毎年、この季節になると御塔婆のお話をさせていただいております。
本日は、草木成仏口決から。
草木成仏口決 文永九年二月二〇日 五一歳
問うて云はく、草木成仏とは有情非情の中何れぞや。答へて云はく、草木成仏とは非情の成仏なり。問うて云はく、情・非情共に今経に於て成仏するや。答へて云はく、爾なり。問うて云はく、証文如何。答へて云はく、妙法蓮華経是なり。妙法とは有情の成仏なり、蓮華とは非情の成仏なり。有情は生の成仏、非情は死の成仏、生死の成仏と云ふが有情・非情の成仏の事なり。其の故は、我等衆生死する時塔婆を立て開眼供養するは、死の成仏にして草木成仏なり。止観の一に云はく「一色一香中道に非ざること無し」と。妙楽云はく「然も亦共に色香中道を許す。無情仏性惑耳驚心す」と。此の一色とは、五色の中には何れの色ぞや、青・黄・赤・白・黒の五色を一色と釈せり。一とは法性なり、爰を以て妙楽は色香中道と釈せり。天台大師も無非中道といへり。一色一香の一は、二三相対の一には非ざるなり。中道法性をさして一と云ふなり。所詮十界・三千・依正等をそなへずと云ふ事なし。此の色香は草木成仏なり。是即ち蓮華の成仏なり。色香と蓮華とは、言はかはれども草木成仏の事なり。口決に云はく「草にも木にも成る仏なり」云云。此の意は、草木にも成り給へる寿量品の釈尊なり。経に云はく「如来秘密神通之力」云云。法界は釈迦如来の御身に非ずと云ふ事なし。理の顕本は死を表はす、妙法と顕はる。事の顕本は生を表はす、蓮華と顕はる。理の顕本は死にて有情をつかさどる。事の顕本は生にして非情をつかさどる。我等衆生のために依怙・依託なるは非情の蓮華がなりたるなり。我等衆生の言語・音声、生の位には、妙法が有情となりぬるなり。我等一身の上には有情非情具足せり。爪と髮とは非情なり、きるにもいたまず、其の外は有情なれば切るにもいたみ、くるしむなり。一身所具の有情非情なり。此の有情非情、十如是の因果の二法を具足せり。衆生世間・五陰世間・国土世間、此の三世間有情非情なり。一念三千の法門をふりすすぎたるは大曼荼羅なり。当世の習ひそこなひの学者ゆめにもしらざる法門なり。天台・妙楽・伝教、内にはかがみさせ給へどもひろめ給はず。一色一香とのゝしり惑耳驚心とさゝやき給ひて、妙法蓮華経と云ふべきを円頓止観とかへさせ給ひき。されば草木成仏は死人の成仏なり。此等の法門は知る人すくなきなり。所詮妙法蓮華をしらざる故に迷ふところの法門なり。敢へて忘失する事なかれ。恐ゝ謹言。
二月廿日 日蓮花押
最蓮房御返事(平成新編522~523㌻)
創価・顕正は御塔婆の化儀を否定しています。
彼ら異流儀の教えは自力本願です。
公明党の得票数を獲得した人。
財務を頑張った人。
顕正会の勧誘活動を頑張った人。
それぞれの組織に都合がいいと判断した人だけが、成仏できると洗脳されています。
三宝を供養しない創価・顕正に、成仏ができる道理など全く存在しません。
死ねばみな一様に、無間地獄へ堕してしまいます。
創価はかつて、日蓮正宗の信徒団体だったころ、会員の葬儀には大勢の参列者を集めて、故人の成仏の相を見せて自慢しておりました。
今や同志葬・密葬ばかりです。1990年代に創価に付いた離脱僧侶を呼ぶこともありますが。。。
自分たちでは「成仏の相だった。」などと、無理やり誉めあっていますが、退会して日蓮正宗の葬儀に参列した人は、斬鬼の念に苦しんでおります。「あんなものが成仏の相であったはずがない」と。
顕正会も同様で、総幹部会の登壇では、故人となった会員の成仏の相であったことを、息を吐くように嘘をついて自画自賛します。しかし、実態は顕正会の退会を決意させるほどのものであることが、元会員の証言から露呈しております。
私たち法華講員は、草木成仏口決を拝読し、日蓮正宗の葬儀や追善供養で、故人を救済できる道理を学んでおかなければなりません。
成仏の相を見た感想だけ言っても、疑いで充満している異流儀信者を改心させることは、なかなか至難の業だと思われますので。
まず、草木成仏口決という御書は、草木が成仏できることだけを説いた御書ではありません。
私の拝し方は未熟でしょうが、一応、お読みくださると光栄です。
まず、一番大事な御文は何かということです。
私は、「我等衆生のために依怙・依託なるは非情の蓮華がなりたるなり。」だと拝しております。
依怙・依託とは頼ること、また、頼りにするものというくらいの意味です。私たちが頼りにするものってなんですか?
御本尊様ですよね。
御本尊様は板や紙で顕されております。「非情の蓮華がなりたるなり。」ですよ。
仏様は、草木が成仏することのいわれの文証として、ずばり「妙法蓮華経是なり。」とお示しになります。その上で、八義に開いて御説明くださっています。
- 「妙法とは有情の成仏なり」
- 「蓮華とは非情の成仏なり。」
- 「理の顕本は死を表はす、妙法と顕はる。」
- 「事の顕本は生を表はす、蓮華と顕はる。」
- 「理の顕本は死にて有情をつかさどる。」
- 「事の顕本は生にして非情をつかさどる。」
- 「我等衆生のために依怙・依託なるは非情の蓮華がなりたるなり。」
- 「我等衆生の言語・音声、生の位には、妙法が有情となりぬるなり。」
まず、妙法蓮華経のうち「妙法」が有情の成仏の文証であり、「蓮華」が非情の成仏の文証となると仰せられているのです。
そして、理の顕本は死を表し妙法の二字と顕れ、事の顕本は生を表し蓮華と顕れるのであるとの仰せです。
したがって、理の顕本は死であり、有情をつかさどり、事の顕本は生であって、非情をつかさどるのです。
我ら衆生にとってたのみとなるもの(御本尊様)は非情の蓮華がなっているのです。また、我ら衆生の言語音声、生の位には妙法が有情となっているのです。
理の顕本は死を表しとは、大聖人様の非滅の滅を顕し久遠元初の得道を指します。
事の顕本は生を表しとは、戒壇の大御本尊様として生身の仏様が常住止説法されることを指します。
生きている九界の衆生が「南無妙法蓮華経」と、信心口唱するところは九界即仏界。
「口決に云はく「草にも木にも成る仏なり」云云。此の意は、草木にも成り給へる寿量品の釈尊なり。」とは、日蓮大聖人様が仏界即九界として、非情の御本尊様になられているということです。御本尊様建立の道理と塔婆供養の道理は同じなのですよ。
そして、その境智冥合するところが、成仏の姿なのであります。
ゆえに塔婆の開眼供養は非情の成仏です。この塔婆を立てて開眼供養するのは、死の成仏となるのです。
観心本尊抄文段で日寛上人は「木画二像の草木成仏とは、謂く、木画の二像に一念三千の仏種の魂魄を入るるが故に、木画の全体生身(しょうしん)の仏なり」と述べられて、次の御書の御文を引かれています。
「国土世間と申すは草木世間なり、草木世間と申すは五色のゑのぐ(絵具)は草木なり画像これより起る、木と申すは木像是より出来(しゅったい)す、此の画木に魂魄と申す神(たましい)を入るる事は法華経の力なり天台大師のさとりなり、此の法門は衆生にて申せば即身成仏といはれ画木にて申せば草木成仏と申すなり」(四条金吾釈迦仏供養事)
「法華経を心法とさだめて三十一相の木絵の像に印すれば木絵二像の全体生身の仏なり、草木成仏といへるは是なり」(木絵二像開眼之事)
ここでは一往、木絵二像の仏を挙げられているが、これは末法相応抄等によれば、あくまでも相手の機根に応じ、また一宗弘通の初めに応じた御表現であり、本意は御本尊であられることは明白です。
同じく観心本尊抄文段で「若(も)し草木成仏の両義を暁(さと)れば、則ち今安置し奉る処の御本尊の全体、本有無作の一念三千の生身の御仏なり。謹んで文字(もんじ)及び木画と謂(おも)うことなかれ」と明言されています。
御本尊様はもったいなくも元は草木であられます。
しかし、御本仏日蓮大聖人の御生命がそのまま顕現されているゆえに、仏界の当体であり、一切衆生に仏性を顕現させる対境となるのです。
この木画二像の成仏、その顕現としての大御本尊様の建立があって初めて、草木成仏の深義が明らかになるといえますね。
今年は、盂蘭盆会法要にて六柱の御塔婆を建立願い出いたしました。
皆様も是非、日蓮正宗寺院へ御参詣くださり、御先祖様を始め縁のある故人の死の成仏を成就してほしいものです。