一閻浮提第一の意義(二)
『日曜講話』第一〇号(平成元年9月1日発行)
一閻浮提第一の意義(二)
皆さん、お早うございます。去る一月八日の日曜勤行会のときに、大聖人様が、御自身の御図顕遊ばされました御本尊を、なにゆえに「一閻浮提第一」と仰せになったのかということのお話を申し上げました。今日はその続きといたしまして、三つことを申し上げたいと思うのであります。
それは、いろんな宗旨・宗教、また、いろんな仏・菩薩・本尊がございましょうが、いかなる宗旨の、いかなる本尊、また、いかなる信仰の対象物の中にあっても、この大聖人様の「一閻浮提第一」と仰せになる妙法の大漫荼羅こそが、世界一の大きな功徳、働き、法門、その一切の整った御本尊様なのだという強い誇りと確信を、一人ひとりが持っていただきたいと思うのであります。
大聖人様は、『聖愚問答抄』という御書の中に、
「この妙法蓮華経を信仰し奉る一行に功徳として来らざる事なく善根として動かざる事なし」(全五〇〇)
ということを言われております。仏法上の功徳の源と申しますか、また、あらゆる修行の善根というものは、全部、南無妙法蓮華経の大法を修する人の一日の信心の中にこそ、涵養(かんよう)され、育まれ、そして、大きな功徳となって現れてくるというとを、大聖人様は、おっしゃっておられるのであります。その人の罪障ならば、その過去世以来の一切の罪障を今日において消滅することができる。また現実にこの世の中において、今日末法の濁悪の世間を生きていく。人生を生きていくうえにおいても、あらゆる悩みや、苦しみや、諸難や、一切に打ち勝って、清々しい人生を必ず全うすることができるということを、大聖人様は教えていらっしゃるのでございます。
現実に釈尊の仏法の功徳、その働きというものは、正像二千年において、全て萎えてしまったのでございます。だんだんと形骸化し、そして姿形だけとなって、今でも教典は残り、お寺の残骸は残り、いろんな宗旨の僧侶達は、いまだに宗経家らしい、あるいは、信心を行ずる者としての姿形は、一応まだ今日においても残っておりますけれども、現実に一人ひとりの人を救済しているかというと、その姿が、いずこにも、真実の救済のうえにおいて、実証はないのであります。釈尊が『法華経』に、あるいは『大集経』等々に予証された通りに、釈尊の仏法の力、その功徳は一切失われてしまっているのであります。
また、現実に世界の歴史を見ましても、中東の世界、イスラムを中心にした世界、あるいは、ヨーロッパ等々あるいは、南米等々におけるキリスト教を中心にした世界というものが、今そういう宗旨を開いた開祖の生まれた国々、マホメットの生まれた国、あるいはまた、キリストの生まれた国、釈尊の生まれた国、そういう国が今世界で一番不幸な、一番混乱の激しい、一番また戦乱の中心地になっています。実際にその国の人々が世界一幸せになっているかというとそうではなく、現実は全く逆の姿になっております。翻って、大聖人様の御誕生になったこの日本という国は、たった四十年前には世界一悲惨な国であったわけであります。それが、四十年経って今は世界一羨まれている。敗戦の民こそが、今世界一、幸せな人生を送る。こういう社会に生まれ変わっているということも、これはただ政治的な問題、経済的な問題、あるいは人の気質、風土、また時流に乗ったとか、あるいは物が発展したとか、文化のいろんな形で恩恵を受けたとかいうということによって、このように脱皮できたのではありません。やはりそこには日本全体に、大聖人様の仏法を根本にして、ありとあらゆる県のどの隅々に行っても、この妙法を唱える人がいる。日夜題目を唱えている。あるいは、折伏を行じておる。その功徳が今日、日本の国土世間の一切に及んでいるのだということを知っていただきたいのでございます。
大聖人様は『諫暁八幡抄』という御書の中にも、はっきり、釈尊の月氏の仏法を月の仏法に譬えて、大聖人様の仏法を太陽に譬えて、その勝劣を御指南遊ばされていらっしゃいます。その通りの姿に今なっているのだということを知っていただきたいと思います。そうして、
「日は光明、月に勝れり。五五百歳の長き闇を照らすべき瑞相なり」(全五八九)
ということを仰せられております。
また、大聖人様は『御義口伝』にも、
「今日蓮が唱うる所の南無妙法蓮華経は末法一万年の衆生まで成仏せしむるなり(中略)妙法の大良薬を以て一切衆生の無明の大病を治せん事疑い無きなり」(全七二〇)
ということをおっしゃっておられます。釈尊の仏法は単なる二千年の命しかなかった。しかし大聖人様の仏法は、これから二十一世紀、二十二世紀、二十三世紀、三十世紀といわず、末法万年までも、この妙法の力、働き、功徳は、万年、尽未来際までの一切の人びとを救済していくのだということを言われております。単なる千年や、二千年の命ではない、単なるまた、五十年や百年の命でもない。末法万年に、この妙法は更に更に輝くのだということを大聖人様は言われております。そして、この妙法は末法万年のあらゆる衆生の不幸といわず、災いといわず、諸難といわず、罪障といわず、そのあらゆるものの不幸せの根元、大本、本源を打ち破る。そして、命の底から、その人を救済していく仏法なのだということを、大聖人様は『御義口伝』に説かれているのであります。 大聖人様が、ここに初めて南無妙法蓮華経と唱え、一閻浮提第一の本尊として、末法万年の人びとに残され御本尊様は、それほど大きな功徳を持ち、働きを持っております。事実のうえに、皆様方の身の上に、幸せを約束する御本尊様なのだということを、大聖人様御自身がお説きになっていらっしゃることを確信していただきたいと思うのであります。
その次に申し上げたいことは、法のうえにおける正しさということであります。この世界の各地で、いろんな宗旨、宗教のもとに信心をしておりましょうが、仏法の中においても、この妙法を行ずる皆様方こそが、最も正しい末法有縁の正法を行ずる者だという誇りを持っていただきたいと思うのであります。
大聖人様は『当体義抄』に、
「日蓮が一門は正直に権経の邪法・邪師の邪義を捨てて正直に正法・正師の正義を信ずる故に、当体蓮華を証得して常寂光の当体の冥利を顕わす事は本門寿量の教主の金言を信じて南無妙法蓮華経を唱うるが故なり」(全五一八)
ということを言われております。従って、この日蓮正宗の教えこそは、そうした末法万年を救済する御本仏が証得遊ばされた所証の法体に基ずくところの宗旨なのだということを、しっかりと心においていただきたいと思います。そしてまた、一閻浮提第一の御本尊こそが末法の御本仏の所顕の正体そのものだということを知っていただきたいと思います。私達のこの日常の貫く信心が、末法所修の、まさしくその正体を行ずる如説修行の信心なのだということを心に置いて、一日の信心を大聖人様の弟子らしく、堂々とした信心をどこまでも行ずるという不退の確信のうえに立って、信心を全うしていただきたいと思うのであります。
従って、諸宗の人が皆様方の信心をどのように蔑み、どのように笑い、どのように悪口中傷しようとも、私達は末法万年のただ一つの正しい信心を行ずる者だという深い確信のうえに立って、そうした世間の迷妄を打ち破る強さを身につけていっていただきたいと思います。そしてまた、正法を行ずる者として、諸宗を打ち破る強い信心の上に裏打ちされた教学を身につけて、堂々と諸宗を喝破していっていただきたいということをお願いしたいのであります。
その次に申し上げねばならないのは、大聖人様が「閻浮提第一」と仰せになる意味は、大聖人様御自身が久遠元初の御本仏の御内証、法体を顕されたのだということであります。私達の信じ行ずるこの妙法は、一切の仏法の源、本源、その根源をきわめる教えであって、しかも私達の唱える題目は、その法華経の極理、その究竟の法体の南無妙法蓮華経を唱え、行じているのだということを知っていただきたいのであります。
大聖人は『一念三千法門』という御書の中に、天台の『玄義』の文を引かれまして、
「妙法蓮華経は本地甚深の奥蔵、三世の如来の証得したもう所なり」(全四一四)
ということをおっしゃっておられますし、『曽谷入道殿御返事』には、
「南無妙法蓮華経と申すは一代の肝心たるのみならず法華経の心なり、体なり、所詮なり」(全一〇五八)
ということをおっしゃっておられます。従って、私達の唱える題目は、日蓮宗で唱える題目でもない、あるいはまた立正佼成会や霊友会で唱えるような、『法華経』の経巻を中心にした題目ではない。どこまでも、大聖人様の悟られ、唱えられ、御本尊として顕わされた、その当体の南無妙法蓮華経を唱えている。それは、大聖人様の御仏智の上から、御内証のうえから、久遠元初以来、末法万年まで貫くところの根源の、一切の仏法の極理をきわめられたところの御本尊であり、題目なのだということを知っていただきたいと思うのであります。
そうした意味から、大聖人様は、この御本尊様のことを『観心本尊抄』に、
「一閻浮提第一の本尊此の国に立つ可し」(全二五四)
とおっしゃられたのであります。この御本尊様は、私達のために残された唯一の正法なのだということを、互いにしっかりと心に自覚して、そのうえに立った誇らしい信心を堂々と貫くべきであるということを申し上げまして、本日の御挨拶とさせていただく次第でございます。大変、御苦労様でございました。
(平成元年一月二十二日)