信心は懲り懲りと言う人に
『日曜講話』第七号(平成元年3月1日発行)
信心は懲り懲りと言う人に
皆さん、お早うございます。皆様方のお友達の中に、皆様方が少しでもこの信心の話や正宗の話をし、また折伏を行じられますと、ともすると、「もう信心なんていうものは、私は、もう金輪際、懲り懲りだ」と言って、途端に拒否反応を示す人も、沢山いらっしゃると思うのであります。他宗他門の人達からいろんな形で、ある時は甘い言葉をかけられ、言葉巧みに誘われて、いろんな邪宗、邪教に迷って迷って、遍歴し続けた人達にとりましては、そういう一つの拒否反応の現れとして、信心は「懲り懲りだ」と、つくずく思うということも、考え方によっては、一理はあるように思うのであります。やれキリスト教だ、天理教だ、霊友会だ、佼成会だ、真如苑だと、いろんな形で宗教を遍歴して、その実態を知り、その虚像を知り、いろんな嫌な思いを繰り返して来た人達にとっては、そうした思いにかられることも、ある一面同情すべきこともあると思います。
しかし、それもよく考えていただきたいことは、実際は、その人の心の中の実態をよく冷静に考えてみますと、実は宗教とか信仰とかということに、実は懲りたのだはなくて、本当はそういう邪悪な教え、偽りの宗教というものに懲りたのであって、真実の宗教に懲りたわけではない。正しい信心に懲りたわけでない。その盲点をよく皆様方は教えてあげなければいけないと思うのであります。
例えば、結婚に失敗をした人が、「自分はもう結婚なんか、もう二度と嫌だ」という人があったといたします。それもよく観察しますと、それは何も結婚そのものに失望したわけでないのであって、自分はその相手に失望しただけのことであります。そういう人と一緒になり、そういう人と所帯を持ったけれども、うまくいかなっかたということでありまして、だからと言って、一切の結婚を否定してしまう、拒否してしまう、結婚を罪悪と考えるとするならば、その人の考えは、全く間違っているのであります。確かに、世の中には悪妻もいるでしょう。しかし、大半の人は良妻であり、また賢母とうたわれる人も大勢いらっしゃるわけであります。ぐうたら亭主もいることは事実でありますけれども、反面、大半の人はごく普通の人でありまして、結婚した人が、ことごとく失敗するとか、いいかげんな人生を送るというものでは、決してないはずございます。たまたま自分が結婚生活に失敗したからといって、人の結婚まで中傷してみたり、結婚というものを、あるいは家庭というものを全部ことごとく、それを十把ひとからげにして、それを否定し拒否し、そして頑なに、自分の殻に閉じこもってしまうということならば、それは全く、その人が愚かな人と言わなければならないのであります。
懲りるという字を、どういう風に漢字で書くかと申しますと、昔から「勧善懲悪」という言葉があります。悪を懲らしめて善を勧めるという「勧善懲悪」。ですから「懲りる」とか、「懲り懲りだ」とかいう場合の懲りるということも、何に懲りたかということ、何を懲らしめるかということが問題です。それは悪を懲らしめて、そして正しいものに帰する。善に帰するということが「勧善懲悪」ということです。従って「懲り懲り」の懲りるということは、何に懲りたかという本質を見極めることが大切なのであります。それは結婚に懲りたのじゃない。信心そのものに懲りたのじゃない。そういう相手に懲りたのであり、そういう人を見抜けなっかた自分自身の問題ということを、よく考えていかなければいけないわけであります。
今までの邪悪な宗教、いいかげんな低劣な悪知識に迷った、むしろ自分の不明をこそ、よく反省をしなければいけ
ないのであります。にも拘らず、正しい宗教も、間違った宗教も、いいかげんな宗教も十把ひとからげにして、それを全部ことごとく、宗教というものはそんなもんだという風に考えて、そして「もう、懲り懲りだ、懲り懲りだ」と、その人は言っているに相違ないのであります。
しかし、それは本当は、その悪知識に懲りて、懲りぬいたからこそ、どこまでもいいかげんな邪悪な宗教を邪悪な宗教として喝破して、喝破したならば、それを大いに破折をして、そしてその悪を捨てて正しい信心に帰依する。正しいものに目覚めていく、その向上の一念と言いますかね、進取の一念、正しいものに目覚めて行く、その進取の一念に立ち上がって、そして悪はどこまでも悪を糾弾していく。そして正しい正法に目覚めていくということが、これからの取るべき姿でああります。「もう、懲り後りだ、懲り懲りだ」と言って、正しい信心まで否定するということは大いなる間違いであるということを、ズバリ指摘をしてあげていただきたいと思うのであります。そしてその悪を懲らし、そして善を勧め、正境に目覚めていくことこそが自分にとっても、また一切衆生にとっても、最も大切な、あるべき姿ということを、そういう人に対して教えてあげていただきたいと思います。
大聖人は『守護国家論』という御書の中に、「世間の浅事すら展転多き時は虚は多く実は少し。況や仏法の深義においてをや」(全三六取意)ということを言われています。世間のことであっても、むしろ、真実よりもその偽りの方が伝わりやすい。その虚実の両方をよく冷静に考えてみると、ともすると、世法といわず、信心といわず、仏法のことといわず、世間の人は、他人の邪悪なことに飛び付きやすい、そういう習性、姿があると思います。しかし皆様は、
自分の心に適うか適わないかの問題じゃなくて、やはり信心の正しさ、正しい信心を求めるという上においては、一仏の真実の義に帰するということを、深く心においていただきたいと思うのでごさいます。
有名な大聖人の御指南の中に『唱法華題目抄』に、
「一切の諸人善心無く多分は悪道に堕つること、ひとえ に悪知識の教を信ずる故なり。(中略)法門をもって邪 正をただすべし利根と通力とにはよるべからず」(全八、一六)
ということをおしゃっておられます。ですから、自分がそういう悪知識に迷った、そして自分が真実の法の正邪に目覚めることが出来なかった、見極めることが出来なかった、その自らの不名誉こそ、よく深く反省をして、正しい信心というものは、どこまでも正しい仏の教導に従うべきものだいいうことを知って頂きたいのです。大聖人は、仏によって信を立て、またその仏の教法の正邪によって、それを物差しとして、また信を確立していかなければならないということをおっしゃっておられます。ただ自分の心に適うかどうか、あるいは世間の人がああ言ったから、こう言ったからというような小さな甘い小利益の誘惑や、世間の人が言う通力や、そういうものに惑わされてはいけないということを大聖人様は教えておられるのであります。
そして、真実のただ一つの正法は、厳然として、この世に存在しておるということを、そしてまた、それは一切衆生のために、われわれ人類のために、世界の広宣流布のために、大聖人様の、唯一の、一閻浮提第一の正法が、この世に存在していることを教えてあげて下さい。またそれを堂々と旗印として、そういう人達の「懲り懲りだ、懲り懲りだ」と言う人達の心根を打ち破って、折伏の一行に邁進していただきたいということを申し上げまして、本日の御挨拶とさせていただく次第でございます。御苦労様でございました。
(昭和六十三年六月二十六日)