日蓮正宗のススメ

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諸難をしのぐことの尊さ

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『日曜講話』第五号(昭和63年11月1日発行)
諸難をしのぐことの尊さ

 皆さん、お早うございます。この日蓮正宗の信心を全うする上におきまして、毎日が功徳ばかりではない。やはり大聖人様が、四ヵ度の大難をしのがれて、「其の外の大難、風の前の塵なるべし」(全二三二)と仰せられているように、大難をしのぎつつ、この信心を全うするということが大切でございます。しかし、私達凡夫は、ともすると、そうした諸難よりも、むしろ毎日毎日が功徳に溢れて過ごしているならば、こんな幸せなことはないと、みんなそういうことを願うのであります。それはたしかに病魔にしろ、あるいは色々な悩みや苦しみや諸難にいたしましても、やはり、あるよりはない方が良いに決まっております。しかし、信心をして簡単に功徳に満ち溢れて、毎日毎日が功徳に彩られた生活だということになってしまいますと、これはまた冷静に考えますと、どうかと思うのであります。

たしかに季節の草花等々を考えてみましても、秋の紅葉(もみじ)というものは、夏の暑さがあって、そして初めて紅葉(こうよう)というものがあるわけであります。春の梅の花というものも、あるいは桜の花というものも、冬の厳しさというものを乗り越えた時に、初めてその花の輝きが、立派な、人の心を打つ花として咲いていくものであります。それが簡単に、例えば温室なら温室で栽培して、一週間から十日で、菊の花も桜の花も何の花も咲いてしまうということになりますと、これは味わいも何もない、人の心を打つなんてこともなくなってしまうでしょう。ただ、あゝきれいだなあと、それだけのことで済んでしまうわけであります。やはり山に登って、その厳しい岩肌の中に小さな名もない高山植物が強風に吹かれながら、そして実際に大自然の厳しさに耐え忍びながら咲いておるという、崇高な一つの白い花や黄色い高山植物を見て、やはり登山者は心を打たれるのであります。

確かに信心の功徳は大切であります。私達は功徳を願う、功徳が欲しいから信心をするのであります。しかしまた一方、信心を鍛える、本当に一騎当千の人間を造るというためには、諸難というものも、これはまた必要なのでございます。従って、仏様の慈悲の上から、私達はそうした試練の時には、そうした試練を受けるということの強さと、意気込みと、気概というものが必要であるということを考えていただきたいと思うのであります。

大智度論』という竜樹の書き物の中にこういう話が載っております(巻第十五、大正蔵二十五ー一六九・B)。一人の王様が家来に向かって、一匹の太った、滋養分に溢れた羊の肉が欲しいということを命ずるのであります。その時に、普通の脂ぎった羊の肉ではいけない、赤身の肉というのでしょうか、霜降りの肉というのでしょうか、とにかく脂身のない、おいしい肉の羊を連れてまいれということを命ずるのであります。その家来はとにかく考えまして、一体、脂身のない肥えた羊なんて、どうやったら育つのかと、色々、知恵を巡らすのであります。その時にその家来は、羊に色々な穀物であるとか草であるとか、一生懸命丹精して食べさせ、そして羊を育てます。ただそうやってたくさんの食物を与えて育てた羊というのは当然太るけれども、内臓と言わず筋肉と言わず、全部脂ぎってしまいます。そこでその家来は、一日に三回、狼を羊のそばに連れて来まして、吠えさせ脅かし、緊張感を与えた。餌を充分に与えて育てると同時に、一方では一日に三度脅かして緊張感を与えて、ただむやみに太らせない。そういう方策をして羊を育て、王様のところに献上したところ、果たして料理人がその羊の肉を切り出して見ると、立派に良い肉に太っていたけれども、しかし、その肉はギラギラした脂身ではなくて、おいしい肉に満ち溢れていたということであります。

それと同じように、私達の信心というものも、菩薩の修行、本当の本化の菩薩の修行というものも、ただそういう脂ぎった、何でも良いから太っていればいい、功徳さえあれば良いということでは実はないのであります。そうした信心の上における煩悩であるとか、信心の惰性であるとか、怠惰であるとか、慢心であるとか、油断であるとか、驕慢であるとか、そういう一つ一つの脂を、不浄のものをそそぎ落として、そうして六根清浄の生命、そしてまた精進をする心、発心をする心、更には総ての諸難に負けない自分というものを鍛えていくことが必要だということを教えているのであります。

従ってそうした諸難がないとするならば、私達の信心というものは、ともすると、いい加減になります。困った時だけ信心すれば良いと、日常の勤行といわず、折伏といわず、精進といわず、発心といわず、だれもしなくなってしまいます。ただ困った時だけやれば良いということになってしまうのであります。そうすると結局、自分の信心が駄目になっていってしまう。ですから諸難というものも、たしかにあるよりはない方が良いに決まっていますけれども、又、それも大切なことなのだということを良くお考えいただききたいと思うのであります。

やはり、鍛えるということ。一本の名刀を作るためにも、そこには焼くという作業、高熱になるまで真っ赤になるまで焼き切るということがまずあります。その次には、鍛練をして何回も何回も刀鍛冶(かたなかじ)が打つという作業があります。打ち終わり、ある程度の形にしたならば、今度は営々として研ぐという研磨の作業があるわけであります。やはり一本の名刀を作るためには、絶対にそうした焼くということと、鍛えるということと、磨くということがあるわけです。

私達の勉強でも仕事でも信心でも、自分という人間を作るという上においても、そうした焼き、鍛え、磨くということを抜きにして本当の全うな人間にはならない。大聖人様は『妙密上人御消息』という御書の中に、

 「金はやけば弥(いよいよ)色まさり、剣はとげば弥利くなる」(全一二四一)ということを言われております。また、

 「きた(鍛)はぬ、かね(金)は、さかんなる火に入るればとく(疾)とけ(蕩)候。冰をゆ(湯)に入るがごとし。剣なんどは大火に入るれども暫くはとけず。是きたへる故なり」(『四条金吾殿御返事』全一一六九)

ということを四条金吾さんに教えておられるのであります。

昔の人の言葉の中にも「艱難(かんなん)汝を玉にす」という言葉があります。そうした意味でやはり一切の諸難に打ち勝っていくということの尊さ、その大事さということも一つ心に置いて、これからの信心の糧としていっていただきたいと思うのであります。

大聖人様は、「あの提婆達多こそ釈尊にとって最大の善知識であった、大聖人にとっては又、平左衛門こそ善知識なり」(全九一七取意)ということを仰せになっていらっしゃるのであります。やはり人間にはそうした転機となる、大難の時には大難をしのいで、諸難の時にはその諸難をしのいだ時に初めて、広大な功徳と、また本当に自分が大聖人様の真実の弟子になりきることができるのだということを深く心に置いて、これからの信心を全うしつつ、一切の悩みや苦しみに打ち勝っていただきたいということを申し上げまして、本日の御挨拶に代えさせて頂く次第でございます。御苦労様でございました。

(昭和六十二年十月十一日)