日蓮正宗のススメ

万民一同に南無妙法蓮華経と唱え奉らば吹く風枝をならさず雨壤を砕かず

逆境の大切さ

『日曜講話』第三号(昭和63年7月1日発行)
逆境の大切さ

f:id:ekikyorongo:20180924225132j:plain

 皆さん、お早うございます。皆様方の過去遠々劫以来謗法罪障消滅、家内安全、息災延命、信心倍増、現当二世心願満足ならびに皆様方の御一家の御健勝と御繁栄の御祈念を懇ろに申し上げました。

 皆様方の誰でもそうだと思いますけれども「幸せになりたい、何とか自分の願いを成就したい」という何らかの発心の志があって、そしてこの日蓮正宗に帰依なされ、御本尊様をお受けになり、又、一日勤行を貫き、折伏を全うして、皆様方の信心の境界を一歩一歩、前進させて来られたことと思うのであります。しかしながら、人間は生老病死、この四苦・八苦というものはどなたも逃れることは出来ません。

 生きていく上には生きていく上の悩みや苦しみも尽きないものでございます。今はどんなに若さを誇っておりましても、一日々老いというものがやって参りますし、家族の誰かが病に倒れる日もあるということは、これ又厳然たる事実でございます。

 しかし私達は、この信心を通して病といわず、仕事といわず、勉学といわず、人生といわず、病魔といわず、その全てに打ち勝っていくということが大切なのでございます。信仰にしろ何にしろ人間を造るということは、それは順境が、つまり、恵まれているということが人間を造るのではなくして、どちらかというと苦難が人間を造る、逆境が人を造るということが言えると思うのであります。信心をして十年、二十年になるのに、わが家には次々、次々と苦しみや諸難がやってくると言って嘆く人がございます。

 大聖人様も御本仏と言われながら、本当に大聖人様が仏様ならば、どうして島流しに遭ったり、刀の難に遭ったり、あるいは大勢の世の中の人々から中傷されたり、悪口を言われたりするのだろうかという風に一見、疑問を持つ人もいらっしゃると思うのであります。何事も先陣を切って正しい発言をし、正しいことを教え、正しい振舞いをするということは、実は世の中の人からは、なかなか受け入れられないことなのでございます。

 人の悪口だとか、人の噂というものはすぐに広まります。社会にあっては、マスコミならマスコミという手段を通じまして、日蓮正宗の悪口とか、創価学会の悪口とかというものは一夜にして日本中に広まります。ですけれども、その信心の正しさ、御本尊の正しさ、あるいは皆様方が日夜勤行をし、そして如何に正しい信心を全うしているかということは、世の中の人はなかなか受け入れてくれません。それどころか気違いか変人かというように世の中の人は考えているのであります。ですから何事も素晴らしいことは、正しいことは、真実は伝わらないものだ、受け入れないものだ、所詮これは大聖人様の御一代の、御一生のお振舞いそのものがそのことを表していると思うのであります。従って皆様方も、親戚や兄弟や同僚や世間や、世の中の人々の、そうした心ない中傷や悪口・罵詈等々に紛動されない強い信念というものを持って頂きたいと思うのであります。そうした魔に打勝つことが、実は正しい信心を貫く上において大切なことなのであります。功徳を受けて有難いと感じ、素晴らしいと思い、その喜びの時には誰だってこの信心の志を全うすることは出来ます。

 しかし本当の信心というのは、むしろ苦しい時に、辛い時に、逆境の時にその信心が貫けるかどうかということによって、その人の人間性も、又その人の信心の値打ちも決まるのだということを、しっかりと心の底に持っておいて頂きたいと思うのであります。

 大聖人様も「提婆達多こそ善知識よ、平左衛門こそ善知識よ」(全九一七取意)と仰っておられます。釈尊をして釈尊たらしめたものは、実は悪人の提婆によって釈尊は鍛えられ、釈尊の値打ちがそこに定まったのであります。大聖人様の大聖人様たる所以もやはり平左衛門以下、ありとあらゆる三類の強敵が寄って集って、大聖人様に打ちかかり、その魔の働きを、むしろ、なすことによって、大聖人様自ら末法の仏様であるということを、法華経の行者であるということを、身をもってお示しになったのでございます。

 従って私達も、いやしくも「日蓮が弟子檀那」と言うならば、そうした大聖人様の御境涯に、学んでいくということが大切だと思うのであります。

 その逆境の大切さということは、人間だけではないのでございます。植物だって、小鳥だって、動物だって逆境というものの持つ値打ち、意味というものを長い観察を通して知ることが出来るのであります。

 一つの例でありますが、三重大学の生物学教室で、このような実験をしたというのであります。それは秋の間に桜の木の枝を摘みまして、それを十一月・十二月・一月と、冬の一番厳しい季節の間に、一つのグループは二十五度の温室の中にずっと入れていた。もう一つのグループは十五日の間、四度の低温の中に入れていた。もう一つは冬の厳しい間、外に出していたという三つのグループを、二月十五日からどのような変化をおこすかということを実験したのであります。そうしますと、二十五度の温室の中にずっと入れ続けた桜の枝のグループのうち、今度は二月十五日から十五度の部屋に移したものは二十五日目に六十パーセント開花した。そして十度の部屋に移したものは四十日目に花を咲せた。ところが十五日間、四度の低温に当てていたものは二月十五日から二十日目に七十パーセント咲いた。そして三十日目には全部花が満開となった。そして、第三の、冬の厳しい間、外に置いたグループは二月十五日から十五日目で百パーセントの花が咲いたというのです。つまり桜の枝というものも二十五度の温室で育てたものは、冬の厳しい間に外に置いたものより早く咲くと私達は思いますけれども、実はそうではなくて二十五度の温室に入れ続けたもの程、開花は遅い。むしろ十二月・一月の冬の厳しい間、外に置いたものが一番早く、そして一番素晴らしい花を咲かせるのだということも、この桜の花の厳然たるその開花の事実なのでございます。

 従って草花も、あるいは木々も冬の厳しさの中によく観察しますと、ちゃんと新しい春の芽がそこに吹き出してきているものでございます。我々の感覚から言いますと、十二月・一月・二月という冬の一番厳しい時というものは、草花も凍えて殻の中に閉じこもっていると思いますけれども、実はそうではなくて、その枝の先端にはもはや、春の新しい息吹が吹出してきている。ですから、そういう草花でもやはり逆境が本当の値打ちを作り、逆境の中に既に新しい春の芽が吹出してきておるということを、私達は学んでいく必要があると思うのであります。ですから草花も、木々も小鳥達や、動物達も皆、むしろ冬の間は冬眠しているのではなくて、その間にエネルギーを貯めて自分を育てて、そして新しい春の命をそこに宿しているのである。ですから厳しい時は、実は厳しい逆境なのではなくて新しい春の始まりなのだ、新しい春の息吹なのだ、旅立ちの時なのだということを、われわれは考えなければいけないと思うのであります。

 どうか皆様方も信心の上から、そういうことをしっかりと心に置いて苦しい時こそ人を造り、その苦しさがあるから私達は又、そこから立上がって新しい自分の命を、春の喜びをそこから見出だしていくのだということを、しっかりと心に置いて、何時の時代にも希望を失わないで、どんな苦しさの中にも信心を捨てない、そうした不屈の、不退転の決意に起って、今後共、この正宗の、世界一の信心を全うしていって頂きたいということを、一言申上げまして、本日の御挨拶に代えさせて頂く次第でございます。大変、御苦労様でございました。

(昭和六十二年五月二十四日)