対話集:対話の試みとして 第1回 梗概
1 対話集というカテゴリーの創設について
私は今まで多くの人々と対話をしてきました。
これからも多くの人々と対話をしていきたいと願っております。
対話の相手は、無信仰の人、創価学会員さん、顕正会員さん、法華講員さん、日蓮正宗の御僧侶等、多岐に渡ります。
過去の対話を忠実に再現するのではなく、過去の対話を思い出す今の自分が、どのようにその対話に向き合うかを考えながら、自問自答していくスタイルになると思っています。時には自分との対話となることもあるかもしれません。
今、なぜ、このような対話集などというカテゴリーを新しく創設し、自分のブログに書き遺そうと思ったのか、今までこのブログを閲覧してくださった方は、疑問に思われるかもしれません。
大きな動機は、残りの人生の少なさに気付かされたということです。
私は今年で47歳になります。
47年間の人生が長いものか短いものか、感じ方は人それぞれでしょうが、私は長い時間を大聖人様の信者として生きてきたと思っています。
そして、日蓮大聖人様を信じて生きてきた人生であったと思っています。
自分がこの世を去ることを意識し始めるには、やや遅いとも思うほどです。
インターネットを通じて、日蓮大聖人様を信じている人、もう信じてはいない人も含めて、色々な葛藤や苦悩、はたまた強い信念や喜びの言葉に出会ってきました。
2 本当の対話は可能か?
対話は非難合戦ではありません。
対話は誰かの検閲を恐れてなされるべきものでもありません。
理想的な対話とは、相手への理解が存在しなくては成り立ちません。
日蓮正宗に再入信してから約10年。
私は、迷いながら生きてきました。
決して、盲信的な宗教サーフィンを経験したわけではありません。
なにせ出発が昭和47年生まれの創価2世ですから、生まれた時にはすでに日蓮正宗は創価や顕正会(妙信講)によってゴタゴタの渦中でした。
そんな創価2世会員が、20歳で顕正会員になり、38歳で日蓮正宗に再入信したのです。内心の葛藤や人生の波乱はすさまじいものでした。
そんな私と関りになった人々との対話も、きっと読む人によれば興味の尽きない対話となるかもしれません。
3 どうかあなたも対話に参加してみてください。
私は、日蓮正宗の信仰に現状は落ち着いています。
創価・顕正の問題を網羅的に把握しているわけでもありません。
できるならば誹謗中傷・罵詈雑言ではなく、虚心坦懐なご意見や疑問をお聞かせいただければ、現在進行形の対話集にもなりうる可能性があります。
インターネットに公開で書き込みをしますので、所属の組織に憚りがあるという方もおいででしょうが、匿名性を維持しながら良質な対話を形成できれば、この上ない喜びを共有できるのではないかと期待しています。
4 なぜ宗教を信じるのか?
最後に第1回などと今回限りの回数表示をして、梗概などと大仰な表現までした、本日の記事の締めくくりとして、根本的な疑問といいますか、大前提となる宗教そのものについての考えを披露させていただきたいと思います。

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欧米ではベストセラーになった、ドーキンス博士の神は妄想である―宗教との決別と、その反論の書としての、神は妄想か?―無神論原理主義とドーキンスによる神の否定の2冊の本は、宗教否定派と肯定派の激論の書だと申し上げても過言ではありません。
彼らは一神教世界の住人ですから、宗教と言えば直截的に全知全能の創造主たる「神(ゴッド)」の、存在否定と肯定の話になってしまうのですが、そもそも「神」を持たない日本人にはピンとこない部分も多々存在します。
しかし、日本人にも形而上学的な思考の素養がないわけではありませんし、自分がなぜ生まれてどのように生き、死ぬときはどのようになり、死後はどうなるのか?
そのような疑問をふと考えたことがある人も、少なくないとは思うのです。
私は、幼いころからそのような疑問に拘泥しながら生きてきました。
大学生になってハイデガーという哲学者の存在を知り、その主著「存在と時間」にまつわる数多くの概説書や研究書を読みました。ハイデガーが解き明かそうとして、結句、死ぬまで解き明かせなかった「存在とはなんであるか?」という、哲学的な問いかけは、未完の大著と呼ばれる「存在と時間」の不思議な魅力となり、今も私を惹き付けてやみません。
ハイデガー以外にこの大それた「人生最大の謎」に挑み続けた哲学者は、他には誰一人として存在しないのですから。
日蓮正宗の信仰とハイデガーの「存在と時間」は、全く何の関係もありません。
しかし、私の心の中ではリンクしているのです。
釈尊は形而上学的な問いは否定したと、どこかで聞いたことがあります。
しかし、日蓮大聖人様の仏法は、この問いに答えを用意されていました。
「本有常住」という仏の存在です。
滅しない存在。
逆に言うならば、むしろ「無」こそが妄想であるということなのです。
ハイデガーは人間存在を「現存在(ダーザイン)」と呼びました。「存在」が姿を現す「場」なのであるという意味で名付けたのです。
敷衍して言うならば「存在」とは「仏」のことではないかと、私は解釈しています。そして「仏」が顕現する場所が人間の心なのではないかと。
まあ、これは私の己義であり、論理的整合性もなにもない直観に過ぎません。摧尊入卑になるといけませんのでこの辺で。
私の信仰動機にはそのような含みもあるのです。
長くなりましたが、これからこの対話集において、ざっくばらんな対話篇を構築していくことができればいいなと思っている、令和直前の春の日でした。