苦しい時の訪れに:信心を杖として乗り越えられますように。。。願いながら、祈りながら
気のゆるみからか。
疲れていたのか。
仕事に倦怠感を感じていたのか。
一週間のうちに二回も、立て続けに同じような失敗を重ねてしまいました。
幸いにも大事には至りませんでしたが、職場では自分の職務を奪われてしまいました。
信用失墜というダメージ。
いわゆる干されてしまった状態。
反省の為に、毎日清掃業務に従事しています。
いつか元の職務に復帰できるのか?
先が見えない状態。
解雇にはなりませんが。。。どうなるのだろうという不安。
先週はしんどかった。
御本尊様にすがりつくように祈る日々。
人生に何度も経験してきた失敗。
自分の宿業と罪障消滅に向き合っています。
nichirendaihonin.hatenablog.com
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自分のブログの過去記事を読み返しています。
「日蓮正宗のススメ」 というタイトルでブログを書いていながら、自分が苦難に直面していることを書くのは、広宣流布の妨げになりはしないかとも思ったのですが、それでは信心を嘘で汚すことになります。
日蓮正宗の信心に巡りあえたことは、本当にすばらしいことだと心から思っています。
破門前であったとはいえ、創価学会の家に生まれ、青年期を顕正会での不幸に泣き続けた私。
法華講10年の節目を越えようとしている今、私の前に現れた苦難。
日蓮正宗の御僧侶や法華講の方の書かれた、苦難に立ち向かうための指導を読み、唱題に励んで乗り越えられるよう頑張りたいと思っています。
人として生まれて来て「転重軽受の法門」
法華経の結経・観普賢経の「若し懺悔せんと欲せば、端坐して実相を思え」の前には「一切の業障海は、皆 妄想より生ず」と…。即ち一切の宿業、罪障、自分の過去世から持ってきた処の罪業・罪障、そういうものは海のように多量と説かれております。
しかし、今世で己の宿業を打開できるとなると、本当にこれは有難いものです。 我々は過去遠々劫から、様々な境界・様々な人生で生まれては死に、また生まれては死にして、今日人として生まれて来ているものです。
人それぞれ皆違った境涯を歩いております。一人として同じ人はいません。 皆それぞれに過去の人生が体に付けられていて、「私は人間に生まれて何回生」とか「今回初めて人間に生まれました」とか「いや、何度も人間に生まれ正法を護持しています」とか、そういうのが判れば、生きていく上で謙虚になり、反省も出来でしょうが、そうはいかない。
生まれた途端、無意識の中で現世初めて生まれたとの思いから、それぞれが気ままに生きています。 処がそうじゃない。過去から何度も何度も生まれてきては、場合によっては、正法に巡り合える人もいるだろうし、場合によっては、罪障を作って長い間 三悪道に堕ちて、やっと今回「また人として生まれて来た」という事もあり得るかもしれない…。 そういう人は、まだ過去の謗法の罪が、習気・罪障として残っているとも説かれています。 それを今世でもって、正しい仏法の修行をする事によって、軽く受けていると…。
涅槃経の「転重軽受の法門」には、本来重く受けるべきなのに、この妙法の経力によって軽く受ける事となると説かれています。
従いまして、今日我々が正法弘通の為に常々唱題を重ねている事は、自身の罪障消滅・家内安全は元より、自他共に安穏なる国家社会を願う処にあります。 その為にも唱題をもって、その喜びと功徳を感じて頂きたいものであります。
本来自身の生命に宿業として具わっているものが今、出ているだけですから、出てくるものに対して何だかんだ…と。 「あの人の所為で…、私は悪くない」等と。そうでないんです。 すべて自身の生命に宿っている・具わっているものが、今、妙法護持の功徳力によって、今世で軽く現れているものであります。 自分自身が持っているものが今、出て来ているのです。 今世に出たのであれば、よしこれはチャンスだと、歓喜をもって唱題をして、その歓びで折伏をして、自らの宿業を打開していこうと…、その唱題が大事なんです。 どうかそういう中で、決して今自分の起きている色んな問題に対して、何も悔やむ必要はない。
でもって「よし宿業を打開できるぞ!」という強い生命力を涌出させる為にも、歓喜ある唱題・折伏に頑張って、宿業を打開して頂きたいと思います。
<御住職御指導より 2014年9月7日 清涼寺にて>
人として生まれて来て「転重軽受の法門」 | 日蓮正宗美畑山清涼寺 千葉の清涼寺 法華講ホームページ 千葉県千葉市花見川区畑町
信心で過去の罪障を消滅させる
2005-11-20 | 手引書⑫
過去の「罪障」は、信心をすれば完全に消滅させることが出来ます。御本尊様に勤行唱題することで「罪障」を消滅することが出来るのです。
世間では、「罪障」を宿命と結び付けるところがあります。信心を知らない多くの人は、生まれ持ってきたものは、変えることが出来ず、宿命である宿業も当然、変えることが出来ないと思い込み、悲観的に人生を送る人がいます。信心をすれば、そのような考えは完全に無くなります。これは邪宗教の考え方であり、人生の行動範囲を自ら狭めることになり、非常に無駄な考えであります。
邪宗教で説くところの宿命に纏わる教義は、マイナス思考であり生きる希望を失わせる教えを裏付ける間違った教義です。このような教えをまともに信用している人は、今すぐに正信に目覚め、日蓮正宗の信心をすることが必要です。
日蓮大聖人は『開目抄』に、
「我無始よりこのかた悪王と生まれて、法華経の行者の衣食田畠等を奪ひとりせしこと、かずしらず。当世、日本国の諸人の、法華経の山寺をたうすがごとし。又法華経の行者の首を刎ねること其の数をしらず。此等の重罪はたせるもあり、いまだはたさゞるもあるらん。果たすも余残いまだつきず。生死を離るゝ時は、必ず此の重罪をけしはてゝ出離すべし。功徳は浅軽なり。此等の罪は深重なり。権経を行ぜしには、此の重罪いまだをこらず。鉄を熱にいたうきたわざればきず隠れてみえず。度々せむればきずあらわる。麻子をしぼるにつよくせめざれば油少なきがごとし。今、日蓮、強盛に国土の謗法を責むれば、此の大難の来たるは過去の重罪の今生の護法に招き出だせるなるべし。鉄は火に値はざれば黒し、火と合ひぬれば赤し。木をもって急流をかけば、波、山のごとし。睡れる師子に手をつくれば大いに吼ゆ」(御書573)
と仰せであります。日蓮正宗においては、信心をし折伏することで、過去遠々劫の謗法を罪障消滅させることができます。私達は信心以前の、過去世の記憶が全くありません。しかし、信心をして様々な難を経験することで、過去世に謗法を行ってきたことを知ることが出来ます。それを日蓮大聖人が『開目抄』で仰せになられているのです。
難が現れることで、謗法が罪障消滅されていることを理解し、未来に必ず成仏できることを確信することが大事です。御本尊様に御題目を唱えることで、過去世の罪障を全て取り出すことが出来ます。罪障を消滅することで、六根が清浄になるわけです。つまり、御本尊様からの有り難い功徳を頂くことになります。
罪障が消滅される文証を上げると『南条殿御返事』に、
「かゝる不思議なる法華経の行者の住処なれば、いかでか霊山浄土に劣るべき。法妙なるが故に人貴し、人貴きが故に所尊しと申すは是なり。神力品に云はく『若しは林中に於ても、若しは樹下(じゅげ)に於ても、若しは僧坊に於ても、乃至般(はつ)涅槃したまふ』云云。此の砌に望(のぞ)まん輩(やから)は無始の罪障忽(たちま)ちに消滅し、三業の悪転じて三徳を成ぜん」(御書1569)
と仰せで、罪障である宿業という悪が、三徳に変わるのであります。更に『四条金吾殿御返事』に、
「多くの月日を送り、読誦し奉る所の法華経の功徳は虚空にも余りぬべし。然るを毎年度々(たびたび)の御参詣には、無始の罪障も定めて今生一世に消滅すべきか。弥(いよいよ)はげむべし、はげむべし」(御書1502)
と御教示のように、寺院に参詣することで、無始已来の謗法の罪障を消滅させ、一生成仏できることを日蓮大聖人が仰せであります。毎月の御講に参詣することで、過去の罪障を消滅させることが出来ます。
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