱなどに当たって、キラキラと輝いている光景を表現しています。
このように、すべての生き物が妙法五字によって、「本来の命を生き生きと輝かせている光景」を示された御書を、より深くその意義を知るために少しばかり拾い集めてみますと、たとえば『産湯相承事』に次のような箇所があります。
「富士山の頂に登りて十方を見るに、明らかなること掌の内を見るが如く三世明白なり­­(中略)其の余れる水を四天下に灌ぐに、其の潤ひを受くる人畜・草木・国土世間悉く金色の光明を放ち、四方の草木華発き菓成る。男女座を並べて有れども煩悩無し。汚泥の中より出づれども塵泥に染まらざること、譬へば蓮華の泥より出でて泥に染まらざるが如し」(御書一七〇八~一七〇九頁)
これは、日蓮大聖人のお母さま(幼女の頃のお名前を梅菊。法名・妙蓮尊霊)が、法華経の結晶たる日蓮大聖人さまをわが腹に孕み、いよいよご出産の時を迎えられて、その時ご覧になったご夢想ですが、その中に、
「富士山の頂に登りて十方(法界)を見るに、明らかなる事、掌の内を見るが如く、三世明白なり」
とは、正しく私たちが今御本尊様を拝しているように、宇宙法界(三千の諸法・森羅万法)を御本仏の一念に縮め、凝縮し、収斂し、ここに集め来たった情景、すなわち、一念三千即自受用身の御尊容をご覧になっている姿です。

青蓮華とは睡蓮
また、阿那婆達多竜王が担いできた青蓮華(しょうれんげ――摩訶般若波羅蜜経に挙げる白蓮華・紅蓮華・黄蓮華・青蓮華と四種類ある中の、黄蓮華と青蓮華は『睡蓮』のことであるといいます。
この睡蓮にはさらに『温帯種』と『熱帯種』の二種類があり、青や紫といった鮮やかな色合いは熱帯種の特徴で、古来よりインドで崇拝されてきた神々の象徴に用いられていましたが、後に仏教にも取りいれられました。
特に、お釈迦様の目の虹彩――眼球の前面、ひとみの周りにある円盤状の膜――が青かったので、睡蓮(青蓮華)を仏眼に例えられるのです。
そう言われてみれば、その青みがかった虹彩と、青い熱帯種の睡蓮の放射状の花びらは、よく似ています。

日本ではシキミの花を青蓮華と
余談としては、一般的にあのシキミの花をも青蓮華と言われますが、そう言われる様になった経緯は、真言宗の弘法が修法の際、青蓮華の代用としてシキミの花を用いたことから、真言宗ではシキミの花を青蓮華と呼ぶようになったものが、一般にも広まったのだそうです。
さて、その青蓮華の花の先よりこんこんとわき出た水を、先ず御本仏の産湯に使い奉り、その残った水を四天下に降り注ぐと、それを浴びた人間や畜類、あるいは草や木、それに山や川、沼や湖・海までもが、皆金色の光明を放ち、四方の草木は一斉に花開いたというのです。
地上の物が水を浴びて金色に光り輝くというのは、当然太陽の光線を受けなければそうならないわけで、これもやはり雨上がりの時などに薄明光線を浴びて、あらゆるものがキラキラと輝く光景を示していると思われます。
すなわち、全てのものが本来の命を取り戻して、つまり、生き生きと蘇生した姿・いわゆる「諸法実相」を示しているのです。
「諸法」とは十界です。
「如是相」とは、表面に現われた形、姿、振舞いのこと
「如是性」は、そのものの性質、性分のこと
「如是体」とは、その本体のこと
「如是力」とは、内に秘めた力・潜在能力のこと
「如是作」とは、外に現われた作用で、つまり、力がはっきりと外に現れて動作する、それをする体の動き、働きのこと
「如是因」とは、果をまねく直接的原因のこと
「如是縁」とは、因を助ける、いわゆる補助的原因のこと
「如是果」とは、因から生じた結果のこと
「如是報」とは、果が形として現われたもののこと
「如是本末究竟等」とは、如是相を本、如是報を末として、十界の諸法それぞれ相違差別の姿がある様に見えて、この本から末へ一貫した生命現象は、究竟・物事をその極みまで突き詰めて見れば、畢竟〈つまるところ〉等しいことを表わしているのです)

シキミからタミフル
どういう意味か例を挙げてみましょう。その一つに近年の、アレクサンダー・フレミング博士によって、蜜柑の青カビから、世界初の抗生物質であるペニシリンが発見されたことです。
あるいは、シキミの猛毒の果実から抽出されるシキミ酸は、抗インフルエンザ薬「オセルタミビル」(商品名タミフル)を製造する際の出発原料となったことです。
インフルエンザ患者一人を治療するためには、一,三グラムのシキミ酸が必要とされていますが、これらは果実十三グラムから抽出される量といいます。
このように、世の中でこれまでは不用と捨て去られ、見向きもされなかったものの中に、実は人類の長年の懸案事項であったものを解決する凄い力が含まれており、私達人類の幸福に大いに貢献しうるものがあることを、その可能性を秘めている事を示しているのです。こういう例は、枚挙に暇がありません。

一つ一つが仏の命の顕現
一つ一つのこの世の存在が皆仏の命の顕現であり、他の衆生を利益あそばされているお振舞であることを『総在一念抄』にも、
「問うて云はく、成仏の時の三身とは其の義如何。我が身の三千円融せるは法身なり。此の理を知り極めたる智慧の身と成るを報身と云ふなり。此の理を究竟して、八万四千の相好より虎狼野干の身に至るまで、之を現じて衆生を利益するを応身と云ふなり。此の三身法華経に説いて云はく『如是相如是性如是体』云々。相は応身、性は報身、体は法身なり。此の三身は無始より已来我等に具足して欠減なし。
悟りの仏と云ふは此の理を知る法華経の行者なり」(御書一一五頁)
と、御本尊さまには、この三身如来の事が顕わされているのです。
「十界の依正の当体、悉く一法ものこさず妙法蓮華経のすがたなりと云ふ経文なり」(諸法実相抄六六四頁)
十界という一切生きとし生けるものすべて、又それらの居住空間、これ妙法蓮華経という御本仏のお姿であり、十界おのおのを利益あそばされるために現わされた御身、即応身如来なのです。
ですから、更に同書の六六五頁に、
「さてこそ諸法と十界を挙げて実相とは説かれて候へ。実相と云ふは妙法蓮華経の異名なり。諸法(十界)は妙法蓮華経と云ふ事なり」
我等が本来は尊極の当体であることを証するもう一つは、『御講聞書』の次の御文でしょう。

女人・妙・釈尊一体の事
「仰せに云はく、女人は子を出生す。此の出生の子、又子を出生す。此くの如く展転して無数の子を出生せり。此の出生の子に善子もあり、悪子もあり、端厳美麗の子もあり醜陋の子もあり、長のひきゝもあり大なる子もあり、男子もあり女子もあり云々。
所詮妙の一字より万法は出生せり。地獄もあり餓鬼もあり乃至仏界もあり、権教もあり実教もあり、善もあり悪もあり、諸法を出生せり云々。
又釈迦一仏の御身より一切の仏菩薩等悉く出生せり。阿弥陀・薬師・大日等は悉く釈尊の一月より万水に浮かぶ所の万影なり。
妙楽大師云はく『妙即三千、三千即法』と。提婆品に云はく『一つの宝珠あり。価値三千大千世界なり』とは是なり云々」(御書一八五六頁)
これについて、最近の飛躍的な遺伝学の発達によって、人類は最初アフリカに生まれ、その後、子孫達が世界各地へ集団移動するにつれて、もともとみんな黒人であったものが、ヨーロッパの白人や、アジア大陸の我々黄色人種のように、肌の色が違う多様な人種へと変化していったことが突き止められています。
その最初の、現在の人類に繋がっている女性を、「ルーシー」だとか、「ミトコンドリア・イブ」だとか、先陣を争う様に発掘した人骨に名を付けて、人類学者たちは後代に名を残そうと競っています。
これらの研究成果からもうかがえることは、現代人の肌の色が違うと言っても元は同じで、ただ移り住んだ土地の緯度の違いで、紫外線をどれくらいの強さのものを、どれだけの時間受けたかで、肌のメラニン色素に濃淡が起こることで肌色が変化し、それが遺伝で伝わってきているだけなのです。
当たり前ですが、肌色が違っているだけで、人間としての価値の違いはありません。
言い方を少し換えてみれば、ここに一人の女性がいたとします。その方が子を産んで、その子がまた子を産んで、その子がまた子を産んで、ということを、人類はその営みを繰り返してきました。
その中には良い子もいれば悪い子もいる。顔かたちの美しくスタイルのよい子もいれば、みにくい子もいる。背丈の高い子もいれば低い子もいます。男もいれば女もいます。健常者もいれば障害を持っている子もいます。
この場合、私達は共通の母親から生まれた子供です。一人の母親から生まれた、子沢山の家族とも例えられるでしょう。
少々見かけが違っていたって、どの母親が子を差別して見たりするでしょう。兄弟姉妹だってそうでしょう?逆にその子が病者であれば、あまり恵まれていなければ、特にその子に心を寄せるものではないでしょうか。
大聖人様は『妙一尼御前御返事』(御書八三一頁)に経文を引かれ、
「『譬へば一人にして而も七子有り。是の七子の中に一子病に遇へり。父母の心平等ならざるに非ず。然れども病子に於いて心則ち偏に多きが如し』等云々。(中略)文の心は、人にはあまたの子あれども、父母の心は病する子にありとなり」
そんなことは、私達はとうに知っているのに、自分は特別だと自慢したり、あるいは逆に自分のことを卑しんだり、ダメだ、劣っていると勝手に思い込んだりして悩んでいます。
私は西大宣寺に赴任してきた当初、少年部からこんな質問を受けたことがありました。

「御本尊様にはどんなことが書いてあるの?」って。
そこで私は、「〈みにくいアヒルの子〉という童話を知っていますか?」と逆に質問をして、鳩が豆鉄砲くらったような顔をしている未来からの使者たちに語りかけました。
「本当は、自分は白鳥のヒナなのに、たまたま、ひょんなことからアヒル
巣の卵の中に紛れ込んでふ化したばっかりに、ほかの者達とほんの少し毛色や形が違うというだけでいじめを受け、そうかと思えば、逆に自分で自分を卑しんで、人と違っている、だから自分は劣っていると思い込んで、儚んで苦しんでいました。
でも、そんな日は長いようだけれどアッという間に過ぎて、いつのまにか、美しい親鳥の白鳥へと成長して、自由に大空を飛びまわるようになった、という話だよ。
大切なところは、『この白鳥は、本当は最初から白鳥だったんだ』ということだね。これは、わかるね。途中から、急に白鳥になったんじゃない。
これと同じように、私達はつまらないものから、突然すばらしいものに変わるのじゃ無い。もともと妙法蓮華経という仏様から生まれた、仏の子、仏子なんだよ。
大聖人様は『日妙聖人御書』(御書六〇五頁)というお手紙の中に、
『譬へば父母和合して子をうむ。子の身は全体父母の身なり。誰か是を諍ふべき。牛王の子は牛王なり。いまだ師子王とならず。師子王の子は師子王となる。いまだ人王天王とならず。今法華経の行者は〈その中の衆生は、悉く吾が子なり〉と申して教主釈尊の御子なり。教主釈尊のごとく法王とならん事難かるべからず(むずかしいことではありません)。但し不孝の者(仏様の心に背いて御本尊様に悪口を言ったり、方便の教えの念仏を信じたりしている人たち)は父母の跡をつがず(継ぐことができません)』
と、こうおっしゃっています。だから、子供が一つずつ年をとって、お父さんお母さんとそっくりの大人になる様に、必ず妙法蓮華経という、つくろわずはたらかさず(外見だけを飾って体裁をよくすることもなければ手を加えることもなしに)そのままの姿で本当の仏様になれるんだ。
このような仏様を無作三身と言うんだよ。世の中の人が知っている仏様は、少しは人間に似ている様だけれど、よくよく見れば、私達とはずいぶんかけ離れた格好をしていますよね、そう、〈人間離れしてる〉でしょう?あれは実は、《化けたる仏》といって、本当の仏のお姿ではないんです。仏様御自身も、そうおっしゃっているんです。
だから、そこにはもともと上だ下だのとの差別は無く、みんな、とっても素晴らしい宝石のようなものなんだよ。
それを教えようとしたのが、日蓮大聖人様がお顕わしくだされたこの御本尊様であり、南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経と御本尊様に向かって唱える事なんだよ。
毎日同じ事のくり返しの様だけれど、飽きたり怠けたりしないで、お父さんやお母さんと一緒に勤行をすることで、今お話ししたことが自然に自分の身に付く様になって、人にも優しくなれ、自分がつらいときでも、いつも元気で立ち直っていく事が出来る様になるんだよ。」
とまぁ、ざっとこんな感じだったでしょうか。
御本尊様には見ての通り、十界の衆生が縦と横に描かれています。これがなぜ、十界が縦横に描かれているか考えてみると、こういう事では無いでしょうか。つまり、縦と横と言えば「縦横無尽」という言葉に思い至ります。
縦横無尽の縦横は「四方八方全ての方向」を指し、「無尽」とは「尽きる事が無い」と書くので、「限界が無いこと」を意味します。
つまり、「縦横無尽」とは、「四方八方すべてに限界が無い様子」を表わしているのです。
これと似た言葉に「縦横無碍」という「妨げるものが無く、自由自在な様」を表現した言葉があります。
だからといってこれは、辺りも憚らず、わがまま勝手し放題のことではありません。この場合は「傍若無人」といいます。
この十界が縦横に描かれることで示されている「縦横無尽」・「縦横無碍」とは、「ほしいままに受け用いる身」と言う意味で、私達の様に、「あれは好きだから良いけど、これは嫌いだからイヤ」などと分け隔てることなく、地獄であれ、餓鬼であれ、畜生であれ、これらの身を否応なしに受けさせられたのではなく、まさに思うがままに受け、これを用いて衆生を利益あそばされる仏の御境涯をお示しになっているのです。これを「自受用身」と言うのです。
『諫暁八幡抄』(御書一五四三頁)には、
「又第六の巻に云はく『或は己身を説き、或は他身を説き、或は己身を示し、或は他身を示し、或は己事を示し、或は他事を示す』文。(中略)天台云はく『即ち是形を十界に垂れて種々の像を作す』等云々。」
と、あの寿量品の御文は、寿量品の釈尊が十界すべての身を現じ、衆生を利益してきたことを証明する御文だったのです。
しかしこれはまだ、三蔵教の劣応身という三十二相八十種好で身を飾った方便の仏が次第に昇進して、初めて法界と一体化した自受用身の境界を顕わされた、まだ色相荘厳の方便を帯びた「応仏昇進の自受用身」と言うのです。これは、私達の下種の御本尊にはなりえません。
それに対して、寿量品の文底に説き明かされ、末法に御出現になられた日蓮大聖人が実際にご修行あそばされて証得された・即座開悟あそばされた境界は、正しく久遠元初(無始無終)の自受用身であり、そこにはつくろわず、はたらかさず、本身のままの仏様、いわゆる「無作三身」の御境界が開かれているのです。
この御本尊を信じてお題目を唱える時、私達の心中の仏性はめざめ、グングングングンはたらきだすようになるのです。
だから題目を唱えると、心が躍動するのです。どんな落ち込んでいる時も、必ず変われると、勇気が湧いてくるのです。
御本尊を拝する時大切なのは、十界互具ということです。もし、これを説かざれば、内心の仏界を知る事はできません。ですから『十法界事』(一七三頁)に、
「十界互具とは法華の淵底、この宗の沖微なり。四十余年の諸経の中には之を秘して伝えず」
と御教示なのです。
しかも十界互具とは、仏界にも地獄界などの九界の命が具わり、地獄などの九界にも仏界が具わっている、ということなのです。
ですから『諸法実相抄』(六六四頁)には、
「阿鼻の依正は極聖の自心に処し、毘盧の身土は凡下の一念を逾えず」
と仰せなのです。
善悪一如
ここに『善悪一如』と言われる所以があるのです。善と悪はともに衆生の心に具わっている二つの用きであり、本来その体は不二であることを言います。つまり、善と悪は心の体を述べたものではなく、その用を判別したものなのです。すなわち、善法を縁とすれば善が現われ、悪法を縁とすれば悪が顕われるのを言うのです。
ですから、衆生は本来善(性善)であるとか、また本来悪(性悪)であるとの見方は、真理の一辺だけを述べているのに過ぎず、一切衆生は本来、善悪両面を具えているものであることを、法華経は教えるのです。
大聖人様は『持妙法華問答抄』(御書二九八頁)にこの様にお誡めです。
「上根に望めても卑下すべからず。下根を捨てざるは本懐なり。下根に望めても憍慢ならざれ。上根ももるゝ事あり、心をいたさざるが故に」
と。
これらの御書の御文意を拝する時、私達は、心に常に御本尊を抱き、振る舞いは、自分は特別な存在ではない、と横柄横着な言動にならないように心がけ、また、自分をおとしめ卑屈にならないよう注意することが大切だと思います。
すばらしい御本尊に出会えたことを深く感謝し、しっかりと前を向いて、自行と化他との信行をしっかりやらなければと思います。
皆様の、いよいよの折伏前進をお祈り致します。 
以上

 

 

 引用元:Nichiren Shoshu Nishidaisenji