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1087夜:お彼岸の四つの意味

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お彼岸の意義を、判りやすい様に、四悉檀という四つの観点からお話します。
一番目「世界悉檀」からの意味は、普段は「仏?ほっとけ!神?かまうな!」などと、ほとんど信心気の無い人でも、この春分の日秋分の日を中日にした七日間は、お彼岸という事で、お墓参りや、菩提寺に参詣するなど、手を合わせて拝んでいます。つまり、まねごとであったとしても、ともかく信心らしいことをしているわけです。

日蓮正宗の信心は常彼岸
その中で、日蓮正宗は「常盆・常彼岸」と言って、特別この日だけ「彼岸だ、お盆だ」と騒いで先祖供養を行い、あるいは発心するのでは無く、いつも彼岸やお盆のつもりで信心の志を起こし、朝晩の勤行の時の御回向、あるいは一日の御経日、そして命日に塔婆供養をしていくのが、私たちの信心である、というのももっともな事ですが、その「いつもお彼岸やお盆のつもりで」という心がけも、実際のお彼岸やお盆を知らない、あるいはないがしろにしていては、それは彼岸やお盆を頭の中で思い描いただけの、いわゆる「理の信心」になってしまいます。
ですから、お彼岸になれば寺院にも参詣し、塔婆供養も捧げ、あるいは墓地や納骨堂を持っている方は、そこにもお参りし、実際の彼岸やお盆を体感してこそ、これを日々の信心のなかに還元できる…、いわゆる「事の信心」とすることができるのです。だから、彼岸やお盆での寺院参詣をおすすめするのです。

彼岸の七日は善悪決定の時節
二番目「為人悉檀」の上から言うと、お彼岸は特別な一週間で、特に功徳を倍加・倍増させることができるから、特別な思い入れをもって、この日を迎えるべきなのです。
この一週間は「善悪決定の時節」なのです。参考資料として挙げますが、『彼岸抄』(昭和新定御書二二七七)には、
「若しこの時衆生有って一善を修すれば、たとい衆罪の札に著くべきも、善根の日記に著くるなり。悪業を作れば善の筆を留めて悪の札に定む。ここに知んぬ、善悪決定の時節なり。二季の時正、此の時に小善は大善となるなり。小悪を作れば又大悪となる者なり。善悪二の道を定むといえども、一善なれども能く菩提の彼岸に至る故に彼岸と号するなり。」※時正…昼夜等分の意(広辞苑
とおっしゃっているのです。
さまざまな善行あるなかで、ことに仏法で大切にするのは、「四恩」です。
大聖人は『聖愚問答抄』(新編三九九頁)に、
「我釈尊の遺法をまなび仏法に肩を入れしより已来、知恩をもて最とし報恩をもて前とす。世に四恩あり、之を知るを人倫となづけ、知らざるを畜生とす。」
と、国の恩、三宝の恩、衆生の恩、父母先祖の恩を知って、これに報いていくことが、人が人らしく生きていく上での要諦であることを御指南です。
しかし、この四つをすべての人が行う事は、容易ではありませんが、誰もが考えついて、すぐにでも行う事が出来るのは、父母先祖への知恩報恩です。
ですから、この大事な一週間に先祖供養を行う事を勧める行事が定着したのです。
もちろん、朝晩の勤行・唱題・折伏・家庭訪問も、普段の功徳よりもさらにこれを倍加させることができるのが、この彼岸なのです。
これもきっと、「暑さ寒さも彼岸まで」という言葉があるとおり、生活するのに最も快適な季節であるが故に、この間の行動が、その人の「生命の傾向性」を定めていくと捉えて、「善悪決定の時節」と言われているのです。
だから、彼岸の一週間を大切にするべきなのです。

彼岸の中日、空には中道が示される
三番目の「対治悉檀」の上から考えるとは、「なぜ、お彼岸は春分の日秋分の日に行われるのですか」の問いには、浄土真宗の方では、
「この日は、昼の時間と夜の時間がほぼ同じで、さらに太陽が真東から昇って真西に沈む日です。その姿は『二河白道』という念仏の教えを表しています。つまり、昼と夜の時間が同じで、太陽が真東から昇って天空の真ん中を通って真西に沈むと言う事は、怒りという炎の川、貪りと言う煩悩の渦巻く濁流の真ん中を、いずれにも毒されず、また恐れず、まっしぐらに極楽浄土へと続く念仏の白道を表しているのです。さらに、真西に沈むということは、その彼方こそ阿弥陀の浄土のある方角だから、そこへ手を合わせ、彼の浄土を心に想い描き・観察して、ますます往生へのあこがれや願望を強くしてゆく『五種の正行(浄土の荘厳なることを一心に観察・憶念すること)』の絶好の機会なのです。だから殊に念仏の方では大切にするのです」
と、しておりますが、これは的外れの、とんでもないこじつけに過ぎません。
仏様は「仏好中道」といって、中道の意義をとても大切にされます。この日が昼の長さと夜の長さが同じで、太陽が大空の真ん中を通るということは、北にも南にも偏らない、まさに中道を表しているのです。
その中道とは何を言わんとされているかというと、私たちの心が「中道不思議の妙体」だと言う事なのです。これを教えんが為に、仏は世にお出ましになられたのです。
それは、どういう事かと言えば、私たちの心は有るかと問うてみれば、青・赤・黄・白・黒などの色も、三角・四角・丸・ハート型などの形もありません。それに、長いものでもなければ短いものでもありません。又、太いものでもなければ細いものでもありません。あるいは、体をスキャンという機械で輪切りの映像にして、頭のてっぺんから足のつま先までこまかく調べてみても、残念ながら見つける事はできません。
これは「有るという概念に当てはまらない」すなわち仏教で言う「空」ということになります。
それでは私たちの心は無いかと言えば、地獄や餓鬼や畜生や修羅に、あるいは菩薩の命さえも出てまいります。いわんや、見たり聞いたり、嗅いだり、味わったり、触れたりすることに触発されて、色も形も、好き嫌い美しい醜いなど、あらゆるものが心に浮かんできます。
つまり、当たり前ですけど「無いものではない」わけです。私たちは身の回りのさまざまな情報によって、色んな感情を抱くわけで、それこそが心というものですから、これを仏法では「仮諦」と言ったのです。

私たちは中道不思議の妙体
それでは改めて、心は無いのか、はたまた有るものなのか、どっちなんだと言う時、有に非ず、無に非ず。しかも有るものであって、しかも無いものである。
「有りと云はんとすれば色も質もなし。又無しと云はんとすれば様々に心起こる。有と思ふべきに非ず、無と思ふべきにも非ず。有無の二の語も及ばず、有無の二の心も及ばず。有無に非ずして、而も有無に遍して…」(一生成仏抄四七頁)
これを『中道』と言うのです。
私たち一人一人の心はこの「中道不思議の妙体(妙法蓮華の正体)」(一生成仏抄・四七頁)なんだよ、というのが、仏様の教えのメインテーマなのです。そのための、御本尊様に向かっての唱題なのです。
この中道の理に迷っているのを「無明」といいます。このことについては、『三世諸仏総勘文抄』(新編一四一五頁)に、
「無明は明らかなること無しと読むなり。我が心の有り様を明らかに覚らざるなり」
とある通りで、この根本煩悩によって人は十悪業を犯して、苦しみから苦しみへと、流転の人生を歩んでしまうようになるのです。これを仏は「十二因縁」と名づけられたのです。
このような無明煩悩に翻弄されてきた方も、三大秘法の御本尊様に巡り会って題目を唱えさえすれば、かならずわが身の尊厳を見出し、宿業を転じ、苦から脱却する事ができるようになるのです。
ゆえに『当体義抄』(新編六九四頁)には、
「所詮、妙法蓮華の当体とは、法華経を信ずる日蓮が弟子檀那等の父母所生の肉身これなり」
と、御指南なのです。
これを諭す様に、天地空間が中道の理を指し示しているのですから、この日を大事にして法要を奉修するのです。すなわち、今申した、我等一人ひとりが「中道不思議の妙体である」ことを学び、そして肝に銘ずべき日なのです。

彼岸の更なる意義
最後に「第一義悉檀」の上から申しあげることですが、そもそもお彼岸とはどういう意味かと言いますと、元々は「到彼岸」という言葉を省略したものなのです。
「彼の岸に到る」と言う言葉は「パーラーミター」というインドの言葉、サンスクリット語を翻訳したもので、「音訳では波羅蜜」という、仏様がまだ菩薩であった時に修行された六つの事柄、布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧のことです。これを行えば仏に成れるわけです。
ところがこれが、もの凄い時間がかかるのです。これを「歴劫修行」というのです。話すのもおっくうですが、簡単に述べておきます。原始仏教と仏教学者が言っている経文には、これを修行するのに三阿僧祇百大劫もの年数が掛かるとされています。
その阿僧祇という時間は無数とか無尽数と訳し、現代では十の五十一乗、つまり一の後に〇が五十一個つく数だと言います。
その最初の阿僧祇の時お釈迦様は、前の釈迦牟尼仏というインドのお釈迦様と同じ名前の仏様のもとで修行を始められてから、尸棄仏という仏様まで七万五千の仏様が世に出られたそうですが、これらの仏様のもとで修行され、この間、女性や地獄・餓鬼・畜生・修羅などの世界に身を受ける事は無くなりましたが、まだ自らの成仏の時が何時なのかはご存知ではありませんでした。
次の阿僧祇の期間では、尸棄仏から燃燈仏にいたる七万六千の仏に仕え修行をされます。この燃燈仏から、九十一劫の後成仏するであろうとの記別を受けます。
三番目の阿僧祇では燃燈仏から毘婆尸仏にいたる七万七千の仏の元で修行され、ようやく自らの未来成仏を確信するに到り、他に向かっても説かれる様になります。
この間、化他といってひたすら他の人のために六波羅蜜の修行をされました。
次は百大劫という間、未来に仏に成った時、身を飾るための因を積むため、自行の六波羅蜜(布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧)の修行を専らにされるのです。
大劫とは地球が出来て、安定期を過ぎ、やがて崩れ、元の空間に戻るのを一大劫と言います。これを百回くり返すのを百大劫と言うのです。
この最後に、尸毘王と生まれて鳩の命に成り代わられたのは、布施波羅蜜の満行です。
明王として生まれ、鹿足王との約束を命懸けで果たしたのは、持戒波羅蜜の満行です。
忍辱仙人として生まれ、身を切り刻まれてもよくこれに耐えていかれたのは、「忍辱波羅蜜の満行」です。
太施太子として生まれ、すべての人を飢餓から救うために貝殻で海の水を汲み干し、ついに竜宮の如意宝珠を得られたのは「精進波羅蜜の満行」です。
尚闍梨として生まれ、瞑想の最中、ひな鳥が生まれ、そして巣立つまで、座禅を続けられたのは「禅定波羅蜜」の満行です。
劬嬪大臣として生まれ、大国をよく治めるために閻浮提を七つの州に分けて統治されたのは「智慧波羅蜜の満行」です。
これを仏教では「歴劫修行」といいますが、これは到底私たち凡夫は出来ません。ところが、この波羅蜜六度万行の功徳を簡単に、唯一つの行によって、全部譲り受けられる修行というものがあるのです。
これが私たちの、大聖人がお授け下された三大秘法なのです。三大秘法こそ仏法の最大肝要であり、仏法の極致なのです。私たちがこの御本尊を信じ南無妙法蓮華経を唱える時、やすやすと成仏の境界を開いていく事が出来るのです。

一行一切行
このことを『聖愚問答抄』(新編四〇八頁)には、
「玄義には、名體宗用教の五重玄を建立して妙法蓮華経の五字の効能を判釈す。五重玄を釈する中の宗の釈に云はく、『綱維を提ぐるに目として動かざること無く、衣の一角を牽くに縷として来たらざること無きが如し』と。
意は、此の妙法蓮華経を信仰し奉る一行に、功徳として来たらざる事なく、善根として動かざる事なし。譬へば網の目無量なれども、一つの大綱を引くに動かざる目もなく、衣の糸筋巨多なれども、一角を取るに糸筋として来たらざることなきが如しと云ふ義なり」
と。この中に五重玄の中の宗玄義とは、神力品の「如来の一切の甚深の事」のことで、「深とは因果」と言って、釈尊の因位つまりまだ菩薩であったときの修行の功徳、果とは果位の万徳。仏という位にお昇りになり、その身に具えたもうすべての徳、合わせて「因行果徳の二法」を宗玄義と言うのです。
妙法蓮華経の修行とその果報は、一月、その他の、方便のお経の中に説かれる修行と仏果は地上の水に写った万影のようなものです。それは全部、天空の本物の月に収るわけです。
また、漁師が魚を捕る時の網は、その目が数え切れない程ありますが、たった一つの綱を引けば、すべての網の目がたぐり寄せられます。大綱は題目の修行です。網の目は他の経に説かれた方便の修行です。
着物の布は、多くの縦と横の糸を編んで出来ていますが、これも、ほんの一角をつまんで引っ張れば、全部糸筋がたぐり寄せられるように、「一角を取る」が題目の修行、巨多の糸筋を、爾前方便の経に説かれる修行と仏果になぞらえているのです。
このように私たちは、御本仏大聖人の御慈悲によって、膨大な六波羅蜜の修行の功徳をあっという間に得て、たちまちに成仏の境界、彼岸にいたることができるのです。
最後に『如来滅後五五百歳始観心本尊抄』(新編六五三頁)を引きます。
無量義経に云はく『未だ六波羅蜜を修行する事を得ずと雖も六波羅蜜自然に在前す』等云々。乃至文の心は、釈尊因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す。我等此の五字を受持すれば自然に彼の因果の功徳を譲り与へ給ふ」
これが、私たちに大果報をもたらす、最高の仏道修行なのです。これからも大確信と歓喜の元に、自行化他の信行に励んで参りましょう。

 引用元:Nichiren Shoshu Nishidaisenji