日蓮正宗のススメ

凡そ謗法とは謗仏謗僧なり。三宝一体なる故なり。

創価学会員さんとの対話:創価学会員さんからの質問を分析する 5

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御本尊様に関する許可のことを「允可」といいます。

対話の続き。

今日は、⑤「御本尊には法主の許可、開眼が必要、大石寺から下付したものでなければならない」について、日蓮正宗相伝も含めて回答したいと思います。

7項目全質問は以下の通り。

宗門はこのように主張しています。
①「必ず戒壇の大御本尊と唯授一人の血脈相承を信仰の根本としなければならない」
②「代々の法主を尊信の対象としての(我々が南無し奉る日蓮大聖人・日興上人と同等の)僧宝として定める」
③「弘安2年10月12日の御本尊を日蓮大聖人の出世の本懐・一大秘法と定める」
④「僧と俗の間には本来的な差別が存在する」
⑤「御本尊には法主の許可、開眼が必要、大石寺から下付したものでなければならない」
⑥「大石寺に登山しないと罪障消滅できない、成仏できない」
⑦「宗門の僧による葬儀を行い、戒名を与えないと故人は地獄に堕ちる」
日蓮大聖人はこのようなことをただの一つも仰せになっていません。日蓮大聖人は「謗法とは法に背くという事なり」顕謗法抄455 と仰せです。したがって、上に挙げた宗門の主張はことごとく謗法であると思います。
上に挙げた宗門の主張のどれか一つでも日蓮大聖人の御書のみを用いて正当性を証明できますか。
ご返信をお待ちしております。時間がかかっても構いません。

 

引用元:法主上人の允可、開眼について

第八章 法主上人の允可、開眼について
『ニセ本尊』破折目次へ 
 62 「允可いんか」とはどういう意味ですか。(解説62)

 「允可いんか」とは、一般に、師匠が弟子の悟りに対して、許可を与えることであり、印可とも書きます。
 日蓮正宗においては、信心修行の根本となる「本尊」は、本仏の悟りであり、仏の当体ですから、こと「御本尊」に関しては允可は絶対に必要なのです。
 日蓮正宗では、大聖人の仏法を相伝された唯授一人の御法主上人の允可による本尊を立ててこそ成仏が可能なのですから、御法主上人の允可のない本尊は『ニセ本尊』であり、これを拝むことは堕だ地獄の因となります。
 創価学会の『折伏教典』にも 「三大秘法抄、観心本尊抄等の御文に照して拝察するならば、勝手な御本尊を拝むことが大きな誤りであることが、はっきりわかるのである」(同書 三四〇頁) と書かれています。


 63 「開眼かいげん」とはどういうことですか。(解説63)

 開眼かいげんとは一般には「魂を入れる」などといわれていますが、書写された御本尊を法によって供養し、魂を入れることです。
 日蓮大聖人は『本尊問答抄』に 「木像画え像の開眼供養は唯法華経にかぎるべし」(新編 1275頁) と仰せられ、『四条金吾釈迦仏供養事』に 「此の画え木もくに魂魄こんぱくと申す神たましいを入いるゝ事は法華経の力なり(中略)画木にて申せば草木成仏と申す」(新編 993頁) と説かれております。
 また、第三十一世日因上人は御消息の中で 「木絵もくえの二像は本と草木にて有り、然しかるを生身の妙覚の仏と開眼したもふ事は大事至極しごくの秘曲なり、日蓮聖人乃至日因に至る迄、三十一代累るいも乱れず相伝是れ也」 と仰せられ、第五十六世日応上人は 「金口血脈には、宗祖己心の秘妙を垂示すいじし一切衆生成仏を所期する本尊の活眼たる極意の相伝あり」(研教 二七-四七四頁) と仰せのように、本宗において御本尊の開眼は、本門戒壇の大御本尊の功力と、「大事至極」の「極意の相伝」による御法主上人の允可によらなければなりません。
 ちなみに学会の『仏教哲学大辞典』では、 「末法における開眼供養は、ただ三大秘法の大御本尊のみによる以外にないのである」(同書 一-五九〇頁) と説明していますが、今日の学会のように「信心をもって拝すれば、本尊も開眼できる」と指導するのは、大きな誤りです。


 64 末寺で下付されてきた御本尊は、御法主上人が開眼されたものなのですか。(解説64)

 本宗における「開眼かいげん」とは、御法主上人の允可いんかによって、本門戒壇の大御本尊の血脈が通じることであり、従来、末寺で信徒に下付されてきた御本尊は、すべて御法主上人の允可すなわち開眼がなされてきたものです。
 『大白蓮華』にも 「末法の現在においては、絶対に戒壇の大御本尊様こそ、われわれが即身成仏できる生身の御本仏様であらせられるのであります。また、われわれがいただいている御本尊様も、文底事の一念三千、真の草木そうもく成仏の理によって開眼された、これまた生身の御本仏様であります。この御本尊様こそ、真の木絵もくえ二像開眼の姿でなくてなんでありましょうか。これは日蓮正宗以外の邪宗では絶対になしえないところであり、ただ日蓮正宗のみのもつ深秘の法門であります」(同書 六二-二七頁) と説明していたように、宗門では七百年来本門戒壇の大御本尊のもと、御法主上人によって御本尊の開眼がなされてきたのです。


 65 学会では「本尊の開眼などは僧侶の権威を高めるための儀式、実際には無用のもの」と指導していますが、どうでしょうか。(解説65)

 大聖人は『木絵二像開眼之事』に、 「法華を心得たる人、木絵二像を開眼供養せざれば、家に主のなきに盗人ぬすびとが入り、人の死するに其の身に鬼神入るが如し」(新編 638頁) と、開眼供養をしなければ主人のいない家に盗人が入り、魂の去った死人に鬼神が入ってしまうようなことになると教えられています。
 このように日蓮大聖人自ら開眼の重要性を示されることからもわかるように、御本尊の開眼は本宗の伝統法義なのです。
 かつて、池田氏は 「日蓮正宗の根本中の根本は、ご存じのとおり、本門戒壇の大御本尊であられる。その大御本尊と日蓮大聖人以来の血脈を代々受け継がれる御法主上人がおいでになり、七百年にわたる伝統法義が厳然げんぜんとある。この正宗の根本軌道に則のっとった信心こそが、正しき信心であり、無量の功徳があるわけである。みずからの信心の濁りや驕慢きょうまんから、その根本軌道を失ってはならない」(広布と人生を語る 六-四一頁) と述べていました。
 これらの池田氏の指導は、「正宗の伝統法義を守る」ことが「創価学会の根本軌道であり」将来にわたって絶対に崩してはならない不動の路線として示されたものです。
 御本尊の開眼は本宗の伝統法義の中でも、最も重要なものです。
 それを都合が悪くなると「権威を高めるための儀式」だとか、「無用のもの」などと指導する学会のいい分は、まさに自語相違です。


 66 聖教新聞には「拝する側の信力・行力によって、御本尊の仏力・法力は発現する。これが本来の開眼の意義である」(H五・九・二〇 取意)といっておりますが、これは正しい考え方でしょうか。(解説66)

 このような考え方は、大変な間違いです。
 なぜなら「拝する側の信力・行力」とは凡夫衆生の信心(観心)であり、「御本尊の仏力・法力」とは御本仏(本尊)の力用のことで、この仏意・機情の二義を同等に論ずることは法義の混乱になるからです。
 日寛上人は、『観心本尊抄文段』に 「若もし観心即本尊に約せば入文の相に違うなり」(富要 4-222頁) と、厳しく二義の混同を戒められ、さらに同書に 「若し正境に非ざれば、仮令たとい、信力・行力を励むと雖も、仏種を成ぜず」(富要 4-228頁) と、信仰者の信力・行力よりも、正しい御本尊を正境として信仰することが第一番に大事であると説かれています。
 もし聖教新聞のいうとおりならば、他宗の人でも信力・行力があれば御本尊の開眼ができることになり、身延日蓮宗の漫荼羅も信力・行力によって正しい本尊に開眼できることになりますが、このような説は前代未聞の愚論というべきです。


 67 昔は末寺でも、法主の許可なしで御形木おかたぎ御本尊を作って下付していたのではないでしょうか。(解説67)

 宗門においては古来、御本尊を御法主上人の許可なしで下付したことはありません。
 第六十六世日達上人は、『化儀抄略解』の注に 「当時は交通が不便であり、戦乱相あい継ぐ時代である故、日有上人が一時的に末寺住職に許されたことで、形木の意であります。書き判が無ないから決定的でないことを表わしている。現今は絶対に許されないことであります」(達全 1-4-560頁) と仰せです。
 このように御形木御本尊を末寺で作り、下付されたことがあっても、それは特殊な時代状況のもとで、御法主上人の許可を得て、一時的に行なわれたことです。
 また、たとえ特殊の事情があったとしても、こと御本尊に関しては、第二十九世日東上人が『当家法則文抜書ぬきがき』に 「仏法を相属して当代の法主の処に本尊の体有る可きなり」(研教 九-七四〇頁) と教示されているように、本宗では昔から、御本尊に関してはすべて御法主上人の許可が必要だったのです。
 今日、学会で御本尊を勝手にコピーし、授与するなどはもってのほかの所業なのです。


 68 聖教新聞によると「従来は御本尊に関する権能が法主一人に限られたが、現在は『一閻浮提総与』の意味からも法主一人に限定する時代ではない」(聖教新聞 H五・九・二〇 取意)とありますが、それでよいのでしょうか。(解説68)

 この主張は、創価学会の「ご都合主義」による思いつきの邪説であり、「一閻浮提総与」の意味を歪曲わいきょくした邪義です。
本宗においては御本尊の大権は、唯授一人血脈付法の御法主上人にのみ具わっており、このことは一貫して不変のものです。「一閻浮提総与の大御本尊」とは、「全世界の人々が信受すべき御本尊」との意味であって、民衆が御本尊の権能を持つということではありません。
 そもそも「従来」と「現在」の時間的な立て分けは何を根拠にしているのでしょうか。第六十五世日淳上人はかつて、 「宗門は長い間宗門護持の時代であったが、今後は流通広布の時代と定義されるであろう」(淳全 1620頁 取意) と述べられましたが、これは妙法流布の相を区分されたものであって、御本尊の権能や僧俗の立て分けを述べられたものではありません。
創価学会では、十数年前に 「御法主上人の御もとに、日蓮正宗の伝統法義を確実に体していくことを、不動の路線とする」(広布と人生を語る 三-二七一頁 取意) と発表しながら、破門されるや、「今日はその時代ではない」などといって、簡単に「不動の路線」を変更しています。
 学会では「不動」という言葉のもつ意味がわからないのでしょうか。
 ともあれ、このような学会の主張を「詭弁きべん」というのです。


 69 宗門から離脱した僧侶の話では「総本山でも末寺でも御形木御本尊の開眼などは、していない」とのことですが、本当ですか。(解説69)

 宗門から離脱した僧侶の話が、はたして信じられるでしょうか。創価学会の手先となり、血脈付法の御法主上人から頂いた袈裟と衣を身につけて、「宗門は悪」「猊下は悪」と喧伝けんでんしている不知恩の徒輩ですから、はじめから信じるに足りないのは当然のことです。
 御当代日顕上人は、御登座とうざ以来今日に至るまで、御本尊を必ず御ご宝前ほうぜんにお供えし、開眼されています。
 末寺住職は御法主上人の任命を拝し、名代として住職の任を務めています。檀信徒に御本尊を下付するときは、その名代としての責務の上から、御法主上人の允可のもと、御形木御本尊を「本門戒壇の大御本尊」の分身たる寺院の御宝前に供え奉り、読経唱題を申し上げるのです。
 この尊厳なる責務を忘れ、邪智謗法の創価学会と与くみする離脱僧には、始めからこの尊厳なる責務を全うする信心がなかったのです。
 「あるものをない」といい、「ないものまである」といって、檀信徒を誑たぶらかす離脱僧は、まさに僧形の天魔といえましょう。


 70 特定の人に与えられた御本尊を、他の人が拝んでも功徳はありますか。(解説70)

 基本としては、願主が誰であっても、本宗の御本尊を正しく信仰するならば、誰にでも功徳はあります。
 しかし、この質問は、今回創価学会が浄じょう圓えん寺じの大行だいぎょう阿闍梨本證坊授与の日寛上人御書写の御本尊を、御法主上人の許可なく授与書きを削除し、コピーして会員に販売していることについて、御本尊をこのように勝手に扱ってもよいのか、ということでしょう。
 実例を挙げて説明しましょう。
 「お守り御本尊」は授与を受けた願主が死亡した場合、寺院に返納するのが原則です。
 また授与書きのある「常住御本尊」も、願主が死亡したときには寺院に返納します。遺族が引き続きその御本尊を受持したいときは、「感得かんとく願い」を申し出なければなりません。
 寺院の常住御本尊には脇書わきがきに「○○寺安置」としたためられている御本尊がありますが、その御本尊の御安置の場所を変えるときも、御法主上人の許可が必要です。
 要は、本宗の御本尊はすべて日蓮大聖人の魂魄こんぱくであり、御本仏の当体ですから、大聖人の仏法を受け継がれている御法主上人の許可なく、勝手に取り扱うことは厳しく戒められているのです。
 今回の学会のように、御本尊の授与書きを勝手に削り、勝手にコピーして販売することは、大聖人の御意に背き、日寛上人のお徳を汚す大罪となります。


 71 学会では、「一いっ機き一縁いちえん」とは大聖人の直筆御本尊に限られるもので、今回下付するのは日寛上人が「一閻浮提総与」の御本尊を書写されたものだから問題ないといっていますが、本当ですか。(解説71)

 ここでも学会は二重の過あやまちを犯しています。
 第一は「一いっ機き一縁いちえん」の過ちです。御本尊には、万人を対象とした御本尊と、末寺や個人を対象にした御本尊とがあります。
 万人を対象とした御本尊を「一閻浮提総与の御本尊」といい、現在奉安堂に御安置されている「戒壇の大御本尊」ただ一体を指します。
 それ以外の授与の御本尊はすべて「一機一縁の御本尊」と称します。
 そして、大聖人入滅後の御本尊書写は、日興上人以来血脈相承の御歴代上人が受け継がれ、その時々の僧侶や信徒、寺院に対して「一機一縁」の御本尊を書写し授与されるのです。
 学会でも一機一縁について 「常住御本尊をいただいた本人が死亡したとき。原則として、一機一縁であるから御返納する」(前進 S四七・六号) と説明し、御歴代上人の御本尊が一機一縁であることを認めています。
 第二は「一閻浮提総与の御本尊を書写されたものだから問題ない」といって、今回の日寛上人御書写の御本尊のコピ-(ニセ本尊)を正当化し、授与書きを抹消まっしょうしたことを弁解していますが、本宗では昔から「一閻浮提総与の御本尊を書写した御本尊だから誰が複製してもよい」とか「一閻浮提総与の御本尊を書写した御本尊だから授与書きを抹消してもよい」などという教えはありません。
 このような学会の行為は大謗法なのです。


 72 創価学会の『ニセ御本尊』は、日寛上人の享保五年六月十三日御書写の御本尊に書かれていた「下野国小薬邑本如山浄圓寺大行阿闍梨本證坊日證授与之」という「授与書き」を抹消していますが、このような変造は許されることなのでしょうか。

 絶対に許されることではありません。
 この御本尊は、日寛上人が本證坊個人に授与されたものですが、これを後の住職が御法主上人の許可もなく他人に提供したり、第三者が勝手に変造し、授与することなど、絶対にあってはならないことです。
 もしそういうことが許されるならば、常住御本尊を下付された信徒は、誰でも勝手に変造し、複製してもよいことになります。
 日興上人は『富士一跡門徒存知事』に 「誠に凡筆を以て直に聖筆を黷けがす事最も其の恐れ有り」(新編 1872頁) と示され、大聖人の御本尊の散失を防ぐためとはいえ、日興上人御自身が「授与書き」を書き加えることすら、「聖筆を黷す恐れあり」と自戒されているのです。
 それを相承なき輩やからが、勝手に「授与書き」を削除し、不特定多数の者へ配布することは、日寛上人の御心を踏みにじる行為になるのは当然です。
 「授与書き」について同抄に 「賜はる所の本主の交名きょうみょうを書き付くるは後代の高名の為なり」(新編 1872) とあるように、御歴代上人が書き付けられる「授与書き」には甚深の意義があるのですから、これを法主上人の許可もなく勝手に削り取ることは絶対に許されないのです。


 73 御本尊の「授与書き」を抹消することが大謗法ならば、御歴代上人の御本尊に、「願主弥四やし郎国重ろうくにしげ」という「授与書き」が書かれていないのは大謗法になりませんか。

 御本尊の書写については、唯授一人の血脈相承による秘伝であり、他の者がとやかく疑難をさしはさむべきではありません。本門戒壇の大御本尊を一番初めに書写された方は第二祖日興上人です。
 その日興上人は宗祖日蓮大聖人から仏法の一切を相承伝授されていることは間違いない事実であり、その相伝による甚深の御境界の上から御本尊を書写されているのです。
 相伝の大事を知らない者が、日興上人以来の御歴代上人の御本尊書写についてとやかくいうことは厳に慎むべきです。
 要は、「法体相承」すなわち宗祖の魂魄こんぱくたる御本尊を相伝された御法主上人の許可なく、他の者が勝手に御本尊を複写し、「授与書き」を削除さくじょし、変造することが大謗法になるのです。


 74 現在の創価学会は、本当に日寛上人の御精神に適かなった教団なのですか。

 創価学会では、 「日寛上人が生涯をかけて築かれた信心の遺産の全て」は「創価学会のためにあった」(大白蓮華 五一五-四二頁) といって、日寛上人をあたかも学会のシンボル的存在として宣伝しています。しかし、現在の創価学会は日寛上人の御精神に背反はいはんしております。その例をいくつか挙げてみましょう。
 第一に、学会では、三座の報恩謝徳の観念文から日寛上人をはじめとする御歴代上人を削除していますが、日寛上人は『福原式治状』の中で勤行の観念について、「第三座は十如・壽量、祖師代々」と記されており、総本山大石寺の歴代上人への御報恩謝徳の観念を欠かされなかったのです。
 第二に、学会では、三宝の中の僧宝を日興上人お一人に限定したり、「創価学会こそ僧宝である」などといっておりますが、日寛上人は『当家三衣抄』に、本宗の三宝を明かす中で僧宝として日興上人、日目上人を挙げたのち、 「嫡嫡付法歴代の諸師。此かくの如き三宝を云云」(聖典 971頁) と、御歴代上人を僧宝と立てられています。
 第三に、学会では、唯授一人金口こんく相承を否定し、〝三大秘法の御本尊も法主から法主に付嘱されるのではなく、万人に与えられたもの〟といっていますが、日寛上人は『寿量品談義』に 「二十四代金口の相承と申して一器の水を一器に写うつすが如く三大秘法を付属なされて大石寺にのみ止まれり」(富要 10-131頁) と仰せられ、本門戒壇の大御本尊が唯授一人の金口相承として、代々の御法主上人に受け継がれ、厳然と大石寺にましますことを説示されています。
 第四に、日寛上人は総本山大石寺の御法主として、『六巻抄』『文段』等を著わされ、邪義邪宗の徒から大石寺を厳護するために、全力を傾注けいちゅうされましたが、現在の学会は総本山を敵視し、宗門を攻撃しています。この学会の姿を見られたならば、日寛上人の憤りはいかばかりでありましょう。
 このような事実を覆おおい隠かくし、総本山大石寺に敵対して〝学会の御本尊授与は日寛上人御自身の誓願〟などとうそぶく創価学会は、まさに不知恩の徒というべきです。今や創価学会は、「宗教団体」とは名ばかりで、その中味は、本尊も題目も化儀もすべて、大石寺のそれを模倣したものばかりではありませんか。迷走する創価学会は、いずれ日寛上人をも否定することになるのは明白です。


 75 「御本尊根本の信心」や「広布を目指す信心」があれば、誰が本尊を複製してもよいのですか。

 そのようなことは絶対にしてはいけません。
 『本因妙抄』に 「血脈並びに本尊の大事は日蓮嫡々座主伝法の書、塔中相承の稟承ぼんじょう唯授一人の血脈なり」(新編 1684頁) と教示されているように、戒壇の大御本尊の護持ならびに御本尊の書写と授与など御本尊に関する一切の権能は、唯授一人血脈付法の御法主上人に限るのです。
 学会でいう「御本尊根本の信心」とは本書三一項に破折してあるとおり、「大聖人直結の信心」ということと本質的に同じことです。これらはともに本来の日蓮正宗の信心ではありません。
 また「広布を目指す信心」とは本宗の僧俗が常に心がけなければならないことですが、だからといって「広布を目指す信心」があれば御本尊を複製してもよいということにはなりません。これも本書六七項に破折しているように、衆生の「観心」と本仏の「本尊」とを混乱した邪義というべきです。


 76 今回の創価学会のように、末寺の住職から所蔵の本尊を提供されれば、在家の者が複製して配布することは許されるのですか。

 そのようなことは絶対に許されません。
 かつて池田氏は 「末法の大白法は、唯授一人、血脈付法の御歴代の御法主上人御一人がお伝えあそばされているのであり、そのうえからわれわれ信徒のために御本尊をお認したためくださっているのである」(広布と人生を語る 四-六七頁) と、御法主上人お一人が末法の大白法を伝え、そのうえから御本尊をおしたためくださったといっていました。
 『本因妙抄』に 「血脈並びに本尊の大事は日蓮嫡々座主伝法の書、塔中相承の稟承ぼんじょう唯授一人の血脈なり」(新編 1684頁) と御教示のように、御本尊に関することはすべて血脈相承の御法主上人にその権能があります。
 したがって、たとえ末寺所蔵の御本尊であっても、末寺の住職の勝手な判断で、御本尊を他人に提供することなど許されません。日興上人は、 「縦たとひ子孫たりと雖も私に之を与へ、若し又売買する者は同罪たるべき也」(歴全 1-144頁) として、大謗法であると断ぜられております。
 また、もし御法主上人の許可を受けて末寺住職が御本尊を在家の人に下付したとしても、それを勝手に複製したり配布することは、当然大謗法です。

それぞれの項目の詳しい解説は、引用元サイトからご確認をしていただきたい。

 

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